オカルトはあるんですよ
――畜生、
(畜生畜生、畜生畜生畜生)
――しくじった!
女の鞄を引っ手繰って駆け出したまではよかった。はじめてにしては上出来だった。学生時代は中学高校と陸上部に属していて、体力と足の速さには自信があった。周辺に防犯カメラがないことだって把握済みだった。盗んで逃げる、それだけの簡単な犯行のはずだった。
しかし、男の逃げた路地で待ち構えていたのは、季節外れのモッズコートを羽織った明るい髪の男。
年齢は二十五の自分と同じか、少なくとも年上には見えない。『あんちゃん』『にいちゃん』もっと言えば『餓鬼』。辛うじて成人だと思えるのはスーツを着込んでいるからに過ぎない。童顔と言うよりは女顔の美形。髪色は白に近い金髪でまるで外人のようにも見えたが、しかしハーフという可能性も残されている。
とにかく、スーツにモッズコートと頭の白金髪が不釣合で、浮世離れしていて、まさに風のように現れた風来坊。両ポケットに手を突っ込んでいるにも関わらず隙がない。悠揚な佇まいがかえって不気味で、窃盗犯に恐怖を煽った。
狭い路地。道は一本。男は何を言うこともなく、隠していたナイフを取り出して見せた。震える手で握る様は素人同然で、はなから使う気がないのは明白であった。脇に抱えた女物のバッグを守るようにしてナイフを向け、その後は何と言っただろう。どけぇ! だった気がする。
威嚇して声を上げても、白金髪は動じずまっすぐこちらを射抜いてくる。カウンセラーや精神科医が向けてくる穏やかで仁愛深い目だ。この声が聞こえていないのか? まさか本当に外国人かハーフで、日本語が通じていない?
男は小さな脳みそをフル回転させ、引き返すことを決意。ところが振り向いて、回ったのは世界そのものだった。
目の前に広がる逆さまの世界。そしていつの間にか自分の背後に立っていたらしい、もう一人の男。こちらは白金髪と違って日本人らしい黒髪に、凛々しい顔立ちを備えていた。体格も厳かではっきりとしている。同じなのはスマートなスーツを着ている点だ。
今何が起きた? 思考する間もなく、逆さまの世界に映る誰かの片腕がひねり上げられる。瞬間、赤ん坊のような悲鳴が辺り一帯にこだまし、その声が自分のものだと理解するのに時間は要しなかった。
――ああ、と。男はようやく気づいた。こいつら、警察官だ。
飾りだけのナイフも、盗んだ戦利品も、二人の刑事によって呆気なく押収された。その後は被害者女性と対峙して軽く事情聴取をし、現行犯逮捕。
(まさかこんなところでポリ公なんかと出くわすとは……)
男は両手に掛けられた輪っかを見ながら、運がない、と落胆した。
「詳しいことは署でお聞きします」
刑事の片割れはテノールを発してニコリと微笑んだ。白金色の髪には、梅雨空の下でも煌めく天使の輪が浮かんでいる。
警察が髪の脱色や染色を行うなんて厳禁だろうし、本当に本物のプラチナブロンドだろう。そもそもヘアカラーのそれとは根本的に違って見える。宝石やブランド品でも本物と偽物の差異があるように、一目瞭然。窃盗犯の目からしても、上品さを兼ね備えた地毛であると認識できた。
もう一人の刑事――大の男を空中で一回転半させた横暴な警察官――は事情聴取を行なった後、涼しい顔をしてさっさと運転席に乗り込んでいる。冷たい男だ。一方が天使ならこっちは悪魔か鬼だ。
捜査車両の後部座席に乗せられた窃盗犯は、こんなのが警察なんて世も末だ、と勝手な歯噛みをする。男の隣には明るいほうの刑事が座った。
「白昼堂々窃盗なんて、お金目当てですか?」
シートベルトをつけようと身を乗り出した刑事に問われる。異彩を放つ風貌が至近距離まで迫り、その生白い横顔を見て思わず喉が上下した。
「……今ならやれると思ったんだ」
「ふうん」
つまらない答えに興味も失せたみたいな、適当な相槌を返される。緩やかに消えた笑みは何かを考えているようにも見えた。
座席に戻るとき、化粧をした女みたいに長い睫毛がふわりと瞬き、男はまたしても唾を飲み込む。
(いやいや、相手は男、警察官だ)
女みたいに甘い匂いもしなければ化粧臭さだってない――かと言って汗の匂いや男特有の体臭なんかも感じられない――存在が危ういほど無臭。ただ顔がいいと言うだけの話で、決して自分にそういった趣味は――
「今というのは時間帯ですか? それとも時事的な話で?」
車両が動き出した矢先、隣の刑事が口を開く。先刻の答えなどすっかり忘れてしまった窃盗犯は「……へ?」と呆けた声を漏らした。白金の刑事は虚空に向けて、お喋りを開始した。
「こちらがあなたを見つけたのは本当に偶然でした。見かけた直後に女性の悲鳴が聞こえてきましたし、まあそれで確信に変わったわけですが。となると前者ならアンラッキーでしたね、私からすれば幸運ですが。あ、でも
信じられないほど饒舌に話す刑事。窃盗犯は口を『え』の状態に開けたまま、目だけをきょそきょそと動かした。悲しくも視線が交差することはないし、隣の刑事の話も止まらない。
「長海さん今日のハヤオキ占い観ました? 俺見逃しちゃったんですよぉ……いつもは出勤前にチェックするんですけど。あれってぇ、ほら、一時間ごとにしかやらないじゃないですか。データ放送でも確認できないですし、いっそのことテロップでずーっと流してくれれば時間を気にせずのんびりしていられるんですけどねぇ。やっぱ視聴率? 視聴率ですよね? テレビ的にはそうですよねー、だって占い目当てでチャンネルを切り替える人もいますよ、俺みたいに。その時だけ上がってたりするんですかねぇ――あれ? というか長海さんって俺の誕生日」
「知らん」
隙をつき、運転している長海という刑事の低い声が三文字で制止にかかる。比較するとよほど無愛想な男に見えたが、今はその冷静さに救われた気分だった。――いやもうすでに突っ込むには遅すぎるくらいマシンガンを発射された後だが。
隣で前のめりになっている陽気な刑事は、まるで友達の話を親に披露する子供のよう。鬱陶しげにあしらわれても折れる様子もなく、むしろご機嫌そうである。
「ですよねえ、言った覚えないです。ああでも知っててくれてもいいですよ、俺誕生日覚えるのはどうも苦手で、言われてもすぐ忘れちゃうんですが十二星座は覚えてられるんですよねぇ。学生の頃朝のテレビ占いを記憶して、クラスメートの運勢をこっそり把握するってのが趣味でぇ――」
白金髪は一人激しく駄弁りながら快活に笑う。バックミラー越しの長海は冷めた目で聞き流しているようだが、こんな美人面をいつも独り占めしているのか。二人の間に介入できない男は惜しいような気持ちになった。
「その話聞くの、これで三回目だ」
「あっれぇ、そんなに話してます?」
「その返しを聞くのも、今ので九回目」
「え。いやいや、お爺ちゃんの話と思って付き合ってくださいよ。これ俺の癖なんですってぇ」
(じ、地獄か?)
とても口には出せないが。
男だが顔は上玉で、口を開けば多弁極まりなくて、よく言えば賑やかで、悪く言えばやかましい。ある意味では相当惜しい存在ではあるが、冷血な長海よりこいつのほうがヤバイということに気づいた窃盗犯は眉根を寄せた。今すぐにでも警察署に着いてほしい。
「長海さんってやっぱ記憶力いいですよね。あ、それともいつものメモ帳に記載されてる?」
期待外れの赤信号で止まり、長海はその問いを黙殺。キリとした顔には『するわけないだろ』と書かれている。
「記念日なんかも覚えてそうですよねぇ。俺なんか昨日も今日も全部同じに見えて……はあー、年ですかねぇ」
「俺は毎日が同じと感じたことはないし、昨日みたいのが毎晩続くなんて堪ったもんじゃない」
否定もしていないが肯定もしておらず、長海は疲れたようにため息をつく。
――昨日? 毎晩?
最近の事件のことだろうか、と外野ながら興味を抱いた。しかし二人の刑事から飛び出たのはいかがわしさ満点の話だった。
「気づいたらソファーの上でしたもん。上には美人さんが寝っ転がってたし……うーん、目覚めとしては悪くなかった。でも長海さんだけベッド独占しててずるいですよ」
「はあ……? 俺のベッドに他人なんて上げるか」
「えー? 相棒ですよ、他人じゃないです」
「はあぁ……」
「あー? まさか、ユキさん取られたことまだ怒ってたりして」
「だーまーれ」
(――!? 美人さん? ね、寝っ転がってた!? ま、まさか相方の恋人を寝取ったってのか!? とんでもない刑事じゃねえか!)
長海ももっと叱るべきだろう、なぜ平然としていられるのか。
(というか……どういうことだ、こ、こいつら一緒に住んでるのか? 刑事のくせに、そんなふしだらな関係があっていいのか!?)
目を丸くし仰天していると、隣の刑事がはじめて視線をこちらに向けた。
「取ったっていうか、ユキさんのほうから甘えてきたんですけど――盗みはよくないですもの、ね」
顔のよすぎる刑事は諭すように言って、日向にいる猫のように目を細めた。
「動機は何だったんです? ああ、喋りたくないなら無理にとは言いませんよ。どうせ向こうでも訊かれることですから」
その言い回しは心の内を見透かしているようで、ただ多弁だからという理由だけではないらしい。そうなるように誘導しているのか、窃盗犯はいとも容易く口を割ってしまう。
「ここのところ警察は呪われた事件で忙しいだろう。だから今なら、油断してると踏んだんだ」
「なるほど。逆にシビアになっているという発想は浮かばなかったわけですか、それはそれは残念です」
顎に手をやる様はまったくもって残念そうではないし、小馬鹿にされた気がして少しイラッときた。相手が刑事でなければ、その奇麗な顔を歪めてやりたい――そう思う窃盗犯には残念ながら彼らに見合う勇気も力量もない。
青になった信号に対応して、長海はフンと鼻を鳴らす。
「呪いなんてものはないし、事件は必ず解決させる。だが
長海は相方と違って非科学的なものは信じない主義のよう。占いなども嫌っているように見える。
最近とある学校で立て続けに起きている生徒失踪事件が、実は呪いのせいだというのはネット上で囁かれている話だ。ソースは有名なオカルト雑誌らしいが、話としては学校の怪談に相応しい。警察が呪いの噂を聞いているか定かではなかったが、今の反応からして周知のようだ。
「市民を守るのも警察の義務ですからね――でも」
右折したところで、煌めく刑事は嫋やかに言ってみせた。
「オカルトはあるんですよ」
その言葉を最後に、窃盗犯は最寄りの警察署まで送迎された。先ほどと同様に事情聴取されるのかと思いきや、刑事二人組は男を届けるだけして署を出て行った。見上げる空は雲行き怪しく、今にも降り出しそうだ。
「じゃ、引き続き捜査と行きますか」
「そうだな。その前に、言っておきたいことがある」
車に乗り込む際、長海が重々しい口を開く。一時は止んでいた雨粒がぽつりぽつりと降りはじめ、どこかでは轟音がしはじめる。二人は急かされるがごとく運転席と助手席に着いた。相方が「なんですか?」と促すと、長海は眉間にしわを寄せて言った。
「窃盗犯の前で家の猫の話をするのはやめろ」
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