第六話

全然抜いてないでしょ

 六月二十七日、木曜日。

 十六歳にしては早すぎる午前四時に起きた茉結華まゆかは、シンクの前にいた。片手のペットボトルには入れたばかりの水道水が、ちゃぷちゃぷと揺れている。水を一口喉に通してうなだれた。

 茉結華がこの時間に起きるのは珍しくない。自身のセットに時間を要する茉結華にとって、四時台は的確な起床時間だ。元々眠りは浅く、アラーム不要の体質でもある。

 しかし今日は違う。目覚めたのではなく、飛び起きたが正しかった。


 Tシャツの色が変わるほど寝汗をかいてしまったため、今すぐにでもシャワーを浴びたいが、髪のコンディションを整えるときがベストなので我慢する。今は清潔感を保つよりも優先される欲がある。喉を潤すのもそのついでだ。

 ペットボトルを洗い直し、今度は水道水をなみなみに注ぐ。さらにもう一本、空のボトルに粉状の栄養剤を入れて水を注ぐ。両方ともストローキャップをつければ完成だ。

 ――はやく。

 早く、しないと、安心できない。


 茉結華は二本のペットボトルを抱えて足早にリビングを出た。外光を通さない廊下はリビングよりも陰りがあるが、明かりを点けなくとも茉結華が躓くことはない。

 自室のクローゼットを開けて奥に進めば見える隠し扉。暗証番号を打ち込んで、茉結華は目的地に着く。


 梅雨の蒸し暑さを除くべく作動するクーラーの前で、わたるは横たわっていた。気流に当てられ、髪の毛先がわずかに浮動している。膝を折り曲げて猫のように丸くなっている、暑いのか寒いのかよくわからない寝相だ。茉結華は引き寄せられるようにして傍らへとしゃがんだ。

 意外と長い下向きの睫毛。吹き出物ひとつないケアの行き届いた薄い肌。暗がりに溶け込みそうな学ランも、十日前から変わっていない、変わらせない。ただその横顔には、青痣と擦り傷が目立っている。襟から覗く首筋にも、袖から伸びる両手にも。腕が前に回されているのは一度起きたという証拠か。


「渉くん」


 呼んでも無反応なのは承知である。茉結華は首筋――ではなく、渉の頭に手をやって少し荒っぽく撫で回した。短くて硬めの髪がわしゃわしゃと指の間を出入りする。

 迷惑この上ない行いに、眠っていた渉は目を覚ました。即時、眼球がギロリとこちらを睨む。


「おはよぉ」


 茉結華がへらへらと表情を崩して言うと、渉の顔はいっそうきつくなった。起こしちゃった? ととぼけるつもりはない。起こすつもりで声をかけて乱暴に触れたのだ。

 渉は鬱陶しそうに頭を振って身体を起こすと、一瞥もなくトイレに向かった。その間に茉結華はペットボトルの入れ替えを行う。昨日のものは二本とも空になっていた。今日と同じく片方は栄養剤、片方は普通の水である。素直に飲み切るようになったのは嬉しい変化だ。


(あ……)


 また――トイレから聞こえてくる、苦悶する声と咳き込み。

 鍵なしの引き戸を開けてそっと覗き見ると、渉は便器の前で膝を折り頭を垂れていた。


 毎朝、渉は嘔吐に悩まされる。それは毎晩、茉結華が薬品で眠らせているからにほかならない。副作用だから仕方ないことだと口で言うのは簡単だが、当の本人は一切の助けを乞わない。それに対して罪悪感がないと言えば嘘になる。

 しかし茉結華は、茉結華である以上、手を差し伸べてやることはできない。苦しそうに上下する背中を摩ってやることも、自分にはできないのだ。その代わりのように、茉結華は取っ手を掴む指に力を入れた。

 胃液を出し切って、渉は振り向き様に茉結華に気づいた。すぐに目を逸らし、洗面台で軽くうがいを済ませる。トイレから出た渉がペットボトルを見やったとき、茉結華はそのがら空きの背中に飛びついた。


「!」


 勢いを殺さずにふたりして床に転がる。渉は呻き声にも似た低い声で「っ……何だよ」と苛立ちをあらわにした。背後から抱きつくようにホールドする茉結華は、左手を胸、右手を腹部に当てて離さない。

 渉の鼓動と呼吸が、手のひらを通じて伝わってくる。茉結華は確かな生を感じて、目の前の肩口に顔をうずめた。渉用の柔軟剤と、渉用のシャンプーと、密室なのに陽の光を浴びたような『渉くん』の匂いを吸い込む。


「……おい」

「渉くん、小坂こさかさんのこと訊いてこないよね。なんで?」


 茉結華はその状態のまま機敏に返した。

 昨晩、風呂に入れるためにこの部屋に戻ったときも、渉は小坂めぐみのことを訊いてこなかった。訊かれたら答えてやってもいい程度の気持ちだったため、茉結華は自発的に話していない。


「別に。今はお前のことだけ考えていたい」


 らしくない言葉だ。だが不覚にも、茉結華の心臓はぎゅっと締まる。

 茉結華は「ふーん?」と言って顔を上げた。渉はそっぽを向き、口をへの字にしている。


「言うようになったね」


 ――別に全然響いてないけど。

 狸寝入りはするし足払いも頭突きも繰り出すが、渉は嘘をつかない。なのでこの言葉も偽りではないと解っている。現に昨日は、適当に吹っかけた『好感度』について考えてくれたようだし、こちらの思惑通り意識してくれたみたいだった。


 ――から、目の前で殺したかったのに。

 そうすれば、こんなあやふやな状態にならなかったのに。

 渉は直感で動く男だ。知らなくていいことには足を踏み入れないし、余計な詮索はしない。小坂めぐみのその後を訊いてこないのは、彼の防衛本能か。


(肝心なことには鈍感なくせに)


 どうせ小坂めぐみを通じて知りたい情報はたっぷりと入手しているはずだ、と茉結華は予想している。例えば日付、ここへ来るまでの過程など。


「ねえ渉くん、全然抜いてないでしょ、手伝ってあげる」


 本来の目的に軌道修正するとしよう。茉結華は両手を渉のベルトに回した。固くて滑らかな革の表面を適当に指でいじくる。


「………………はあ!?」


 渉は時差で大きな反応を示した。


「ちょ、いや、待っ……冗談だろ……!?」


 嘘は言っていない――が茉結華のは狂言に過ぎない。渉はブラフのほうを理解したようだ。顔を蒼くして、手の甲を上から押さえてくる。けれど茉結華は動きを止めない。あっという間にベルトのバックル部分が解かれる。


「ほらほら、全力で抵抗しないと抜いちゃうよ?」

「いや、いっ意味わかんねえし!」


 渉は手だけでなく全身で抵抗を続ける。相当嫌がっているようだ、無理もない。当然の反応だと言える。

 しかし渉がいくら暴れようと、茉結華は密着して離さない。左手でスラックスの留め具を外し、右手でベルトループを一本ずつ外していく。


「やめろって馬鹿! 嫌だ!」

「なんで?」

「き、気持ち悪いだろうが……!」


 渉はもうベルトはともかくとして、下は脱がされまいと左手を押さえつけた。茉結華は大人しく手を止める。


「私は平気だけど」

「俺がよくないっ! ぅ……」


 半ば怒鳴り声を上げた直後のこと。小さく呻いたかと思えば、渉は首を上に向けて体勢を崩し、茉結華に体重をぐんっとかけた。茉結華はその隙にベルトをするりと引き抜く。


「渉くん?」

「……っもち、わる、い……」


 茉結華の遊びに付き合っていられないほど、顔色を悪くして訴えかける。首と額には冷や汗をかいていた。まだ吐き気が残っていたのか、それともぶり返したのか。自分のせいだという着想には、あいにく茉結華は辿りつかない。


「トイレ行く?」


 渉は薄く瞳を開いて「いい……」と弱々しく否定する。その手首に指を当てて脈拍を測れば、先ほどよりも荒れたリズムを奏でていた。

 茉結華は密かに思案した。今離れれば渉を一人、放置することになる。けれど自分が居るのはいい迷惑かもしれない――

 渉は乱れた呼吸を引っさげて、「……学校、遅れるぞ」と。人の気も知らずに後押しした。

 生意気なと思いつつ、茉結華は黙って立ち上がる。左手には空のペットボトルを、右手にはベルトを持って、振り向くことなく監禁部屋を出て行った。




 隠し扉をくぐると、渉が首を吊っていた。

 柱の手錠にベルトを引っ掛けて、不格好な低姿勢で。色の失せた白い顔も、紫色になった唇も、あまりに生々しくて鮮明で――

 誰かの処理をした夜は、決まって恐ろしい夢を見てしまう。何かに追い回される夢、誰かに罵倒される夢。刺殺される夢、銃殺される夢。

 だから昨晩も、覚悟をして眠りに就いた――なのに。

 

 茉結華は取り上げたベルトをぎゅっと握りしめる。さあ、支度の時間だ。

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