絶望するにはまだ早い

 芽亜凛は、肩にかけたタオルが落ちないよう胸元で握りしめながら、玄関で靴を脱いだ。

 凛は、「大丈夫だからね。お風呂行こっか」と芽亜凛の背中を優しく撫でる。そのぬくもりに目を細めながら、芽亜凛は凛の家に上がった。


 すりガラス越しにカタカタと軽快な足音がして、白い影が大きく尻尾を振る。

 渉は先にリビングに出て、「ただいま、ニノ」と凛の愛犬を抱きしめた。ニノマエという名前の雌の中型犬だ。捨て犬だったという話を、以前凛から聞いている。

 その奥から「おかえりー」と女性の声が聞こえてきた。凛の母親だ。


 飛びかかりそうな犬を止める渉の横をすり抜けて、芽亜凛は凛の母と望月果奈の前に姿を現した。雨粒が垂れないよう気をつけつつ、「お邪魔します」と小さくお辞儀する。

 凛の母と、渉の姉。二人の視線が、凛と芽亜凛とを行き来しているのがつむじ越しでも伝わる。まさか娘が人まで拾ってくるとは思わないだろう。


「えっと……」


 どちらさま? と母親が続ける前に、凛は「私の友達!」と声を張り上げた。


「友達の、芽亜凛ちゃん。道端で大変そうだったから連れてきた。お風呂沸いてるよね? 着替えも買ってきたから、全部、大丈夫。私がやる」


 上擦った声で凛は言って、「行こっ!」と芽亜凛の背中を押す。大人に怒られる前に『自分でできるもん』と強がる子供のように。

 脱衣所に向かい、凛は衣装ケースの上に着替えとタオルを置く。


「ドライヤーはこれね。髪乾かすよね? 使っていいよ」

「……本当にいいの?」


 芽亜凛は尋ねる。お風呂や着替えだけでなく、家に上げてくれたこの状況を含めて。

 凛は「うん」と頷いた。「気にしないで」


「……ありがとう」


 凛は、えへへ、と照れくさそうに笑って、脱衣所を出ていった。

 芽亜凛は雨水を含んだ服を脱ぎ、着替えの入っていた袋に入れ替える。ひょんなことから凛の家まで来てしまったが、さすがに洗濯物まで任せるわけにはいかない。

 浴室に入ってさっそくシャワーを利用した。流れ出す水は最初こそ冷たかったものの、すぐに温かい湯に変わる。

 頭からシャワーを浴びた。まとわりついていた冷気が洗い流され、雨のなか歩いてきた身体が芯から温まる。じんわりと熱が染み込んで、冷え切った手足の指先まで血が巡っていくようだ。

 芽亜凛は瞳を閉じて、深く息を吸う。


(温かい……)


 けれど、心に刻まれた悲しみは癒せない。

『友達』という甘い言葉の響きさえ、今の芽亜凛には毒にも薬にもならなかった。

 ――期待しない……期待しない。私はもう、期待しない。

 そう思う反面、自分にはまだやれることがあるのではないかと考え込んでしまう。あるとすればそれは……そう、このだ。


 ネコメは、リスタート地点はその者にとっての大きな分岐点だと言っていた。彼の場合は特進クラスに行く選択肢。芽亜凛には転校を取りやめる猶予が与えられている。

 だが、はたしてそれだけだろうか。

 今日という今日。六月一日のあの時間帯。道端で、凛と渉に遭遇した。同じ日の同じ時間帯に、彼らも外へ買い出しに来ていたのだ。

 これを偶然と呼んで終わらせられるか? 芽亜凛はあの二人に出会うために、『六月一日の夜』に飛ばされてきたのではないのか。――そう考えたら、自然とここまで足を運んでいた。


(でももう、期待はしないわ)


 闘う気力は熱とともに冷めてしまっていた。でもまだ抗う。まだ自分にできることが、やれることがあるのなら。

 はじまりから抜け出すためには、どんな可能性も探らなければならない。

 ――この可能性にかけてみようと思う。

 私はまだ、絶望していないから。


    * * *


 芽亜凛がリビングに戻ってきたのは、四人でカレーを食べている最中だった。

 シャワーから出てきた彼女は見違えたように綺麗になっていた。身なりだけでなく顔色もよくなり、凛が用意した安い柄物のスウェットも、彼女が着ると上質なものに見えてくる。

 凛はごくりと嚥下して、こっちこっちと手招きした。


「夕飯食べれる? もう食べちゃってた?」


 口元を隠しながら訊くと、芽亜凛は「ううん」と首を振った。すとんとまっすぐ収まった髪がなめらかに揺れる。

 凛は「よかった!」と両手を合わせ、「どうぞ座って」と空席に案内した。本来それは凛の椅子だった。まだ仕事から帰っていない父の席には凛が座り、その隣には母が、向かいには渉と果奈がいる。

 芽亜凛は凛のもう片側の隣に腰掛けた。五人でダイニングテーブルを囲み、カレーを用意して召し上がれと合図する。サラダは追加できなかったが、カレーなら明日の分までたっぷりとあった。


「いただきます」


 芽亜凛はスプーンでカレーをすくい取り、おずおずと口に運ぶ。舌の上で転がすように味わい、飲み込んで、そして「おいしいです」とはにかんだ。

 ほっとした空気が流れるなか、


「芽亜凛ちゃんっておんなじクラスの子?」


 無邪気に尋ねる母に、芽亜凛は「はい」と淀みなく返事した。


「と言ってもまだ、藤北の生徒じゃないんです。月曜日に転校してくる予定で、クラスは凛と同じE組です」

「んーっ! そうなの? じゃあ渉くんとも同じねぇ」

「あ、そうっすね……」


 視線を送られた渉が気まずそうに答える。凛は自分に質問が飛ぶ前に、「部活は何部に入るの?」と話題を逸らした。


「できればマネージャーに付きたいなって。前の学校ではいろいろと大変だったから……」

「そうなんだ……。芽亜凛ちゃんがマネージャーだったらみんな喜ぶね、特に男子は喜ぶよぉ」


 芽亜凛はにこ、と口角を持ち上げ「このカレーすごくおいしいです」と母の目を見た。

 母はドヤ顔で「ハチミツがね、入ってるのよ」と自慢げに語る。芽亜凛は大きく頷いて、具材や肉の柔らかさについても褒めはじめた。

 話の逸らし方が凛よりもうまい。――部活。前の学校。もしかして、あまり触れないほうがよかったのかなと、凛は密かに苦笑した。




 家族の会話に相槌を打ちつつ、芽亜凛はときおり微笑んで聞いていた。自分の話になるときは控えめに答えていた。

 食後、食器の片付けを手伝ってくれたのは芽亜凛だった。「これくらいはやらせて」と、彼女は率先してキッチンに入り、洗い終えた皿を凛に手渡す。隣に立つと、凛と同じボディソープの香りが鼻腔をくすぐった。

 しっかりしてる子ねぇと感心する母に、「そんなことないです」と芽亜凛は謙遜する。そして最後に、


「親御さん心配してない?」

「私、一人暮らしなので大丈夫です」


 最も不安だった質問には、そう的確に答えていた。

 凛とはいつから友達なのか、どこで知り合ったのか。空白に対する質問は、芽亜凛がうまくかわしてくれたおかげで飛んでこなかった。凛はこっそりと安堵して、


(そうか、転校生だったんだ)


 だから名前に聞き覚えがあったように、感じたのかもしれない。たぶん、職員室かどこかで聞いたんだ。

 芽亜凛も先生から凛の名前を聞いていた――そう考えれば腑に落ちる。いや、彼女の親しげな姿勢に理由はつかないけれど――


「じゃあ私らは先においとまするね。ごちそうさま、おやすみー」


 キッチンの凛たちに間延びして言って、望月姉弟は先に家を出た。

 母とニノマエが玄関先まで見送りに行く間、食器を洗い終えた芽亜凛は「凛、」と真剣な眼差しで凛を見つめる。


「私の話を、どうか聞いてほしい」


 鈍く輝くアメジストの瞳に吸い込まれそうになって、凛は思わず息を呑む。ぱちぱちと瞬きをして誤魔化して、凛は「うん、何?」と耳を傾けた。

 ――私はこの子の何に惹かれているんだろう。

 容姿? 性格? 雨に濡れていた悲壮感? そのすべてでもある気がするし、それとももっと、別の何か……。


 彼女のことを、放っておけないと感じるのは確かだった。したたかな存在感とは裏腹に、芽亜凛からはすぐにでも消えてしまいそうな儚い気配を感じる。その危うさが、凛の胸をざわつかせるのだ。

 ――変な子。だけど、強く惹かれる。

 やがて芽亜凛は静かに語りはじめた。にわかには信じがたい話を、淡々と。胸中から引きずり出すかのように。

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