死者の声

 今年三十五歳を迎える数学教師、榊つくるは、生徒の居眠りも笑いに変えて許してくれる寛容な教師だった。

 いつも笑みを絶やさず、人当たりがよく、生徒にも気さくに接する。その姿は誰の目から見ても好印象に映っただろう。


 先生は毎年、二年E組の担任を受け持つことで有名だった。この時期になると、一年生の間でも二年E組の話題は上がり、意識は向いてしまうもの。

 E組にはなりたくないけれど、榊先生のクラスにはなりたい。別クラスの担任になってくれないかな。E組はごめんだったけど、先生の授業は好きだった。今年こそは三年に来てほしいね。

 春風に乗ってそんな声が、あちこちから聞こえた。


 榊創と二年E組の結びつきは、学校側から面倒を押し付けられているのではないか、と噂が立つくらい、切っても切り離せないものになっていた。安易チープな言葉で表すならば『専門』、『専属』。

 あの二年E組の担任など、誰も受けたがらない。面倒事はごめんだ。若い教師に任せよう。ほかの教師たちの顔にはそういった考えがありありと浮かんでいて、誰もがのクラスを敬遠していた。


 榊先生は嫌な顔ひとつせず教師の仕事を全うした。

 ――せんせぇ。なんで先生は毎年アレの担任なのぉ?

 ――嫌なら断ればいいじゃん。

 ――なんで三年に来てくれないの?


 生徒からの質問に、榊先生はこう答えた。


『あのクラスを受け持つのは先生にしかできないよ。先生はあのクラスが好きでやってるんだ。だから来年も再来年も、先生が二年E組の担任だよ』


 自分は好きであのクラスを――呪われた二年E組を――自ら受け持っている。

 なんていい先生なんだろう。応援したくなる。今年は何も起きないといいね。能天気な生徒たちはみな、先生の言葉を信じて疑わなかった。

 ――先生には何も起きないでほしい。

 無関係な生徒のなかには、あまつさえそう願う者もいた。自分がどれほど浅はかで不謹慎な考えを抱いているのか。

 無知な生徒は知る由もないまま、母校を去っていく。


『どうして先生は明るくいられるんですか?』


 悲劇を生み出すクラスを担任しておきながら、なぜ笑顔を浮かべていられるのか。ある不登校の生徒がこぼしたその問いに、榊先生はこう答えた。


『お前が笑わないからだよ』

 先生は、お前の代わりに笑っているんだ。


 今でも記憶の片隅で彼は笑う。


『笑うんだ、金古。笑いなさい。つらいときほど笑うんだ』


 そう言って先生は、俺の皮を一枚、また一枚と剥いでいった。


    * * *


 夢は三日目に突入し、いよいよ現実感が増長します。

 朝起きるたびに昔の家の天井を見上げていて、この夢はいつ覚めるのだろうと胸がざわつく。部屋の鏡を見て確認してみても、前髪は長く、背丈は小さいままです。


 目を開けても朝を迎えても、変化のない長い夢。徐々に時間の感覚が失われつつあるのを感じます。昔のように、今日も昨日も明後日もわからなくなる。

 昨日が一週間後で、明日が一昨日で、今日が一ヶ月後の世界にいるような気分になる。毎日が灰色に褪せていく。


 十年前とはいえ授業は退屈です。開き直って楽しめたらいいのですが、心のゆとりが足りてません。かと言って屋上でサボるほうが時間の流れは遅く感じるでしょう。

 結局、大人しく教室で過ごし、高校一年生の学業を復習しました。


 当てられた後余計な知識まで発言すると、先生に異様な目で苦笑され、休み時間にはクラスメートに「さっきの何?」と追及される。敬語でやり取りをすると眉をひそめられ、「なんか公務員みたいだな」と蜘蛛の子を散らして逃げられる。

 昼過ぎに実施された体育の授業では、マラソンで己の体力のなさに愕然としました。十も若いくせになんて貧弱な身体でしょう。二十六歳の俺のほうが断然動ける。

 まあ、鍛えはじめたのは警察官を夢見てからでしたからね。今からでも遅くないですよ、金古少年。


 十年前の長海さんにお愛して、いえお会いして、喜んでいた初日がもう懐かしいです。夢から覚めようとする気合が足りていないというのなら、俺はあとどれだけ思いを募らせ、現実に恋い焦がれ、この悪夢を彷徨えばいいのでしょう。

 長海さんは昨日俺に言いました。「亡くなる先生というのは?」その問いに俺は答えられませんでした。

 長海さんに、先生の話はできなかった。この学校に巣食う殺人鬼の存在を。

 そして今日、私が先生に殺されることも。




 先月夢に出てきた榊創の顔は、セピア色の射影がかかっていた。けれども、惜しくも数学の授業で遭遇エンカウントした素顔は明瞭そのもので、私の記憶の奥深くに眠っていた姿を色鮮やかに呼び起こした。

 すでに一度会ってしまっているため、今から行くことに緊張感も覚悟も勇気もへったくれもないです。下校前に先生に相談する生徒のように、軽い足取りで職員室へと足を向ける。

 先生の席には誰もいない。まだ帰りのホームルーム中でしょう。デスク前で待つとします。


 職員室には石橋いしばし先生や笠部かさべ先生など、懐かしの恩師たちが揃っている。石橋先生は今もお勤めになられているはずですね。十年後に戻れたら……ご挨拶したいな。

 逮捕された笠部先生の聴取は別府べっぷ班の担当だった。許されるなら、私もお話したかった。

 俺の知る、今目の前に見える笠部先生は、罪を犯すような人ではない。彼なりの執念と情熱を宿す人で、俺のつまらない愚痴にも付き合ってくれた。少なくとも、生徒に手を出すような教師ではなかったはずです。


 笠部先生と同様に、――

 そう考えて捜査を進めてきましたが、参りましたねぇ。証拠は俺の瞳のなかだけです。長海さんが気づいてくれることを願い待っていましたが、嵌められました。

 長海さんは大丈夫でしょうか。一人ぼっちで泣いたりしてませんかねぇ。


 まさかあんなことになるなんて……っと、猛省している間に榊先生が来ました。今は仕事よりも現実に目を向けなくては――間違えました、夢の内容に、です。

 先生は俺を一瞥して席に着くと、机の上に置かれた資料を取って手際よく鞄に詰め込む。一瞬交差しただけのガラス玉の瞳に、皮膚が粟立った。


「先生、このあとお時間ありますか」


 声の震えは、なし。大丈夫です。

 先生は振り向いて首を傾ける。「うん、どうした?」と、帰り支度をする手は止めずに。


「お話があります」

「このあと行くところがあるから……すぐ終わる話かい?」


 先生は俺の顔を見て、「そうじゃなさそうだな……」と付け足した。いったい何を読み取ったのやら。


「一緒に来るかい?」


 時にこの人は、教師らしくない提案を生徒に吹っかけてくる。そこがほかの教師と違って、心の距離を縮めるような錯覚を煽るのです。

 私が頷くと、榊先生は立ち上がり、付いてこいとばかりに手招きした。


「表から回っておいで」


 先生は車のキーを見せて、教員用玄関から外へ出る。私は生徒玄関から駐車場に回った。先生が手招きし車に乗り込んだため、私は助手席に座った。


「今から家庭訪問に行かなくちゃでね。よし、出発しようか」


 シートベルトを確認して、先生は車を発進させる。車内は無臭に近く、新車のような清潔感があった。何色にも染まらない榊創の本質が、五感を通して流れ込む。

 先生は――この場所で亡くなるんですね。


「話というのは何か相談、悩み事かな?」


 目元に柔和な笑みを浮かべて言う先生は、とても殺人鬼には見えない。笑ってもしわの出ない肌に、実年齢よりも若々しい血潮が通っている。

 先生の運転はとても丁寧で、スピードを出さず安全運転を心掛けているようです。車は学校を出て、住宅街へと進んだ。


「今年の二年E組は交通事故が一件、自殺が二件でしたね」


 切り出したのは赤信号に停車した瞬間でした。榊先生は眉をわずかに寄せて、こちらを見る。ハンドルを握る手に力がこもったのを感じました。


「ああ……そうだね。あまり言いたくない話だけど、残念に思うよ」

「これから向かうお家は不登校の生徒の、ですか?」


 先生は間を置いて頷いた。この生徒に教えていいのだろうかと、注意しているようです。


「休学にしろ退学にしろ、どのみち資料を届けにね。また元気に学校に来てほしいんだけどな」


 二〇〇八年の犠牲者は三名。そのうち、自殺として処理された生徒は二人。すべて呪い人に深く関わりのある生徒です。

 通常、クラスに根付く恐怖という圧力に負けて、自ら命を絶ってしまう生徒はゼロ人とは言い切れない。しかし、それが呪い人と関わっている生徒となると話は別です。

 それはこの、榊創の仕業だ。


 先生は一軒家の前で車を停めると、降りるかどうか訊いてきました。首を横に振って断ります。


「じゃあちょっとだけ待ってて」


 先生は鞄を持って小走りに家へと向かった。

 現在の二年E組では、不登校になった生徒が四人いました。うち三人は、榊先生が説得の末連れ戻したという。

 このお宅に生徒は今いないでしょう。精神病院に送られた先輩がいる――おそらくその人です。

 私と同じ、『経験者』であろう先輩。死のサイクルに心が負けてしまった人。


 先生は、まるで友達のように接し、フレンドリーに家に来てくれました。

 熱心に家庭訪問をしてくれました。時には晩ご飯を一緒に食し、夜までゲームに付き合ってくれた。先生のおかげで徐々に恐怖も薄れ、学校に行けるようになりました。

 全部、榊先生のおかげです――

 そんな生徒が、二年にも三年にもたくさんいます。まったく、誰のせいで毎日怯えて登校していると。


 かく言う私も、そのうちの一人です。

 四月に舞耶に殺された私は、三月に戻された。新しいクラスは曰く付きの二年E組。今年もクラスメートは消えていった。舞耶を失い、ついに矛先は私へ向く。


 ――今年、お前だろ。

 ――バカ、関わんないほうがいいよ。

 ――死ね。

 ――異端者。

 ――学校に来るな。


 私を罵倒したクラスメートは、その翌日亡くなった。

 みな私を恐れた。頼むから来ないでくれと懇願された。

 机に死ねと大きく書かれた。着替えがなくなるようになった。上履きに画鋲が入っていた。

 階段から突き落とされた。歯と指が数本折れた。

 橋から川へ落とされた。助けてくれと藻掻き叫んだ。たくさん水を飲み、たくさん水を吐いた。手足の感覚がなくなった。口から空気が溢れ出た。徐々に意識が消え失せた。

 私は夕闇の教室に座っていた。舞耶が目の前で、微笑んだ。


 舞耶だけは救おうと心に決めて、何度も二年生をやり直した。いじめっ子の手から逃れて駆け巡った。しかし運命の歯車は、何度やっても行く手を阻む。

 舞耶が死ぬ。助からない。俺たちは世界に否定されている。

 何度やっても同じだった。原因不明の突然死。私は世界を、自分自身を呪った。クラスを呪った。学校を呪った。

 私に関わるから人が死ぬ。それなら俺は独りでいい。一年間、家に閉じこもる。それで舞耶が救われるのなら。


 荒んだ心を癒やしてくれたのは榊先生だった。巡り続けの間、先生が敵になったことなんて一度もない。孤立しゆく私を気にかけて、励まし、いつでも相談に乗ってくれた。

 不登校になった後も犠牲者は出続けた。榊先生は毎日のように顔を出し、時にはドライブで私を外に連れ出してくれた。先生の家にお邪魔したこともあった。


『メテオって、周りと違っていい名前だね。先生も同じだよ。みんなからソウって呼ばれる。はじめましてで相手を出し抜ける、かっこいい共通点だろう?』


 理解してくれるのはこの世で榊先生だけだった。死にゆくクラスメートに心が麻痺していく間も、先生だけが私を守ってくれた。


「……と、思っていたんですがねぇ……」


 訪問を終えて戻ってくる先生をぼんやり見ながら呟く。先生はコンビニ袋を提げて車内に戻ってきた。「コーヒー貰った」と、先生は嬉しそうに歯を見せる。


「二本貰った。飲む?」

「苦いのは苦手です」

「そうか……」


 先生は残念そうに肩を落とし、「送っていくよ」と車を出した。


「先生、」

「んー?」

「誰に殺されたんですか」


 フロントガラスに、不可解な雨粒が落ちた。


「この車内で、先生は誰に殺されたんですか」


 雨粒が増えていく。先生はワイパーを動かしてそれを拭った。


「なんだ、ゲームの話か? 先生は生きてるぞ。今目の前で運転してる」

「……ですね」


 夢のなかなら、答えてくれると思った。

 先生は四年後、この車のなかで死ぬ。練炭による一酸化炭素中毒の自殺、と記事にはあるが、私はそうは思っていない。

 榊先生は殺されたのだ。神永かみなが家の関係者に。


「何がいい?」


 先生は自販機の前で停車して、窓の外をつんと指さした。

 飲み物なんていらない。私は早く答えを知りたい。


「私は十年あなたに苦しめられてきた」


 今もなお囚われている、榊創という呪縛に。


「先生が亡くなってしまったら、誰がこの呪いを解くんですか」


 瞳に私の姿が反射する。榊先生と同じ、無表情だった。

 先生は、ふっと口元を緩めて車を降りた。自販機で、傘も差さずにジュースを買って戻ってくる。


「そうだな、先生もいつか死ぬ。だから……今を楽しめばいいんじゃないか?」


 先生はそう言ってジュースを差し出した。


「幸せになる呪いだ」


 甘いコーヒー牛乳だった。


    * * *


 死ぬ覚悟で先生に接触したのに、おかしいですねぇ、生きてます。身体も命も無傷で、無事、家まで送られました。先生は私のように勘繰ってくる子供ガキがお嫌いなはずでしたのに。

 先生が生きている今の藤北は地獄です。でも先生が亡くなっても、状況は変わっていなかった。


 十年間。


 終わってなかったんですね、いっときも。十年間、あなたの後継者を育てて、今か今かと待ち望んでいる者がいた。


 どうしてあの場にいたんですか。

 どうして私を襲ったんですか。

 本当に――

 あなたは何年も前から、私たちの敵だったのですか。


 この夢から覚めたら答えてほしい。

 ねえ、

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