守りたいからだよ

 ――間に合わない。

 そう判断した渉は引きずられながら上体を起こし、茉結華の足首から手を離すと同時に膝をバネにして跳ねていた。

 前方へと転がり込み、間一髪のところで朝霧の上に被さった渉の右肩に、振り下ろされた警棒が凶悪な一撃を与える。肉を打つ乾いた音に混じって、パキンと硬いものの折れる音がした。


「っ、うっ……!」


 痺れるような痛みが全身に襲いかかり、くらりと視界が極彩色に染まる。拍子に床に手をついたがそれだけじゃ保てず、渉は左肘を軸にして上体を支え、瞑っていた目を咄嗟に開いた。

 唇が、朝霧の前髪に触れていた。光沢のない大きな双眸がじっと見つめていて、渉の息遣いに合わせて長い前髪が揺れている。

 渉は、ぐぐぐと顎を上げて姿勢を起こした。満身創痍な朝霧の上に倒れるわけにはいかない。そうじゃなくても、今倒れてしまったら誰が朝霧を守るというのだ。骨の一本くらい、くれてやる。


「わ、わたる、く」

「――大丈夫」


 背後からした茉結華の言葉を遮り、渉は自身を奮い立たせる。

 茉結華の声は吐息混じりでどこか震えていて、渉が言うとひゅっと息を呑んだ。


「俺、結構、頑丈だから……心配、ないよ」


 渉はそう言ってへらりと表情を作る。この言葉も気持ちも全部、今この視野を独占している朝霧に向けてのものだった。もし渉が茉結華との間に入っていなければ、あの一撃は朝霧の頭部に狂いなく当たっていただろう――

 考えてあげる、と言っていたのに。あれもこれも全部嘘。茉結華は朝霧を救う気など、はなからなくて、思案する気もなくて、渉と入れ替えるつもりもなかったのだ。何を言っても無駄……ならばもう、身体を張るしか残されていない。

 昨夜とは違う。手足は拘束されていても、身体の移動は利く。骨が砕けたとしても、まだできる、まだ動かせる。

 死んでも朝霧だけは、守ってみせる。


「ね、ねえっ渉くん、そこっどいて? じゃ、じゃないと……ダメっでしょ? わ、悪いことでしょ? ご飯、また抜きになっちゃうよ……?」


 茉結華は先ほどからこんな調子だ。激怒してみせたかと思いきやしどろもどろ。しっかりと背後は取っているくせにわけがわからない。もう勝手にしろというのが、渉の正直な気持ちであった。――俺も勝手にするから。


「む、無視しないでよ……」


 弱々しい声と共に後ろの気配が動くと、渉の左肩にポンと茉結華の手が置かれた。


「っ――!」


 直後、言葉にならない激痛と、声にならない悲鳴とが甲走る。茉結華は思ってもみない渉の反応に驚き、反射的に手を引っ込めた。

 実際茉結華の挙動は力こそ入っておらず、鳥の羽が触れたみたいなものだった。けれど気配を警戒しすぎた渉の肩は大きく弾みを上げ、どこの骨が折れているかもわからぬ身体は痛みに支配される――

 渉は身を守るように肩をすくめた。それでも身体の震えは収まらず、下唇を噛んで声を殺す。


「望月くん」


 苦悶する渉の頬を朝霧の吐息が掠めた。心配も不安も抱いていない無感情そうな声とその表情が、渉をまっすぐ見据えている。

 ――そうだ。朝霧が見てる、こんなところで弱音を吐いてはいられない。


「……大丈夫だよ」


 渉はもう一度笑顔を作り答える。うまく笑えている自信はない。けれど、自分よりも弱っている人を前にして、へこたれるわけにはいかない。

 それに朝霧の顔を見ていると、少しだけ気が楽になる。痛みと焦燥から冷や汗は止まらないが、死に直面する恐怖は不思議と湧いてこない。きっと朝霧がずっと見ていてくれるから、だから心が頑張ろうとしているのだ。


「なんで……?」


 後ろから茉結華の呟きが聞こえる。なんで、渉くんは、なんで……なんでなんでなんでなんでなんで。

 呪文のようにブツブツと繰り返し唱えるそちらを、渉は振り向けないでいた。緊張やら警戒やらで背中に妙な汗が伝う。

 朝霧は再び、「望月、くん」と。


「望月くん……どうして、上にいるの……?」


 渉は瞬きしながら、朝霧の顔に目を落とした。

 上にいる――それは、どうして覆い被さっているのかという意味だろうか。それなら答えは簡単だ。渉は緩やかに微笑んだ。


「守りたいからだよ」

「……なに、を?」

「朝霧を」

「……どうして?」


 それは……、俺が――

 そう続けようとした渉が口を開けるよりも先に、


「なんで――――っ!」


 茉結華のヒステリックな叫びが二人の間を割る。同時に、渉の腰めがけて強い衝撃がぶち当たった。


「っ、ぐ……っ」


 突然の打撃に口から空気が漏れ、渉は握り拳を作る。


「なんで! なんで! なんで!」


 繰り返される茉結華の叫び声は、まるで電気を発しているかのように空気をピリつかせる。声を上げるたびにもう一振り、続けて二振り、三振り、四振り――渉の背中にぶつけられる警棒が唸りを上げた。


「無視しないで! 無視しないでっ! 私はここにいる! ここにいるのに!」


 なんで渉くんはそんな奴のこと――!

 継続して何度も、何度も。茉結華は壊れた機械人形のように警棒を振り続ける。いったい何がきっかけで怒りの沸点に障ったのか。

 心なしか茉結華の口調が荒れているのは、渉も感じ取っていた。朝霧に対して憎悪を抱いている……というより、独占欲に感化されて牙を剥いたか。


 打たれるたびに内臓が揺れ、視界が振れ、渉は歯を食いしばって持ち堪えた。背骨から腰まで、もうどこを叩かれても感じる痛みは同じで、徐々に手先が痺れてくる。

 瞳を開けると、やはりそこには恐ろしいほど整った朝霧の顔があった。渉はやり場のない笑顔を浮かべて「大丈夫」を言うと、先刻言いそびれた答えを口にした。

 どうして朝霧を守りたいのかって、それは――


「俺がそうしたいんだ。そうじゃなきゃ、俺が嫌なんだ」

「……、――」


 ぽたぽたと汗が数滴、渉の顔を伝って畳の上と朝霧の頬へと落ちていく。瞬間、その目が控えめながらに見開かれ、失われた光が戻ったように見えた。

 変化はもうひとつ。極わずかだったが、渉の顔だけを見続けていた朝霧の瞳が、数ミリばかり上に動いた。――その先から、声が降ってきた。


っ!」


 ドンッ――

 今まで受けたどの暴力よりも強い衝撃が、やってきた。

 胸部から右手の指先まで走る激痛。スローモーションのごとく離れていく、朝霧と渉の身体。

 後ろ向きに倒れた渉。振り下ろされた真っ黒い得物。

 朝霧の頭部が割れた音。

 渉と茉結華は揃って息を呑んでいた。直接的な痛みなど吹き飛ばしてしまえるほどのショックが、心臓の奥深くを撃ち抜いていた。

 ぐしゃりと崩れた朝霧の下に、ドス黒い血溜まりが広がる。


「あ……、あさ、ぎり……っ……」


 渉の目にいっぱいの涙が溜まる。喉から引きずり出した声は、届けたくても届けられないものだった。

 どうして――――どうして朝霧は、倒れている? どうして自分は仰向けになっている?

 身体に力が入らない、言うことを聞かない。朝霧が倒れているというのに、駆け寄ってやることができない。


 呆然としていた茉結華は我に返ると、血のついた警棒を慌てて腰に収めた。すぐさま朝霧の上体を抱え起こすと、潰れた左側頭部から滝のような血が流れ出てその顔半分を覆い尽くした。茉結華は自身もが血まみれになりつつ、その身体を引きずって部屋を出る。


「ま、待って…………」


 渉はしゃがれた声で懇願した。だけど、それ以上は続かない。

 声が、もう出ない。


(い、やだ……行かないで……連れて、行かないで……!)


 心はこんなにも叫んでいるのに。

 ――朝霧を、連れて行かないで……。

 霞みゆく視界のなか、扉は悠然にも閉まっていく。畳の上に投げ出された自身の指先が、何かを訴えかけるように、さながら瀕死の虫のようにぴくぴくと動いていた。手のひらを強く握り締めすぎたせいか、爪には血がこびり付いている。だがそれもやがては、床に縫い付けられて動かなくなる。

 芯まで冷え切ったこんな手じゃ、空を掴むことさえできなかった。

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