久しぶり、だね

 畳の上で仰向けになりながら、渉は瞳を閉じた。表情は変えず、全身の力を抜く。そしてできるだけ腹式呼吸を意識して、腹部を動かす。

 人間、その人が極自然にやってのけることを『息を吐くように』と言うことがあるが、まさしく空っぽの頭でも行える行為、それが呼吸だ。空気を吸い、そして出す。身体に必要な酸素を取り入れ、不要な二酸化炭素を放出する。

 逆に、止めている間は必死に考えを巡らすことだって可能である。


 茉結華に監禁されて、今日で十日目。今ならもし発見されたとしても、まだ早期解決のうちに入るだろう。渉からすればようやく十日目であり、まだ十日目とも言えるのだが。それはきっと、時計もなく窓もなく、代わり映えしない風景が体感の破壊に乗じているからである。

 千里ちさと朝霧あさぎり、そして自分自身。茉結華は三件もの拉致を実行、関与している。彼が、響弥が、どう言い逃れているかは知らないが、街の防犯カメラの映像だって証拠になる。警察は必ず動いているはずなのだ。


 なのにまだ辿り着いていないということは、解析に遅れを取っているのか。

 思い浮かぶのはルイスの存在。茉結華に魅了され執着しているパソコンマニア。彼の手によって何らかの障害が生まれているとしたら……情報の撹乱に繋がる。

 もうひとつ考えられるとすれば、行方不明者の捜索よりも重要視すべき、茉結華の送った『腕』を優先して捜査されているということ。つまり今は朝霧しゅうの身元を調べ上げている――

 ならばなおさら、解決の糸口に繋がりそうなものだが。それともまた別の脅威があるのか。


 渉は考えるのをやめて、止めていた呼吸を自然に再開した。ゆっくりと息を吸い、静かな深呼吸をする。


(二分三十秒か……)


 本番は一度きり。しかもリラックス状態では行えず、演技もしなければならない。バレたら終わる、失敗は許されない。

 正直、後悔している。小坂めぐみを一人で行かせてしまったこと。あのとき、無理にでも付いて行くべきだったと。

 彼女は朝霧に会えたのか、その後はどうなったのか。茉結華は無事に、彼女を帰してやったのか。それとも――


 一方の可能性を考えると吐き気がこみ上げてくる。酷い後悔に苛まれる。自分が行くのが正解だった。行って会って、それから考えればよかったのだ。彼女を行かせるべきではなかった……。

 茉結華にはとても、恐ろしくて真実が訊けないでいる。聞いたら心が分裂してしまいそうで、だから彼女がくれた勇気を、今度は自分が実行する番だ。


「……遅いな」


 むくりと身体を起こして、渉は独り言を呟く。

 体内時計によると今は午後六時か七時頃。依然狂った感覚ではあるが、それでも茉結華の帰りは遅く感じた。

 早朝にベルトを抜き去ってから学校へ行ったのは確実だろう。帰宅部なのだから、用がない限りはもう帰ってきているはずだが、夕飯を先に済ませてから来るのだろうか。テストが近いことを考えれば、外で遊んでいる可能性も低いと思われる。

 部屋のペットボトルは二本とも空にしてしまったし、平日は夜の一食分しか与えられない。一食分と言っても、昨日みたいなことがあれば容赦なく抜かれるのだが。中途半端に与えられると余計空腹感が増すみたいだ。


(まさかまた誰か連れてくるんじゃないよな)


 ――まさか、な。これ以上、外の人間を招いて何になる? ただ痕跡を残すだけじゃないか。

 そう思った矢先のこと、扉のロックが外されるわずかな音が耳に入った。渉は顔を上げてそちらを注目する。


 静音の引き戸が開かれ、現れた茉結華は後ろ向きに、ずるり――ずるりと、を引きずってなかへ入ってきた。まさか、そんなまさか、という言葉が渉の頭を駆け巡る。

 茉結華は運んでいたそれを横たわらせた。その身長は二人よりも大きくて、しかしどこか小ぢんまりとしている。

 頭部から足の先まで力なくぐったりと置かれたそれは、髪は重力に従って無造作に垂れており、元はおそらく白色であろうシャツは、何で汚れたのか理解できない、茶色とも灰色とも取れる色になっていた。黒のテーパードパンツも、原型を留めていない。


 信じられないことに、茉結華は今日もまた誰かを連れ込んできたらしい。


「あー重かった」


 茉結華は疲れた様子で首を左右に回す。汗ひとつ浮かんでいない額を片手で拭って渉を見ると「えへへ」とにんまり笑った。――その手には昨日と同じように、影よりも暗い革手袋がされている。


「ただいま。いい子にしてた?」


 茉結華の無邪気さ含む声が、耳鳴りと一緒に右から左へと流れる。

 渉は彼の足元から目が離せないでいた。まさか、なんて予想はしていたけれど、当たるとも思っておらず。ましてや当たってほしいとも思っていない。

 連日続けての望まないサプライズ。しかし満腹になるどころか、衝撃は昨日よりも強くて真新しいものだ。

 だって彼は、この人は――見覚えのある人物だったから。


「……だ……誰?」


 思考に反して、渉は危ぶみの声を上げていた。見覚えのあるその人を、拒絶するかのように。

 対して茉結華は懇切丁寧に教えてくれる。


「会いたいって言ってたでしょ? だからほら……あー、まあ、だからってわけじゃないけど、連れてきてあげたの」


 ――嗚呼。昨日、確かに口にした。

 俺も会いたい、と。


「起きなよ、朝霧くん。人間だよ」


 茉結華はその肩を足先で突くように踏んで、ごろんと仰向けにさせる。まるでボールでも扱うかのような行いに、渉は思わず「やめろ……!」と叱責した。茉結華はつまらなそうに口元を尖らせたが、それ以上のことはせず足を下ろす。

 渉は唾を飲むのも忘れて、膝を擦りながら彼へと近付いた。彼だけを見据えて、尋ねる。


「……あ、……あさ、ぎり……? ……朝霧……!」


 連れてこられたのは紛れもない、変わり果てた姿の、朝霧修だった。上のジャケットはなくなっているが、間違いない――遊園地に行ったときの服装である。痩せ細り、いろんなもので汚れきっていて見る影もないけれど、朝霧修だ。


(本当に、いたんだ。本当に……)


 ――左手が、失くなっている。

 七分丈の袖から先がない。片方の手は健在なのに、左手は切り取られたかのようにごっそりと消失していた。袖先の黒っぽい染みは血が固まったものだろうか。なかは、どのような処置が施されているのだろう。


「あ、朝霧……っ」


 声にして、込み上げるものを抑えるように、渉はぎゅっと唇を閉ざした。視界のなかで、朝霧の開かない瞳が、素顔が、ぼやけて滲む。不用意に溜まったものが零れ落ちないようにと奥歯を噛みしめた。

 打撲、擦り傷、切り傷、それらで身体中蝕まれているというのに、顔を見れば彼だとわかってしまう。きれいな顔だ。傷だらけでも、汚れていても、海外製のドールみたいな端正な顔立ちは変わらない。


「こないだ訊いたんだよ。死ぬ前に何か言いたいことはって。そうしたらね、『人間と話したい』だって。こんなになっても口だけは達者で……笑えるよ」


 だから連れてきたと言うのか。渉は何が笑えるのかまったくわからず、ただ彼の名を呼び続けた。


「朝霧……、朝霧……!」


 まるで、死んでしまっているかのように動かない。もっとちゃんと見て確かめたいというのに、ぼやけた視界じゃ呼吸の見極めもままならない。


「わ、渉くん、あんまり近付くと汚いよ?」


 ――うるさい。黙ってろ。

 茉結華への苛立ちにエネルギーを費やしている暇はない。顔を近付けると、隙間風のような細い息をしているのがわかった。


(……よかった)


 生きている。朝霧が生きている。殺したと聞かされていた朝霧が、ここにいて、こうして息をしている。それだけがわかれば、十分だ。

 ほっとしたのも束の間。磁石のようにくっついていた朝霧の瞼が、スローモーションのごとく開かれた。


(あ――)


「朝霧……っ!」


 曇天のような瞳が揺れて、やがて渉のものと交差する。まっすぐ見つめ返してくる黒目の奥に、渉の姿が映っていた。


「……望月もちづき、くん……?」


 唇の先だけを動かして、朝霧はしわがれた声で言った。顔を近付けていなければ聞こえるかどうかも怪しい、弱々しい声量で。しかし認識してくれた、応えてくれた。その事実が渉の心のなかにとろとろと沁みていく。

 渉は、嬉しいのか悲しいのか判別できない感情のまま、小刻みに何度も頷いた。

 よかった、会えてよかった。生きていてくれてよかった。そう思う反面、喜ぶには度し難いほど、その姿形が痛々しくて仕様がない。

 殴られ刺され、首を絞められ、食事を抜きにされる自分程度のことが可愛らしく見えてくる。何が『よかった』だ。口にするのも憚られる。


(なんで、どうして……朝霧がこんな目に遭わなきゃならないんだ。なんで、こんな目に……)


 一人の人間に、どうしてこんなに酷く当たれるというのか。渉はうなだれて、嗚咽するのを唇を噛んで堪えた。

 それを見て、


「久しぶり、だね」


 ……遊園地以来だ、と。

 

 そうあることが当然であるかのように、表情を崩した。目も口も、はっきりと。普段どおりの、人に好かれそうな爽やかな笑みではないが、曇った眼で確かに笑ったのだ。

 ――わらう……?


「あ、ああ……うん。そう、だな……遊園地以来だ」


 ――こんな状況で、笑う……?

 渉は強張った顔でオウム返しした。自分でも気づかないほど呆気にとられていた。人知れず、絶句していた。

 こんな状況で笑えるのか――そんな、自然なふうに。

 もしも朝霧や千里、失ってしまった誰かの笑顔を見ることができたら、自分は泣いてしまうかもしれない。そんな思いは幻想に過ぎず、渉は口内に溜まっていた唾液をごきゅと飲み込んだ。目の奥から涙が引いていく。こちらを見つめる朝霧の顔からも、段々と表情が消える。


「元気、そうじゃ、ないね。……?」

「――――っ、……」


 ぞくり、と。冷え切った両手で二の腕ら辺を掴まれたような気がした。朝霧の両手は、身体は、少しも動いていないのに。左手なんかは、目に見えぬ場所へ行ってしまったというのに。

 彼はまるできょとんとし、気長に瞬きを繰り返している。

 渉はもう一度唾を飲み込んだ。暑くもないのに冷や汗は吹き出る。何を返せばいいのだろう、何と答えれば――彼の心を傷付けずに済むのだろう。

 そうして考えているうちに、乾いた土が潰れるかのように、くしゃりと朝霧は笑った。


「困らせちゃった、かな?」

「…………ぃ、や、……その……えっ、と」


 底のない穴みたいな暗く沈んだ朝霧の両目が、ただうろたえる渉の姿を映していた。彼は確かにこちらを見つめている。なのに、そこに朝霧の意思はなくて、本当はもっとどこか遠くを見つめているようで……。

 茉結華に首を絞められているときより、よっぽど息が苦しく感じた。


「ご、ごめん……今、頭んなかぐちゃぐちゃで……よく、整理できてなくて……」

「……悩み事? 僕でよければ、力になるよ」


 口を閉ざした渉の視界で朝霧は口角を上げる。そんな優しい問いかけにも渉は頷くことはできなかった。

 どうして、朝霧はこんなときでも優しい。肉体はボロボロなのに、精神状態に乱れがない。心に振れが生じていない。いいや、本当はとっくに狂っていて、気持ちが追いついていないだけなのか。これも一種の解離状態なのか。

 そんなふうに、優しく、笑いかけないでほしい。


 そのとき――カシャン、と。聞き覚えのある鋭い音が鼓膜を震わせた。

 振り返って見ると、思ったとおり。茉結華は伸ばしきった警棒を握りしめて、手のひらの上で弾ませていた。傲慢そうな目で、朝霧の頭部を見下ろして。

 茉結華は渉の視線に気づくと「ん?」と片眉を上げる。


「何? 続けなよ、お喋り」

「お前……それで、何する気だ?」

「渉くんの考えているとおりだけど?」


 毎度のごとく、茉結華は思考を委ねてくる。渉の反応を見て楽しんでいるのだ。クソ……と悪態をつきたくなるのを、渉は歯を噛み合わせてこらえた。

 ――わかっている。こいつが誰かを連れてきた時点で考えていたことじゃないか。

 茉結華は朝霧を、次のモルモットにしようとしているのだ。


「あのさ……」

「何?」

「……、


 低いトーンで一拍置いて、わざわざ名前を呼んでやった。しかし茉結華の表情に変化はない。平坦な目をして「なあに」と、声色を甘くして訊いてくる。

 渉は改まった様子でその場に正座した。


「あ、朝霧を……、助けてほしい」

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