√9 終着編

プロローグ

最強の味方

 戻ってきた、と自覚したのは、身体の痛みが治まった頃だった。

 切り裂かれたのはこの身体ではないのに、残る痛みは幻肢痛のように波を打つ。死の痛みと感覚を和らげてくれたのは、いつも六月一日に降る雨だった。

 雨の冷たさが、痛みと血のぬくもりとを洗い流してくれる。


 努力は無駄にはならないと、教えてくれたのは猪俣いのまた先生だった。そうかもしれないと、あのときばかりは心が動いた。

 けれど、現実の希望なんて呆気ないものだ。今度こそはと期待して、頑張ったって奇跡は起きちゃくれない。祈りも虚しく容易く裏切られる。

 私には、誰も守れない。

 こんなにも、私は無力だ。ゼロに何をかけたところでゼロにしかならない。努力を重ねたって、無力は無力のままだ。大体において、それを無駄と言うのではないのか。


 考えながら歩き続けた。街灯に誘われる蛾のように、どこへ向かうでもなく光を求めてさまよい歩く。

 あの人に殺されたのは、これで三度目か。ほかの人に殺されたのは二回。自殺したのは三回だったか……未遂を含めればもっと多くなる。

 私に与えられた猶予は二日。この休日で転校を取りやめれば私は藤北の生徒ではなくなり、二年E組の呪縛からも解放される。

 呪われたチカラはE組の誰かに受け継がれるだろう。人を殺してバトンを渡さなくても、私はきっと無関係になれる。藤北での思い出も、徐々に忘れていくのだろう。


 全部、妄想だ。

 正しい答えはずっと前に出ていた。

 もう無理だ、と。

 もう嫌だ。やりたくない。もう、これ以上は無理だ。

 何度も思った諦めの言葉に、私はずっと取り憑かれている。私にはもう無理。できない。諦めようとするたびに、本当にいいの? と自問する。


 救えたのは一瞬だけだ。みんなのデッドラインを延長するだけ。それって救えたと言えるの? 不幸を先延ばしにしてエゴに浸っているだけじゃないの。

 最後にみんな死んでしまうのなら、ここで私にできることなんて、もう……。

 ふと思い浮かんだのは、りんの笑顔だった。


『これはね、私の得意技なの。芽亜凛めありちゃんにも伝授してあげる』


 千里ちさとの説得に失敗して、みすみす行方不明にさせてしまったその翌日。いつかの体育で凛に教わった護身術……。

 凛の笑顔は自信に満ち溢れていた。そして、私も。

 本気で守ろうと、本気で守れると思っていた。凛に護身術を教わったあの頃の私は、今よりもずっと行動力があった。誰かを失い、心が折れそうになったとしても、最後まで諦めまいと闘っていた。

 でも今の私は違う。きっと今なら、誰かが死んだ時点で、次への糧を見出す前に死ぬだろう。


 どうしてこんなときに思い出す、凛との記憶。諦めるなと、心が蠢いているのだろうか。

 心のどこかで、あの日のように強くなれ、もっと強くなれ、経験を積めと、抗っているのだろうか。

 これ以上――何を積み重ねろというのだろう。これ以上、何が必要だと……。


「馬鹿野郎! 死にてえのか!」


 すぐ脇で男性の怒号が聞こえた。「無視かコラァ!」と、誰かに向けて叫んでいる。

 白と黒が交互に続く足元から目線を上げると、目の前には鮮やかに光る赤があった。

 横断歩道……私は赤信号で渡っていたようだ。

 渡りきって、道端で膝を折る。


「冷たい……」


 唇の先だけで呟いた。――冷たい。身体が冷え切っている。

 傘も、手にしていた買い物袋も、全部置いてきてしまった。ここはどこだろう。わからない。ただ随分と歩いてきてしまったらしい。

 傘をさして歩く通行人が数人通り過ぎていったけれど、誰一人として私を見ようとしなかった。まるでそこにいないかのように、私の存在を無視して歩き去っていく。

 いや、見ていないのは私のほうか。どうでもいい。もう、どうだっていい。


「ふっ……」


 意図しない笑みがこぼれた。途端に、大粒の涙が溢れ出す。

 滴り落ちる雨を上書きするような、あるいは上書きされるような涙が流れ落ちていく。引きつった嗚咽が喉の奥から湧き出た。――私、何をしているんだろう。こんなところで、情けない。

 いっそのこと、透明人間にでもなれれば幸せなのかな。誰にも認識されず、友達なんかもできない存在として。

 世界から切り離されて、死んでしまいたい。


「う、うう……っ」


 どうして……。どうして私ばかり苦しむの。

 どうせ失ってしまうのなら、友達の優しさなんか知りたくなかった。まやかしの希望にしがみついて絶望を味わうくらいなら、最初から期待なんてしなきゃよかった。

 頑張らなきゃよかった。誰かのために身を犠牲にするなんて馬鹿げてる。諦めて、泣いて帰ってしまえばいいんだ。

 嫌いだ。この世界が。私を取り巻くこのシステムが。嫌いだ……大嫌いだ。


 泣いて、泣いて、声を大にして泣いて。それでも雨は降り止まず、世界を壊そうと叩き続けている。ザアザアからパタパタに音が変わったことに、私は数秒遅れて気がついた。

 見上げると、傘がさされていた。薄いピンク色の傘が。


「大丈夫ですか……?」


 と、耳を疑うような声がして、恐る恐る振り返った。

 凛がいた。

 心が作り上げたまぼろしかと思った。けれど、差し出された傘に落ちる雨音が心地よく鼓膜を撫で上げる。


「凛……」


 本当に、本物の――

 凛はきょとんと目を丸くする。ぱちぱちと瞬きをして、小さく頷いた。

 凛……。

 私が信じられる、唯一の人。

 そう、だった。


 凛が敵になったことなんて、一度もないんだ。

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