第一話

そして彼らは邂逅する

 お菓子売り場で苺味のチョコレートを手に取ると、横からわたるが「夜食べるの?」と覗き込んだ。

 凛は、「夜じゃなくても食べるでしょ」と肩をすくめてカゴに入れる。じゃあ俺も、と渉はポテチを掴み取った。


「うわ、太りそうー」

「同じだろ」

「ニキビできるよ」

「はいはい、できるできる」


 口では言いつつ、ニキビも肌荒れもなく高校二年生までやってこれたのは、お互い健康的な生活を送っているせいか。渉はもうふたつほどお菓子を選んで先にレジへと向かった。

 家では凛の母と、渉の姉の果奈かなが、食卓の準備をしている。今夜はカレーを作るということで、渉たち姉弟も招待した。

 幼馴染同士で食卓を囲むのは、百井ももい家と望月もちづき家の間では珍しくない、ごく普通の日常的なやり取りだ。


 梅雨らしい雨天にも関わらず、渉は凛の買い出しについてきた。二十四時間営業のコンビニは、時間を気にせず利用できるので助かる。家が近所ならばなおさら、足りないものを補うときに便利だ。

 雨嫌いの渉がこんな夜に外出するなど、普段であればなかなか見られない。近所とはいえ、凛を一人で出歩かせたくないという彼なりの優しさか。心配無用には変わりないが、何にせよ、自分のことを思ってくれているのだと思うと嬉しくなる。


 レジを待つ間、外から急ブレーキの音と男の怒鳴り声が聞こえてきた。馬鹿野郎! という声が妙に鮮明に耳に残る。

 何? と目で訴えかける凛に、渉は、さあと小首を傾げた。

 ――こんな雨の日に、口論だろうか。喧嘩ならまだしも、事故じゃなければいいけれど。


「もうできてるかな」

「カレー? まだ煮込んでる最中じゃない?」

「俺もハチミツ買った」

「渉くんちも入れてた?」

「予備だよ予備」

「何の予備?」

「凛の家になかったときの予備」

「おー。ナイスナイス」


 百井家では、カレーの隠し味にハチミツを入れている。母によると、これがなくてはうちの味が変わってしまう、とのこと。

 昔の人が醤油の貸し借りをしていたように、足りないときは幼馴染を頼るのがベストである。が、渉の家にはメープルシロップしかなく、こうして買い出しにやってきたのだった。


 コンビニを出ると、外はますます暗くなっていた。遠くに見える車のヘッドライトが眩しい。雨粒は大きく、傘をさしていても足や手が濡れてしまう。

 梅雨入りしたばかりの六月上旬の夜は、朝も含めてまだ寒い。薄手のカーディガンを着てきて正解だった。


 来た道を引き返そうと横断歩道にさしかかる直前、凛と渉は同時に立ち止まった。

 コンビニからは見えないが、電柱に隠れて女性がしゃがみこんでいる。信号を渡ってきたのか渡る手前なのかはわからない。

 後ろ姿だった。傘もささずに、ぐったりとうなだれている。

 凛は打たれたように反応して、後ろで渉がため息をついたが、構わず彼女に近づき傘を差し出した。面倒事はごめんだという警告とわかっていたが、それでも足は止まらなかった。

 少女は凛の傘に気づき、顔を上げる。


「大丈夫ですか……?」


 緊張をはらんだ声で、凛は問いかけた。

 若い、女の子だ。線が細く、コンクリートの地面につくほど長い髪が背中にべったりと張り付いている。

 彼女は凛を振り向くと、虚ろな視線をかち合わせた。真っ白な瞼がわずかに持ち上がり、黒目がちな瞳が悲しげに揺れる。

 綺麗な子だった。長い睫毛から水滴が垂れ、化粧っ気のない顔が泣いているように濡れている。すらりと長い手足は大人びて見えるが、顔立ちはまだ幼い。同い年くらいか、まだ未成年だと凛は察した。


「凛……」


 驚くほど掠れた声が、彼女の口から紡ぎ出された。しかし凛が驚いたのは、どうして私の名前を知っているのか。

 ――聞き間違いでなければ、この人は私を知っている。でも、思い出せない。


「えと……た、立てる?」


 凛は戸惑いながらも彼女の手を取り、支えるように腰に手を添えた。彼女の華奢な身体つきにぎょっとする。こんなに細い身体で雨のなか座り込んでいたなんて。

 彼女は凛に支えられながらよろよろと立ち上がり、再びこちらを見つめた。


「警察呼びましょうか?」


 凛が問うと、彼女は首を振って拒んだ。そして何か言いかけるが、濡れそぼった唇はすぐにつぐまれる。

 どうしたものかと考えていると、後ろからやってきた渉が、濡れないように傘を傾けてくれた。


 意外なことに、渉は少女を見ると眉を持ち上げて興味を示した。あまり感情を表に出すタイプではないのに――珍しい。


 彼女はちらりと渉に目をやると、先ほどよりも明瞭な声で「大丈夫」と答えた。連れがいるとわかって萎縮してしまったようだ。全然大丈夫には見えない。


「うち近いし来れば?」


 と、言ったのは渉だった。え? と、声には出さずに凛は仰天する。

 まさかそんな、知り合いに接するみたいな態度で渉が応じるとは思わなかった。人見知りの渉が、見ず知らずの……しかも女の子を相手に。

 だが彼女は首を横に振るばかりだった。


「一人で帰れる?」


 渉の問いかけに、少女は一拍置いて頷いた。


「待って待って、渉くん。知り合い? うちの学校の子?」

「いや知らないけど」


 知らない子を相手になぜそこまでフレンドリーなのだろう。少し高圧的にも見えるし、彼らしくない奇妙な馴れ馴れしさもある。

 凛は今ので『私は知らない。覚えていない』と明かしてしまったが、少女は別段気にしていないようだった。


「うちが近いのは本当だよ? シャワーなら貸すし、着替えていったほうがいいよ」

「タオル買ってくるか」

「うん、そうだね」


 話を進める二人に対し、彼女は視線を下げたまま応じない。凛は思い切って尋ねた。


「あの、お名前は?」

「……芽亜凛」

「めありちゃん?」

たちばな、芽亜凛」


 消え入りそうな声で彼女は名乗る。

 聞いたことがあるような、ないような。記憶の引き出しを開けてみても、これといった人物は見つからなかった。


「じゃあ行くぞ」


 渉は凛の荷物を預かり、先陣を切って歩き出す。凛は芽亜凛の横に並んでその背中を追った。

 薬局でタオルを買ってきた渉と入れ替わるようにして、今度は凛が向かう。服と下着と、そういった類は凛にしか用意できない代物だ。

 そうして二人は、雨に打たれていた少女を保護し、家へと招いた。片時も、彼女のそばから離れることはなかった。

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