機械越しの招待状
「ったく……彼女が休みだからって俺らのとこに来やがってよー。さては寂しがりやだな?」
四つ固めた机の上に弁当箱を置いた
「いいだろぉ? お前らだって寂しかったくせにぃ」
「まあ、先週から
頬杖をついてC組の教室を見回した
先ほどE組に迎えに行ったとき、すでに
響弥が留守の間は清水たちの元に一人で行っていたそうだが、わざわざ個人トークやグループトークで行く行かないを伝えるよそよそしい仲でもないため、メンバーも渉の状況を把握していないようだ。その優等生こと
「それどうした?」
焼きそばパンを食す響弥の手を見て柿沼が指をさした。絆創膏の貼られた右手の人差し指と中指のことである。
響弥は、朝の自習時間がはじまる前に清水とゴウにも訊かれて答えた話を繰り返した。
「料理しててやっちまったんだよ。包丁を滑らせてザクーッ!」
「マジで? 響弥って料理すんの?」
「いやぁ、奥さんが動けないときに支えてあげられる旦那になりてえじゃん? 将来子供を持つことを考えるとさぁ」
「あー、はいはい。ノロケノロケ!」
もういいとばかりに苦笑して顔の前で手を振る柿沼。あのいたずらをした奴が特定できていない以上、下手に話すのは危険と判断して、彼らには嘘八百で通している。
ははは、と笑う響弥の横で、清水が今にして「ん?」とその違和感に気づいた。
「響弥って右利きじゃね? それで怪我したん?」
言われるであろうと予想していた指摘に、響弥は難なく頷いた。
「持ってるときじゃなくて、まな板に置いてて怪我したんだよ。気づかず後ろに手を回したら包丁の刃先に触っちゃって……って、朝言わなかったっけ?」
「おう、今知ったわ。ドジっ子だなぁ……」
響弥は作り笑いを浮かべて、「俺もそう思う」と同意した。さらりとついた嘘がきっかけの身から出た錆はなんとか誤魔化せたようだ。
彼らは響弥のことを右利きだと思っている。それは響弥自身が『設定』したことだから、『神永響弥』が右利きであることは『事実』だ。しかしそのことをつい忘れて適当を言うと、こうして綻びが生じる。
そもそも料理自体が嘘だから、真実を告げるときが来たらあのいたずらのことを言うとしよう。
「噂の彼女は風邪とか?」
ミートボールを飲み込んだゴウが、響弥とE組の柿沼に視線を送って尋ねた。「先生は何も言ってなかったな」と柿沼は響弥に答えを求める。しかし、
「あー……俺もちょっとよくわかんなくて」
「連絡してねえの?」
「できないんだよ……携帯、今俺が持ってるし」
「え?」と声を揃えるいつメンの三人に、響弥はその経緯を伝えた。
「金曜日に拾っちゃって、そのまま。今日渡せるかと思ったんだけどなぁ」
「それ本人も困ってるんじゃない?」
響弥は緩く心配を仄めかすゴウに「うん、たぶん」と渋い顔で返した。
『私たち……別れたほうがいいのかもしれませんね』
あの日最後に聞いた芽亜凛の言葉が蔓のように絡まって心をきつく締め上げる。気を抜くと沈んだ顔つきになってしまう、よくない傾向だ。
芽亜凛の休みを知った今朝、どうしてあの時すぐに追わなかったのだろうと後悔した。急いでバス停まで走れば彼女に会えたはずなのに。そうすればまだ、機械でできた確かな繋がりを保てたはずなのに。
何十回と押し寄せた不安の波がさざめき立つ。このまま会えないなんてことないよな? 俺のことが嫌になったとか、そんなことないよな――?
いや、きっと嫌がらせが原因だ。それが嫌になって、少し疲れてしまったんだろう。帰りはE組の誰かがノートのコピーを届けるはずだ。彼女と付き合っている身として自分が行くよと言えば、引き受けられるはずである。
「響弥、響弥」
帰りのことを考える頭の隅で柿沼の間延びした声が大きくなり、響弥はそこでようやく自分のスマホが着信音を奏でていることに気がついた。
「あ、わりぃ」と一言詫びを入れ、ポケットから引っ張り出す。どれくらいの間気づかなかったのか、クラスメートの何人かが迷惑そうに目線を向けていた。
鳴り止まないスマホ画面に表示されていたのは、非通知設定。流れるように電話を切ると、ポケットにしまうまでの間に再び着信音がはじまる。
やはり画面には非通知設定の文字が。クラスメートの視線に責められて、響弥は仕方なく電話に出た。
「はいはーい?」
『よお、神永くん。今昼休み? 彼女がいなくて寂しいよなあ?』
耳を突いたのは、機械で加工された声だった。
「あー……っと、誰っすか?」
迷惑そうな響弥の反応に、清水たちは訝しげに顔を見やる。電話越しからは耳が痛むような甲高い笑い声がゲラゲラと聞こえた。
『お前の彼女が今、どこで何してるか知ってっか?』
「は……?」
電話の主はケッケッケと促音気味に笑う。
『よーく耳を澄ませてみろよ』
変声機をミュートにしたのか、ブツリと電話を切るような雑音がした後、ザーッ……という静かなスノーノイズがしはじめる。そして、砂嵐の向こう側で、ぴち……ぴち……っ、ぱちん……ぱちん……と、柔い肉と肉がぶつかり合うような音が弾んだ。
響弥の意識が瞬間的に研ぎ澄まされる。マイクに直接触れたような
『五人相手にしてくれてるよ。つっても、童貞くんにはちょっとわかんねえか』
ははははははと、機械の声が笑った。視界がばちばちと明滅し、眼球から水分が蒸発する。
あっという間に危機感がメーターを振り切った。
布が擦れ合う、爪先が伸びる、筋肉が伸縮して動けなくなる。押さえつけられた四肢の痛み。苦くて酸っぱい布団のにおい。汗と、タバコと、男たちのにおい。
「っえ、ぅ」
身体を悪心が支配したとき、響弥は口元を押さえていた。手で塞ぎ初夏のしけった空気を吸うのをやめて、逆流した昼食を必死に胃の中に留める。乾いていた目に涙が滲んで溢れかけた。
「お、おい、響弥……」
肩に触れた清水の手を甲で弾いて、椅子がひっくり返るのも気にせず教室を飛び出た。男子トイレに駆け込んで、個室の便器で
変声機が耳元で笑う。
『はは、なんだよ、ゲロってんの? だらしねえな』
違う、これは俺じゃない。俺の、俺の記憶じゃない。
『場所教えてやるから、今すぐ一人で来いよ』
そう言って変声機は都内のビジネスホテルを指定した。一緒に楽しもうぜ、神永くん。その言葉を最後に、ぷつりと電話が役目を終える。
身体を包み込んだ温かな静寂に、響弥はだらりと腕を下ろした。遠くで椅子を引く音がする。黒板を走るチョークの音、読んだ本のページをめくる音。廊下を行き来する生徒たちの足音、話し声、人の気配。閉鎖された脳の隙間に、日常が、流れ込んでくる。
行かなくちゃ。心ではわかっているのに、折り畳まれた足は一歩も動かなかった。
俺は神永響弥……神永響弥……、芽亜凛ちゃんの彼氏……。
なのに、どうして、足が動かないんだ。
――情けないなぁ。
頭のなかで声がした。
――芽亜凛ちゃんじゃないよ。AVっぽかったし。
そう言うのはきっと、そう思いたいから。
――私が代わってあげてもいいよ、いつもみたいに。
響弥はゆるりとかぶりを振る。駄目だ、駄目だ。俺が、行かないと。
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