幻影に想いを
悲惨な初デートから二日経って、月曜日。
半袖制服姿の芽亜凛は、期末テスト初日を余裕で終わらせた。余裕と言っても、芽亜凛は期末テストを返されたことがないため、どれだけ正解しているかはわからないのだが。
毎度同じ答えを記入するだけなので、憶えている限りを尽くすのみである。
宇野や宮部が病院送りにされたという噂は、先週の火曜日の時点で囁かれていた。入院中であることは各クラスにだけ告げられたようだが、それも電波のごとく広まってしまっている。そして、神永響弥が停学になったこともまた――すべて事実であり、否定の仕様もないことだ。
けれど、これだけは違っていた。橘芽亜凛が何かしたんじゃないか、という噂についてだ。
誰がそんな馬鹿げた噂を広めたのかは知らない。が、芽亜凛が廊下を行き来するたび、生徒は慌てて散っていく。まとわりつかれるのも面倒だが、無遠慮に逃げ帰られるのもいい気はしない。これじゃ本物の不良生徒みたいだ。
これ以上悪い噂が広まらぬよう努めたいところだが――今ここにも、芽亜凛を探る者が一人いた。
「えっと、響弥に聞いても、心配するなの一点張りでさ、それで……なんで停学になったか、きみなら知ってるんじゃないかと思って……」
渉が声をかけたのは帰りのホームルームがはじまる手前、隣の席の凛がお手洗いに行っている最中のことだ。芽亜凛を教室の隅に呼び出した彼は、響弥が停学処分になった理由について知りたいらしい。
「暴力に暴力で返した、それ以外に理由があるとお思いで?」
腕組みをし、芽亜凛がそう返してやれば、渉は打たれたように冷や汗をかいた。芽亜凛は正直に答えたに過ぎず、渉も親友のことが気になるだけで悪気はないようだが。
「きょ、響弥が喧嘩したところを、きみは見たってこと?」
「……あまり思い出したくありませんね」
「ご、ごめん。でもあいつがそういうことできるとは思えなくて……」
渉は信じられないのだろう、神永響弥が暴力事件に関わるなど。
「別にそれでいいんじゃないですか」
「えっ?」
「親友のことを信じたいのならそれで。あなたが悔いないほうを選べばいいんですよ」
「……悔いないほう……」
ぱちぱちと目をしばたたかせ、渉はしばらく考え込む。もう話は終わりかと思ったそのとき、渉は予期せぬことを言いはじめた。
「悔いない選択なんて、あるのかな。……俺は……後悔してばかりだった。いつも、何度も――後悔してた」
過去を悔いるのは、なんだか渉らしくなかった。後悔しないよう本能で生きてるような彼が、こんなふうに深く反省しているのは。不思議で、異質で――底知れぬ違和感があった。
「いつも一歩、間に合わないんだ。スタートダッシュに転んだら、どんなに走っても、駄目なんだ」
渉は顔を横に逸して、窓の外を見つめている。その目の奥に真っ赤な轢死体がはっきりと見えて、芽亜凛は自分の目を疑った。
血を引く電車が通り過ぎてもなお、踏切の手前に伸びた手は硬直し、ぶるぶると震えている。助けられなかった、悲しみを込めて――
瞳の奥の幻影は、渉の長い睫毛がふわりと一度上下すると同時に消えた。今のはいったい、何だったのだろう。
「まあ、響弥が元気そうならいいよ。あいつのことで困ったら、俺でよければ、話聞くから……なんでも言ってくれ」
渉は不器用に微笑んで「じゃあ……」と小さく会釈をし、席へと戻っていく。敵対も疑心暗鬼もない、穏やかな渉と会話をするのは久しぶりな気がした。
彼にとって芽亜凛は、大切な親友との関わりを奪い、たった一日で付き合った女である。嫌われる理由は大いにあるだろう。なのに渉は、外野と違って噂に踊らされることもなく、無愛想だけれど友好的なまま。芽亜凛はてっきり嫌われているものとばかりに思っていたため、渉の様子は存外だった。
けれど、『中心』が芽亜凛になってしまった今、渉に甘えることはできない。もしその好意に応えてしまったら、監禁される可能性が彼にはある。
いや、誰であろうとだ。今後は関わり方を考えないと、茉結華の標的になるだろう。
――凛が自由になってくれてよかった。私のせいで人が死んでしまう……って、もう怯えることもないのね。
* * *
帰りのホームルームが終わった後、鞄を肩にかけた凛が芽亜凛を振り返る。
「芽亜凛ちゃん一緒に帰らない? ……響弥くんとこ行く約束してたりする?」
気を遣い、声を潜める凛に、芽亜凛は「ううん」と首を振る。
「えっと、お邪魔にならなければ、一緒に……」
おそらく一緒になるであろう
気づけばもう七月だ。千里がいる七月なんて、願って叶うものではなかった。二十日には夏休みに入る。そうしたら、茉結華の行動も制限され、少しの平穏が約束されるだろう。
凛と千里と行く夏祭り――花火大会は、きっとすごく楽しいはずだ。甘くてふわふわの綿飴を一緒に食べ、射的場では凛の腕が試される。千里の大好きな屋台のたこ焼きもあるだろう、おいしいものを求めて、仲良く並んで巡るのだ。
それから、海に行って海水浴に浸り、競泳ではないおしゃれな水着を着て遊ぶ。水をかけ合い、海水のしょっぱさに顔をしかめ、持参したビーチボールでパスを繋ぐ。帰りは日焼けした肌を見て笑い合うのだろう。
そこに、芽亜凛はいない。一緒にいることはできない。芽亜凛がいていい場所は、孤独か、神永響弥のそばだけだ。
――それでいい。それでいいって、決めたじゃない。
頷く凛を見上げて腰を上げたとき、
「あ、楓どうだったー?」
徐々に人が減っていく教室に響いたのは、
教室に入ってきた三城は、「どこにもない」と、不機嫌そうに天を仰いだ。その後ろから
「あーもう、遥香も手伝ってよ」
何か探しものだろうか。そう思った芽亜凛が尋ねる前に、するりと声が入り込んだ。
「楓ちゃん探しもの?」
C組からやってきた千里が、扉の前で首を傾ける。三城は振り向いて肩を落とした。
「……携帯、失くしちゃって」
「えっ!」と驚いた千里は視線を滑らせて、凛に目配せする。凛ちゃん今の聞いてた? という意味であろう。
「三城さん、探しものなら、職員室に届いてない?」
凛は一歩前に出て、委員長らしい的確な助言を施す。
三城は、凛とその後ろの芽亜凛を見て、「今見に行ったけどなかったんだよ」と眉間のしわを深めた。
携帯電話を失くした? 今回はよく失くしものが錯綜するなと、芽亜凛は自身の経験も含めて思案した。
「穂にも連絡つかないしねぇ」と桜井遥香はスマホを振る。その瞬間、三城はキッと桜井を睨みつけ、「ちょっと、ペラペラ喋んないでよ」と一喝した。
今の発言のどこに気が触れたのか、三城以外にはわからず、周囲のみんなはぎょっとする。いつもは叱られ慣れてへらへらしている桜井も、「ごめん」と素直に呟いた。
E組の今日の欠席者は二名。一人は入院中の宇野涼介、もう一人は椎葉穂だ。先生は風邪だと言っていたが、連絡がつかないとはどういうことだ?
凛は「さ、探すの手伝おうか?」と協力を提言する。
「いいよ別に、そんな手間」と三城は謙遜するけれど、その顔つきには迷いが見て取れた。
「――失くなったのはいつから?」
すかさず、芽亜凛は鋭く問うた。三城はムッと唇を曲げて、「金曜日」と目を吊り上げる。
「椎葉さんと連絡が取れなくなったのは?」
三城は怪訝な顔つきで答えを桜井にパスした。
「う、えーっと……日曜日からかなぁ?」
「グループトークには土曜日の夕方から、既読付いてないよ」と、安浦がこわごわと補足する。となると、椎葉穂と連絡が取れなくなったのは土曜日から。
芽亜凛は過去のパターンを脳裏に重ねた。三城楓からの呼び出しで向かった公園にて、茉結華に殺されたあの――
「とにかく、金曜日に立ち寄った場所を探そ? 三城さん、いいよね?」
「あ、うん……」
「凛ちゃんが言うなら、わたしも探すの手伝う!」
凛と千里はすでに帰宅を放棄して、携帯探しに乗り気のようである。視線は極自然と芽亜凛に集まった。便乗するしかない空気ではあるが、芽亜凛はそれよりも椎葉のことが気がかりでおずおずと頷く。
こうして六人による、携帯電話の大捜索がはじまった。芽亜凛は、三城のスマホを盗んだのは響弥かもしれない――と胸に不安を抱きつつ、
この輪のなかに自分の居場所がないことを自覚して、彼女たちの後に続いた。
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