すべて黒になる

 鼓膜に流れ着いた、ゴッ、とくぐもった鈍い音。骨が粉と化す激痛が全神経を蹂躙して、椎葉穂は何度目かの覚醒をした。


「あっあ、あぁあ……あぁ……っ」


 喉の奥から引きずり出された喘ぎ声はからからに傷み、頬は乾いた涙の跡によってピシピシと軋む。椎葉は灰色の天井を見上げて肩で呼吸をした後、唇の端を伝う唾液に歯噛みした。


「無視しないでよ椎葉さん。ねえー、可愛い? 似合う?」


 金槌を握り締めた神永響弥は自らの頬に指を差し、椎葉の目の前でゆらゆらと揺れる。

 椎葉穂は虚ろな瞳を下げて、自身の両手を目にした。親指を除いた計八本の指は通常の倍以上に膨れ上がり、赤や紫に色変わりしている。今しがた金槌が振り下ろされた右の小指も、すでに関節からぷっくりと変形していた。


 椎葉がいるのは鉄製の椅子の上。はじめて意識を取り戻したときから手首と足首をリングで固定され、身動きが取れない状態となっていた。

 あれからどれだけの時間が過ぎたのだろう。幾度となく指を潰され、その度に意識を失った。学校でのことをいろいろ質問されたのは記憶に新しい。


「タコみたい」


 粉々になった指に金槌を当てながら、神永響弥がくすくすと笑う。痛みも曖昧になった指は酷い熱を宿し、金槌のひやりとした感触も伝わってこない。


「あんた、だって……」


 普段から人間に擬態しているくせに。猟奇性を隠して、弱がっているくせに。

 苦し紛れに椎葉がぼやくと、白い髪の響弥はそのとおりだと言わんばかりにニコニコと微笑んだ。そしてまた、「響弥はそうかもね」と気の抜けたことをうそぶく。


「でも私は響弥じゃないし、このとおり正直に生きてきた。椎葉さんは? 今まで正直に生きてきた?」

「……正直……だったわよ……嘘は、ない」

「そうだね、嘘はついてない。でも隠し事をするのは正直とは言えないんじゃない?」


 響弥は残る親指を金槌でなぞり、椎葉の引き締まった膝の上で頬杖をつく。足が自由に動くのなら、顎を蹴り上げてやるのに。


「正直に言ってよ椎葉さん。椎葉さんに指示したのは三城さん?」


 ――こいつは、何回同じ質問をすれば気が済むのだ。

 響弥ははじめに、宇野と宮部に関わっていたかを訊いてきた。そのあとは昇降口でのカッターナイフの件、校舎裏での呼び出し、椎葉の知り得ていない催涙スプレー、迷惑電話、芽亜凛の家へのいたずら。次々に響弥は質問をし、指を砕く拷問を重ねた。

 私は指示していない、と正直に答えると、じゃあ三城楓かと問われた。わからない、知らないと答えると、やはり指を砕かれた。


「何回も言ってんでしょ……楓はそんな指示しない……家とか電話とか、私は知らないんだって」


 椎葉穂が関わっているのは、ホテルの一件と校舎裏での呼び出し。そして直接動いたのは、カッターナイフの仕掛けのみだ。


『ペン回しできないように指とか切っちゃえばいいのに』

 いつか三城楓が愚痴っていたことだった。だから椎葉は、叶えてやった。

 ――あんたの大好きな男が、あんたの言ったが原因で傷付いた。とは言え、あんたはどんな顔をするんだろうねって――観察したかった。


『あれ仕掛けたのは椎葉さんだよね』と神永響弥は断定的に言った。宮部たちがするような小細工ではなかったと、響弥にはバレバレだったらしい。


 橘芽亜凛が個人的に受けた嫌がらせについては、まったくと言っていいほど関わりがなかった。少なくともそれは椎葉たちのやり方ではない。

 三城は愚痴をこぼすだけで陰湿な嫌がらせはしないし、桜井遥香は悪質ないたずらはするものの、粘着質で面倒なやり方は好まない。そしてあの弱虫、安浦千織は悪事とは無縁である。

 やったのはおそらく、椎葉の知らないところで動いた、ほかの女子だ。


「どうして独断でそんな馬鹿な真似したの? 響弥や芽亜凛ちゃんが椎葉さんに何かした?」

「…………」


 答えは何もだ。何もしていない。

 響弥と芽亜凛が付き合おうと別れようと、椎葉にはメリットもデメリットもないし、興味が向くこともない。

 だが三城にとっては違う。ふたりが付き合ったことで、。あのふたりは、私の――何もしない親友を傷付けたのだ。


「答えて、椎葉さん」

「……私は私のためにした。楓のためは、私のため」

「友達思いなんだね」


 損な人、と響弥は憫笑を浮かべた。金槌は振り下ろされなかった。


「三城さんのこと、好き?」

「……質問、ばっかり。だから、モテないのよ」


 皮肉のつもりで言うと、響弥はふふっと鼻で息をして「何か質問ある?」と眉を上げる。自分に興味を持ち、訊かれたくて仕様がないように見えた。

 椎葉は指一本動かせない苦痛と、響弥に対する不愉快とで顔を歪める。


「……あんた、オカマだったの?」

「えっ?」


 響弥はぽかんと驚いて、頬杖を下ろした。「可愛くない?」と、頭に乗せたままのフリルカチューシャを両手で摘む。

 黒生地のワンピースに、白のフリルエプロン。椎葉が小指の骨折で飛び起きたとき、彼はメイド服を身にまとっていた。

 椎葉は片頬だけで嘲笑する。


「女装趣味の変態かよ……」

「趣味じゃないよ。でもしてみろって先輩が言ったからさぁ、土曜日の帰りに買ってきたんだ。どうどう? 似合う?」


 響弥はその場に起立し、片足のヒールを軸にして見事な一回転を決めてみせる。膝上スカートがふわりと広がり、黒と白の円形を作った。椅子に座っている椎葉にはそのスカートの中身が丸見えで――なんでパンツ穿いてないんだこいつ。

 土曜日と言えば椎葉を連れ去った日だ。あの日の帰りに買い物までする余裕があったというのか。鼻歌の幻聴が聞こえてくるようで、椎葉はおぞましさを感じた。


「サイコ野郎が……」

「真っ先に包丁を握り取る人に言われたくないなぁ」


 白い髪の神永響弥は空中で軽々と金槌を回すと、隣に置かれたテーブルから糸鋸を選んでチェンジする。テーブルの上には、テレビのなかでしか見たことがないような、ありとあらゆる器具が揃えられていた。


「斬り落とすなら親指がいいよね、二度と包丁を握れないよう。それとも薬指がいいかな、お嫁に行けないようにさ。ふふっ。まあこの指じゃ、指輪も嵌まらないけどね」


 響弥はくっくっくっくと肩を揺らして笑う。椎葉は乾いた口内を潤そうと唾液腺を刺激した。

 できることなら、今すぐこいつの頭に墨汁をかけてやりたい。強がる気持ちの一方で、椎葉の腕は痙攣しているみたいに震えた。

 ――私はもう、生きて帰ることはできないのだろうか。あの子と一緒に、お菓子を作ることは、もう、できないのか……。


「……は、」


 椎葉穂は、笑った。

 笑いながら、泣いていた。

 痛みでも悲しみでもなく、喜びに震えながら、涙を流していた。


「何?」

「別に……あんたが最悪な奴で、よかった」


 膨れ上がった自身の指を見つめて安堵した。三城楓わたしのしんゆうに、似つかわしくなくて、安心した。


 こんな最悪男とは気づけなかったけれど、――私の警戒は間違ってなかった。壊したい、引き離してやりたいという願いは、正しかったのだ。

 それを、彼女が穢れる前に、知れてよかった……。


 ああ、そうかと、椎葉穂は気がついた。私は自分のしたことが楓のせいにされたり、迷惑がかかるのが嫌なのではない。あの子の手が汚れてしまうのが、嫌なのだと。


 強いて残念なのは、あの子にこいつの本性を伝えられないことだ。この獰猛な化物の正体を、白日のもとに晒せないこと。

 でもそれは、私がすべきことじゃないのだろう。私はその糧となり、いしずえとなる。


 唇の端が震え、歯がカチカチと音を鳴らした。恐怖じゃない。これは恐怖じゃない、喜びだ。そう自分に言い聞かせ――


 響弥が鋸の刃を親指に当てたとき、椎葉穂は己の舌を噛み切った。

 ――楓、あんたは何もしないで。高みで愚痴をこぼしていればいいよ。


    * * *


 どこにもないねーと言う桜井に続いて、芽亜凛は多目的室を出た。


「部活は停止中だし、あと怪しいのは体育館と中庭?」


 先週のE組の動きを思い出しつつ凛が問うと、三城は「……そうだね」と渋い顔で答えを出す。

 三城楓は体育館掃除を担当している。中庭は体育館へのショートカットになっているため、休み時間外でも通る生徒が多いのだ。


「音も聞こえないね……」と安浦が小声で補助に回る。

「サイレントにしてた?」と訊く桜井は、何度も三城のスマホにコールを飛ばしていた。三城は「覚えてない」とかぶりを振る。


 少女たちが携帯探しに精を出すなか、芽亜凛は別の思考に耽っていた。椎葉穂のことである。


 金曜日は、神永響弥の停学処分が決定した日。故に、響弥と保護者は学校に呼ばれて来ていたはずだ。停学になったことを言いたくなかったのかもしれないが、彼は芽亜凛の元へ来ていないし、挨拶もしていない。

 どこぞの伝書鳩、もとい噂好きが、『神永響弥停学処分!』と言い広めていなければ、芽亜凛も知ることはなかった。


 もしもやましいことがあり隠していたとしたら、三城の携帯を盗ったのはきっとその時だ。5W1H中の三つ、いつどこでどのようにやったのかは不明だが、神永響弥ならやり遂げるだろう。

 そうして狙われたのが――椎葉穂。響弥ははじめから椎葉狙いで、三城の携帯を盗み出した。

 どうして椎葉なのだろう。彼女と芽亜凛の間に、接点はない。呪い人の法則に従って動くなら、芽亜凛と関わりのある者を狙うはずではないのか――


「橘さんって帰宅部なんだっけぇ?」


 不意に、桜井から質問を投げられ、芽亜凛はぱちりと焦点を合わせる。


「ええ、まあ……」

「それにしては運動神経いいよねー。前の学校じゃぁ何してたの?」

「水泳を……」

「へえー、いがーい! 成績は? すごかったの?」

「……まあまあよ」

「スタイルいいから、似合いそうだよねっ……遥香ちゃんは水泳どうだったの――?」


 ずけずけと追及する桜井をなだめるように、安浦が肩身狭くフォローする。水泳のことはあまり話したくなかったため、正直なところありがたかった。桜井は溺れる人の真似をして安浦を笑わせている。

 もしかして、宮部たちのことで訊かれたのだろうか。男子を半殺しにした噂が出回っている今、昔は何をしていたのか、と探りを入れられている――? 考えすぎだろうか。


 女子たちの笑い声が、人影少ない校舎に響いていく。唯一笑っていなかった三城はぴたりと歩みを止めて、振り向いた。


「あのさ、やっぱり分かれて探そう?」


 急に作戦を練りだした三城の方向に全員の視線が向く。集団行動に苛立ったように見受けられたが、誰も口を挟もうとはしない。


「委員長とちーで体育館をお願いしていい? 遥香とチオは中庭をお願い。あたしは橘さんと、図書室行ってくるから」


 え? と芽亜凛は目を見開いた。


「で、でも――」と続けた芽亜凛の反論を、同タイミングで発した桜井が遮る。


「楓、図書室なんていつ行ったの?」

「失礼ね、あたしだって図書室くらい行くっての。テスト勉強してたの、今思い出した」


 おまけのように付け足して、三城は胸の前で腕組みした。いがーい! とは言わずに、桜井は納得の行かない様子で「ふぅーん……」と唇を尖らせる。

 凛と千里は互いに頷き、「うん、手分けしたほうが早いかも」と賛同した。それは芽亜凛も同意であったが、しかし――


「じゃあ、あとよろしくね」


 二人の賛同が後押しとなって、三城はそれだけ言い残し、足早に廊下を進んでいった。四人がぞろぞろと階段を下りていくなか、芽亜凛は渡り廊下へと向かう三城の後を追う。


「三城さん! 私、三城さんの連絡先――」

「こないださぁ」


 三城は虚空に向けて声を張り上げた。ほかの二組は三城のスマホに電話をかけながら進んでいるだろう。

 しかし芽亜凛は、三城の連絡先を知らない。それは当然、三城自身もわかっているはずだが。


「ホテルで、何してたの?」


 三城は渡り廊下を進むさなか、首だけでぎゅるんと振り返った。元々の吊り目は狙いを定めるかのように据わって丸みを帯びている。敵対心のある時に見せる三城の目だ。


「どうしてそれを……」

「近場のホテルで暴力沙汰があったことなんて、みんな知ってるよ」


 メンバーと十分距離が空いたと判断したのか、三城は前を向き直り、進む足を緩める。知っているなら聞く必要があるのかと芽亜凛はうろたえた。やはり三城が尋ねたいのは、暴力事件の真相なのだ。


「……あの人たちがはじめたことだから、私は怪我を負わずに済んだの。私は何も、してないわ」


 部屋の隅で震えて、見守っていただけ。

 誰が何をしたのか詳しいことは省き、芽亜凛は真実を告げた。彼女らが知りたいのは、誰が悪いのかではなく、芽亜凛がやったのか否か――噂の真意を確かめたいだけだろうから。


「……スは……」

「え?」

「キスは……響弥と、したの?」


 三城は終始芽亜凛に背を向けたまま階段を上る。

 なぜそんなことを訊くのだろうと芽亜凛は訝った。まるで、思わず喉を締めて息を呑む。


「ホテルと言ってもビジネスホテルだから……そういうのじゃ、ないの」


 いくらホテルとは言えだ。暴力沙汰があった日に、軽はずみな行動を取ったと誤解されては困る。


(されたのはされたけど……あれもそういうのじゃない)


 あんなのは、ロマンも品性の欠片もない、場違いな行為だ。

 芽亜凛が三城の足元から視線を上げたとき、彼女は階段の一番上で踵を返して呟いた。


「嘘つき」


 ドン、と三城の両手がバネのごとく突き出され、芽亜凛の胸を正面から叩いた。細やかな前髪の影に覆われた三城の瞳が、宙に浮いた芽亜凛を冷たく見下ろす。


 ――あ、


 声を発する間もなく背中から階段を転げ落ち、芽亜凛の四肢は投げ出される。意識は不思議と明瞭で、なんだこれは、なんだ……これは……と困惑を繰り返していた。

 踊り場のフローリングが冷水のようにひんやりしている。首の感覚がなかった。手足も、切り取られたかのように動かない。


 ごぽごぽと血のあぶくを吐いた。喉に何か、刺さっているみたいだ。

 これは、骨……? 首の、骨……。


 理解が頭に染み渡ると、抵抗しようのない眠気に襲われた。ぼやぼやと視界の上下が白ずみ、これが最期だと直感する。

 嫌だ……。

 嫌だ――と、芽亜凛ははっきりと自覚した。


 私はまだ、にいたい……。ここで息をしていたい。


 それははじめて抱いた、今という幸せへの執着。


 足音が緩やかに遠ざかる。耳に綿を詰め込まれたみたいに、聴力が徐々に溶けていく。

 別の足音が複数近付いてきたところで、視界が完全にブラックアウトした。


 ――恋人の最期ぐらい、ちゃんと看取りなさいよ、馬鹿。

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