それでも、俺は生きてほしい
当初、朝霧修にするという予定は茉結華のなかになかった。
決定していたのは親友の
転校生が女子だというのは噂で聞いていたし、学級委員という立場上しばらくは仲睦まじくやるだろう。放っておけば勝手に信頼を得てくれる。そうして膨らんだ蕾が花開く前に、その首を収穫する。――響弥が一目惚れしたのは計算外だったけれど。
朝霧のことは接触して一週間のうちに、ある程度調べておいた。接触と言っても、朝霧が遊園地へ誘うよりも、先に渉のほうが対象を誘っていたようだが。
偶然場所と日付が重なり、三人で行こうという話になり、余ったチケットで転校生が誘われた。なぜそこで『響弥』ではなく『転校生』を誘ったのか茉結華は不思議に思ったが。もしかすると、渉にチケットを譲り背中を押したのが転校生だったのかもしれない。
おかげで『三人と凛ちゃん』は遊園地を満喫し、渉と
閑話休題。朝霧修は特進クラスA組の学級委員であり、常に成績は学年トップ。その上どの生徒にも優しくて思いやりの心を持っていて、困っている人がいたら手を差し伸べる善良な生徒だ。教師からもほかの保護者からも抜群の信頼を得ていた、まさに絵に描いたような優等生――しかしそれは、表向きの話である。
実は家族とは不仲、家に帰っていない放浪息子。そういった話が、どうもA組生徒の間では有名らしかった。
だから遊園地の帰り、響弥が偶然出くわした朝霧を家へと招くのは容易だっただろう。茉結華にしてみれば、頭のいい割に警戒心のない大馬鹿者。それとも冒険家、か。
すべての物事には順序がある。はじまりが『生徒失踪』なら、第二ウェーブは『トラップ』。だが危機感を煽る仕掛けはもうやり尽くしてしまったため、次の段階として『ヒント』を与える。最後は『答え合わせ』だ。
別に男の泣き顔が見たいとか悲鳴が聞きたいとか、茉結華にそんな趣味はないが、とりあえず身体の一部を与えてやるのがいいだろう。本当は千里でやる予定だったが、急遽獲物が釣れたためそちらで行なった。
『泣いてもいいんだよ、朝霧くん』
『へえー。こういうときは、泣くのが正解なんだ?』
勉強になったよ。
彼は自分の左手が斬られるのを、能面のような表情で凝視していた。鋸の刃が皮膚を破ったときも、血が噴水みたいに吹き出た瞬間も、筋肉と骨をブチブチギコギコと断とうとしている間も――それ以前に、拘束され殴られ蹴られ、茉結華が道具一式を揃えようと目の前を徘徊し、刃を当てる前に失血死を防ぐための布と針金で前腕をぐるぐる巻きにしているその間も――ずっと、ずっと。
まるで観察されているようで虫唾が走ったが、さすがに斬られる痛みを与えれば変わるだろうと軽んじていた。甘かった。朝霧修は殴られても蹴られても、呻き声ひとつ漏らさなかった。
身体に刃を通されても最後まで意識を保ち続けた――なんて。頭がどうかしている。
その後、ルイスに調べてもらった彼の端末から驚くべき収穫を得て――茉結華は偶然目を付けた獲物がどれほど大物だったかを知り、同時に喜びにも浸った。そして確信した。
――朝霧修は異常者で快楽主義者だ。
「助けてほしい?」
茉結華が言葉の意味を聞き返すと、渉は背筋をピンとしたまま頷いた。
昨日という前例があるため、渉が助けを乞うてくるのは予想の範囲内である。朝霧を甚振って渉の精神を削ぐのもまた一興。だがこのまま彼の懇願する様を見るのも悪くない。さて何をしてやろうか、渉は茉結華に何を願うのか。
「具体的に、どうしてほしいの?」
茉結華が問うと、渉は唇を薄く開いてすぐにつぐんだ。こちらを見上げる目が四方八方に泳ぐ。悩んでいるというよりは言葉を探しているみたいだった。そしてあまり間を開けることなく渉は言う。
「俺みたいに……拘束と監禁、でいいだろ。何なら俺と……代えてほしい」
最後の一言のところで、茉結華は手のひらで遊ばせていた警棒を勢い任せに折り畳んだ。軽量のペットボトルを縦に潰すみたいに、一点に力を込めて。
それはむろん『いいよ、わかった、手を出さない』という意思表示ではない。音を立てるのも機敏に動くのも、威嚇と同等。渉の警戒心も強まる。
(代えてほしい、ねえ)
表情には出さないが、茉結華は憂鬱だと感じた。
「渉くん、何か勘違いしてない?」
腰のホルスターに警棒を収めつつ柔く指摘する。
「私は渉くんのことを殺さないなんて一言も言ってないし、監禁ならずっと前からしてるよ。あのね、朝霧くんは痛み止めを服用してないんだよ」
渉くんと違ってね――どういう意味かわかる? とまで言いたかったが、前半の部分だけ皮肉っぽく付け足す。
「見てのとおり左手はないし、両足はほとんど潰れてる……それで、もう一度聞くけど――助けてほしい?」
嘲笑して言っても、渉から返ってくる答えは絶対にイエスだと茉結華は確信している。渉はそういう人間だ。自分の身を案じない。それが朝霧のためにならないとわかっていても、助けたいという一心で動けてしまう。小坂めぐみへの罪滅ぼしのつもりか? まったく、狙い通りの罪悪感を抱いてくれる。
さすがに、脚まで折れているとは思ってなかったのか、渉は驚いた顔で目をしばたたかせる。それから悩ましそうに押し黙り、茉結華から視線を外して斜め後方にいる朝霧を見た。
視線が交差したのか、朝霧は予定通り微笑む。当然だ、朝霧は先ほどから、渉のことしか見ていない。庇護欲を掻き立てる子犬のような目は、しかし茉結華からすれば計算され尽くした狐の目。
(ああーあぁ、ムカつくなあ……早くぶっ殺してやりたいなあ)
おおむね渉は、今の朝霧のことを『心的外傷にやられてしまった』と考えているのだろう。
沈黙をイライラしながら見ていると、渉が答えを口にした。
「それでも、俺は生きてほしい」
こちらを向き直った目には一点の曇りもなかった。心から願いそれを望んでいる、覚悟が宿っていた。たとえ茉結華や、朝霧自身さえもが死を望んでいたとしても、渉だけは否定し生を願う。
茉結華は無意識に唇を噛んでいた。本当は嫌だ、怖い――と、
我が身可愛さに揺らぐ、渉の瞳が見たかった。
「じゃあ足舐めて」
茉結華は嘆息し、渉を見下ろして適当なカードを切った。渉は露骨に嫌そうな、それでいて物言いたげな顔を作る。反論なんて聞きたくない、茉結華は片足重心だった右足を前に出し、「舐めて」と追撃する。
「そうしたら……朝霧のこと、守ってくれるのか?」
この期に及んで『守ってくれ』とは、鼻で笑いたくなる。
「彼に渉くんほどの価値はないよ。けど……考えてあげる」
「……わかった。約束だからな」
「……」
約束、という言葉に酷い違和感を覚えて顔をしかめたが、渉はもう見ていなかった。
抑揚なく茉結華の右足に目を落として、きゅっと固く口をつぐむ。痣の目立つ喉元がこくんと上下したかと思えば、両手を床に付いて背中を丸めた。渉は本気で、こんな戯事に真正面から向き合い、受け入れようというのか。
(馬っ鹿だなあ……真に受けちゃって。私がそんな約束守ると思ってんの?)
それとも、信じているのか、茉結華のことを。
ありえないな、と胸中で蔑みながら茉結華は注視する。
ふわと温い吐息が足先、そして甲へとかかる。渉は行儀悪く舌を伸ばすこともなければ、特にためらう素振りも見せていない。だが慎重に甲に触れてから、ナメクジのように糸を引いて指先まで伝う――その様子を想像するとわずか数秒で邪心が疼いた。
しかし、その瞬間は訪れなかった。
「望月くん」と、明瞭な声がふたりの間を割って這入る。渉はハッと息を止めて、同時に動きをぱたりとやめた。茉結華の胸の素直な部分が『えっ――』と声を上げる。内側に灯っていた蝋燭がふっと消えた、いや消されたみたいだ。
「次は、水族館なんて、どうかな」
耳に這入るのは、もう一人の声。視界に映るはそちらを見て狼狽する、へたり込んだままの望月渉。茉結華は渉だけを見ていたのに――邪魔、された。中断された。そう理解が染み透る間に彼はもう振り返っていた。自分じゃない、朝霧のほうを優先して――
「あ、ああ……いいよ。水族館、俺も行きたい」
「よかった。きっと、望月くんも……気にいるよ」
(ふざ、け、るな)
「うん、うん……、そのときは、また四人で――」
ふざけるな――――っ!
頭のなかで真っ白な光が暴発して、茉結華は目の前にあった渉の顎を蹴り上げていた。渉は声もなく後ろ向きに吹っ飛び、背中を床に打ち付ける前に茉結華は飛び乗る。ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな! 頭のなかは同じ言葉を叫んでいた。
渉は薄く瞳を開いて、口を息継ぎするみたいにぱくぱくと動かす。脳震盪か、それなら無理やり起こせばいい。胸ぐらを掴んで揺さぶると、渉は「く、う」と低い声を漏らした。乱暴に離して倒れ込んだところを、今度は首元めがけて右手を絡ませる。
「私のこと無視してデートの約束? いい度胸だね渉くん」
沸騰するなかで発した声は自分でも驚くくらい冷静だった。その手に両手を添えて、渉はぎこちなく首を振る。取るに足らない抵抗だ。茉結華は絞める力に強弱を与えて意識を逃がそうとはしない。
無視されるのはこの世で二番目に嫌いなことだ。そうとも知らない渉は死物狂いで睨んでいる。
「ほら、お喋りするんでしょ? 早く続けなよ」
まだ喋れる程度には緩めてやっている。そんなに朝霧と話したいのなら遠慮せず、楽しくすればいい。
「な、ん……で」
呻く渉のそれは、茉結華に向けてのこと。
「まだ……やっ、て……ない、のに」
「約束は破るためにするんだよ」
そして先に破ったのは渉、お前だ。
――お前は私を裏切った。朝霧修を優先させた。『今はお前のことだけ考えていたい』そう言っていたのに!
そう、言ってくれたのに……。
茉結華は誰にも気づかれぬよう歯噛みする。
――なーんだ、あの言葉、結構刺さってたんだ。
渉は泣きそうな顔で、瞳を大きく揺るがせる。
約束は破るためにするだなんて。ただ一人、茉結華の言葉を信じ、果たそうとしていた渉にとって、その言葉はショックを与えるものだった。いくら渉が茉結華を信じても、茉結華は渉を信じてはくれない。そう思うと、涙が出そうになるのだ。
渉は首を動かし、奥で横たわる朝霧を目にする。彼も渉を見ていた。目が合うと、決められた動作のように静かに微笑むのだった。「朝霧」と、絞り出した声で彼を呼ぶ。
「俺、お前と……友達に、なりたかった。もっと、仲良くなって……もっと、いろ、んな、こと……」
口にする間に、茉結華の絞めつけが強くなる。渉の首から上に赤みが増していく。
「僕も、きみと……親しくなりたい」
暗くなっていく渉の視界には朝霧の表情は見えなかったが、きっと笑っていたはずだ。その声に応えるように顎を無理やりにでも引き、心ばかりに頷く。
あ、さ、ぎ、り……。もう声は出なかったが、舌と唇は動いていた。そして渉の、引かれた唇の端から唾液が溢れ出した、その瞬間、
「――」
茉結華の手が、バチンとブレーカーが落とされたみたいに緩んだ。渉は激しく咳き込み、精一杯に酸素を求める。百だったものがゼロに。なぜ? なぜ手を緩めた? 何があった?
疑問が生じているのは茉結華も同じだった。それを見て、目が点になっていた。渉は目に涙を浮かべたまま、その視線を辿る。
茉結華の足先に触れていたのは、朝霧の足だった。先がわずかに、ちょんと触れている程度だったがしかし、それ自体が信じ難いものだった。
「蹴っ、たぁ……? そ、の……粉々の足で……?」
茉結華の声は震えていた。声の中身は怒りが半分、恐怖が半分だ。
あれだけ鈍器で叩きつけたのに、骨の髄まで砕いてやったのに、ありえない……。絶対に、動くはずがない。動かせるはずがない――なのに……。
口のなかが渇いていく。こんな気持ちは久しぶりだ。渉のような猛獣とはわけが違う。やはり、
茉結華はゆっくりと顔をずらし、足先から上へと視線を這わせる。渉も同じように目を向けた。朝霧は虚ろな瞳で、やはり渉だけを見ている。口元には確かな微笑を浮かべて。
きっとこれは本能だ、本能が叫んでいるのだ。
――こいつは危険だ。早急に駆除しなければならない、と。
そう理解して、茉結華は無駄なく立ち上がった。頭のなかは冴えている。
狙いは一点に定めたまま、腰のホルスターに手を回して警棒を掴んだ。すると同時に、片方の足首を掴まれる。
「ち、近付かせない……」
足首を包み込むように握る渉の手のひらは力強く、蹴られても構わないという覚悟が見て取れる。死んでも離さない気か? 茉結華は半笑いした。
「渉くんは朝霧くんのこと、何も知らないから。だから、そうやって」
そうやって、庇うことができるのだ。
「本当は言うつもりなかったんだけど、でも、仕様がないよね。だって知らないんだもん」
「何の、ことだよ」
「
茉結華はできるだけ声色を落ち着かせて言った。自分の気持ちも落ち着かせたかったからだ。理性を保たなければ、渉に言葉は通じない。
「朝霧くんはね、そのサイトで全校生徒の情報を監視、把握してたんだよ。どういうことかわかる? 相手の弱みを握って、揺さぶりもかけ放題。人の個人情報かき集めて、支配して……さぞ気分がよかったろうね。ああ、もしかしたら渉くんだって知られてたかもしれないよ? 気持ち悪いよ」
「……」
今言ったのはまったくの真実だが、そのサイトが今は茉結華の手の内にあり、文字通り情報操作がされているとは教えない。
これを『嘘だ。朝霧はそんなことしない』と言うのは渉の勝手だが、そうなると取り払ってやらないといけない。朝霧に掌握されたその心を、除菌消毒してやらなくちゃ。そうじゃないと、渉が可哀想だ。
刹那の沈黙を挟んで、渉は口を開いた。眉を冷淡にひそめて、瞳はぎらぎらと鈍く輝いている。
「……だったら、だったら何なんだよ。そんなこと、朝霧が酷い目に遭う理由にならないだろ。たかが四人で行った遊園地で、嫉妬してんじゃねえよ!」
「っ……!」
はあ? と反論してやりたかったが、声が出なかった。
(――遊園地? 嫉妬? 誰が……? 私が?)
「やること、全部せこいんだよ。拘束して、動けなくして……甚振って……。何が楽しいんだ、笑わせんなっ!」
「違う!」
茉結華は全力で首を振る。渉の言うことは全部図星で、否定の仕様がなくて、それでも茉結華は首を振る。
「違うっ……違う、違う違う違う違う違うぅっ!」
――なんでそんなこと言うの!? 渉くんは私のこと思ってくれてるんじゃないの? 親友だって……こんな状況でも、馬鹿正直に言ってたくせに、大事なのは朝霧修なの? 全部、まやかしだったの? お願いだからそんな奴庇わないで……! そんな酷いこと言わないで!
脳みそに直接手を突っ込まれたみたいに、頭のなかがぐちゃぐちゃになる。矛盾だらけ、支離滅裂。呼吸が乱れ、茉結華はたったひとりで頭を抱える。ひとり――ひとりだ。いつだって自分は、ひとりぼっちだ。
――駄目だ。早く殺さなきゃ。
一変。獣のような唸り声を上げて、茉結華は強引に足を進める。渉を引きずってでも殺す。殺す、殺す、殺す。
「殺す!」
「朝霧――――っ!」
振り下ろした先で、何かが砕ける音がした。
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