生か、死か
朦朧とする意識のなか、彼の狼狽する声だけがはっきりと聞こえた。薄く瞼を開けると、スマホを耳に当てている彼の赤い横顔が見える。
赤は、彼の白髪にも付着していた。
「……うん。今送った、それ。できるよね? 消せる? ……うん。……は? ルイスさんならできるでしょ、なんで?」
少年は落ち着きなく、部屋をぐるぐると回っている。
目覚めてみるとやはり頭部全体が鈍く痛んだ。私は手足を椅子の後ろに縛られ、コンクリートの床に転がされたままらしい。失血死しないよう頭に巻かれた包帯からは血が滲み出ている。埃と錆びた金属のにおいが鼻をついた。
「……は? ……あいつ……っ」
少年は舌打ちを鳴らし、裸足でドンドンと地団駄を踏む。
「使えない」
吐き捨てるように言って、「もういい、そっちに合流する」と指先でスマホを叩いた。誰が見ても苛立っているようにしか見えないその態度は、しかし焦りの色を含んでいる。
扉一枚隔てた先から少年少女の泣き叫ぶ声が聞こえたのは、どれほど前のことだろう。あれはまさに阿鼻叫喚の声だった。死に恐れ慄く者だけが発することのできる悲鳴。
しかし今は、何も聞こえてこない。人の声も、物音ひとつ伝わってこない。ただ、静まり返った人の気配だけが重く漂っていた。
あの扉の向こうには、いったい、どんな地獄絵図が広がっているのだろう――
再び舌打ちをしてようやく私に気づいた彼は、真っ白な頭髪を掻きながら迫りくる。私を椅子ごと起こして正面から睨めつけ、彼はにんまりと頬を吊り上げた。
「相棒は死んだよ、刑事さん」
笑う
嘘だ、と。心理的抵抗からではなくそう思った。私が延命されているのに、長海さんが殺されることはありえない。
彼は殺すタイミングを見計らう半秩序型である。数日間で感じたことだ。
段階を踏んで殺人を犯したい。計画を邪魔されたくない。ペースを乱されたくない。自分自身でストーリーを築きたい。そんな意思を、強く感じる。
嘘をつくのは、彼の状況があと一歩のところまで来ているからだろう。余裕がないから勝ちを得たい。安心感を得たい。私に絶望を与えさせ、少しでも自分を落ち着かせたい。追い詰められた鼠が猫を噛むように。子供の最後の抵抗だ。
「ざまあみろ。ざまあみろ。私に盾突くから……」
彼は言葉を切って下を向く。唇の端が引きつったように震え、返り血の付いた頬は涙で濡れた跡があった。電話越しの協力者がいても、彼はずっと孤独に見えた。
――
そう呼べばまた、『響弥じゃない』と否定するだろうから、口のなかで呟く。
この子は名前で呼ばれるのを嫌っていた。まるで別の人格のように振る舞い、けれどもその名前は教えてくれなかった。
彼はとても賢い子だ。私に関わるうえで生じるリスクを考えている。警察官を殺すことのリスクも承知済みだろう。頭ごなしには殺さない。
彼は深いため息をつき、ポケットからナイフを取り出した。本当はもっと遊びたいのに、親から駄目と言われた子供のように不満そうな顔。虚ろな目。
ナイフの刃先が私の左目に狂いなく向けられる。
――戦利品か。
夢に没入する手前、そんなことを考えた。
* * *
夢の世界、四日目。
今日は朝から小雨が降っています。日本列島に台風が接近しているようで、関東圏にも分厚い雨雲が発生している、と天気予報で見ました。
屋上から見渡す景色は、朝だというのに薄暗い。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、空にはどんよりとした暗幕が垂れ下がっています。街灯や看板の明かりがぼやりと浮かび上がって見える。淀んだ灰色の景色は、この鮮やかな
「私が唯一してこなかったことをしましょう」
閑散とした屋上にはむろん私しかいない。こんな雨の日に誰が好き好んで上るというのです。いじめっ子だって追ってきませんよ、まだいじめられてませんが。
というわけで、この屋上は占拠されました。私の独壇場です。雨が冷たいですね、風邪をひくことは……まあ、ないでしょう。
「私のリセットはいつも三月。つい三日前です。まだ二年生にもなってませんし、E組ですらない」
冷たい部屋でぐるぐる巡回していた彼のように、私も屋上を回ります。雨を吸い込んだ制服がどんどん重くなる。くれぐれも足を滑らせないよう気をつけたいですね。藤北の屋上に柵はありませんから。
「進級する前に死んだら、このチカラはどうなるか」
俺は、怖くてできなかった。
二年生に上がり、E組に在籍するまで――俺は一度も死んでこなかった。
まだ二年生でない今の私に、はたしてチカラはあるのか、ないのか。E組に入る前に死んだらどうなるのか。見極める前に死ぬのが怖くて、これだけはやれなかったんですよねぇ。
リセットせずに死ねるのか。死んだらこのチカラはどこへ行くのか。
「……よし」
頬をつねって痛覚チェック。鈍い痛みを感じますね。
台風が過ぎ去って気温の上昇を感じれば、一気に桜が花開くでしょう。美しい校庭を汚したくはないので、部外者は早急においとまします。
十年前に死にきれなかった、死に損ないの俺の墓場は、やはりここが相応しい。
低い外壁に足を乗せて準備完了。痛いのは嫌ですねぇ、無駄死にも嫌です。長海さんに顔向けできません。
目が覚めたら、病院のベッドの上がいいですね。俺の部屋の天井じゃなくて、知らない天井に迎えられたい。傍らには手を握る長海さんがいて……って、これは夢見すぎか。
戻りましょう、現実に。藻掻きましょう、十年後に。
夢から覚めるときです。
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