……ありがとう、望月渉くん

 明かりのない密室で、下着姿の女の子と二人きり。それだけ聞けば、ロマンスな展開も期待できる、かもしれない。けれど二人を包み込んでいたのは静寂と安堵。今しがた殺されかけたという場面でやましい気持ちなど持てるはずもなかった。

 茉結華が去って十分もしないうちに、小坂めぐみは隣で啜り泣きをはじめた。緊張が解けたみたいに、さながら生を実感するように。彼女がしゃくり上げるたびに小さな肩は弾み、ピンク色の髪は波を立て、フローラルな香りが鼻をくすぐった。


 渉はできるだけ彼女のほうを見ないようにしていた。手が縛られていなければ上着を貸すこともできただろう。けれど、これが今自分にできる、精一杯の配慮である。

 泣き声はやがて収まり、洟をすする音も聞こえなくなった。落ち着きを取り戻した小坂は咳払いをし、喉の調子を整えてから、いくつかの質問を渉にした。


 いつからここに閉じ込められているのか。冬用の制服だけれど、藤北の生徒なのか――渉は彼女を視界に入れぬようにして答えた。

 六月十七日に連れてこられたこと、気づいたら拘束されていたこと。学年は二年生で、クラスはE組だとも。

 小坂は、今日は二十六日だと言った。つまり、監禁されて九日目。


「……もっと経ってるかと思ってた」


 そうとしか言い様がなかった。あくまで感覚的には、七月に突入しているものかと。

 彼女も二年生で、クラスは朝霧と同じA組らしい。私服が大人びていたからか、おそらく先輩なのだろうと、渉は勝手に思い込んでいた。交友関係の狭さは自覚しているが、こんな派手な髪色の生徒、一度見たら忘れないだろうに。


 渉からも質問をした。この部屋に来るまでの経緯と様子。メールのやり取りはどんなものだったのか。

 小坂めぐみは答えた。呼び出しはEメールで行なわれ、内容は『朝霧修の居場所を知っています』というもの。彼女はそれに返信し、次に送られた指定場所へと向かった。そこで茉結華と出くわし、ここへ案内されたと。メールの送り主は茉結華かルイスだろう。

 そして部屋の外は、また別の部屋が繋がっていると言う。つまりここは、


「隠し部屋ってことか……」


 とある部屋のクローゼットの奥に、電子ロック付きの扉が設置されていて、なかに入ってすぐがこの監禁部屋であるようだ。意識のない間に連れてこられた渉にとって、小坂の話は有益な情報となった。


「いろいろと教えてくれてありがとう……話が聞けてよかった」

「私も、助けてもらったから……。さっきは、ありがとう……」


 言いそびれていた言葉を、彼女は弱々しくも芯のある声音で伝える。勘違いとは言え茉結華と渉を引っくるめて『気持ち悪い』と罵った少女にはもう見えない。


「いや、俺は――全然……たいしたこと、ないよ」


 渉は目を伏せながら首を振った。謙遜ではなかった。

 本当は、可能であれば彼女を逃してやりたい。しかし自分の身すら自由に扱えないのに、大口を叩いたところで何になる。自分にできることなんてたかが知れていると、渉は痛切に感じていた。


「あの人に……毎日酷いことされてるの?」


 数秒の間を経て切り出された月並みな質問には、好奇心とが含まれていた。渉が外の様子を知りたがるように、小坂もまた、この部屋に幽閉されている彼のことが知りたいのだ。


「まあ……逆らうと殴られたり、蹴られたり、飯を抜かれたり……」

「逆らう……?」


 隣で小首を傾げた気配を感じて、渉は軽く頷く。


「態度とか、言葉とか……まあ、行いもそうだけど、逆らうなって言うほうが無理あるし」

「……怖くないの……?」


 それは素朴な疑問だが、はじめて向けられた客観的な意見として的を得ていた。そう思うだろう。

 渉の浮かんだ答えはイエスだった。茉結華に怯えたことは一度もない。彼の言う脅しや戯言に怯むことはあれど、存在そのものを怖いと感じたことはないのだ。

 だがここで首肯するのはあまりにも角が立つ。もう勘違いされることはないだろうけれど、渉は曖昧に答えた。


「どうだろう……相手が見ず知らずの大男で、常に猟銃を構えてるって言うなら、話は別かも」

「それって、知り合いってこと?」

「……うん」

「どういう関係か、聞いてもいい……?」


(関係、か)


 頷いておいて何だが、知り合いと言うのもすっきりしない。まだ他人と表現するほうが合っているような気がする。


「そうだな……あいつは凛に執着してて……凛のことが好きみたいで……だから、邪魔者を排除してる、みたいな。俺は、気持ちに気づいてやれなかった」


 決して、親友とは口にできなかった。自称することも、冗談でもためらわれる。

 ――そうだ。怖いのは、茉結華ではない。

 彼よりも響弥のほうが恐ろしい。知らない姿を知るたびに、親友という存在が霞んでいくのが、怖くて怖くてたまらない。


「えっとぉ……」


 渉が自責の念に呑まれかけたとき、小坂は隣で呆けた声を上げた。


「あ、あなたのことが好きなんでしょう? 百井凛じゃなくて」

「……え?」


 思わず彼女のほうを見やりかけたが、渉の首はわずかに揺れて制した。代わりに瞼をぱちぱちと上下する。


「いや、違うと思うけど……」


 改めて考えれば首をひねる点はある。だが、好きだから執着している――はずであろう? 恋は盲目とも言うし、渉はそう考えていたけれど。

 自分に対する茉結華の行いも、おそらく執着心に当てはまる。それは好意ではなく私怨に近いものであるが――

 しかし小坂は断言する。


「ううん、絶対そうだよ。じゃなきゃこんなこと、しないよ」

「……そう、かな」

「そうよ。だって、百井凛のことが好きなんだったら……絶対、そっちを捕まえるでしょ。嫌いな人といつまでも生活しようなんて、思わないもん」


 まるで恋愛相談のようなやり取りだった。茉結華がこの話を耳にしたら『余計なことを言うな。知ったような口を聞くな』と憤慨しかねない。


(嫌いな人といつまでも……と言っても、最初から殺す気なんだから……同じことだろうに)


 また、同じ思考がサイクルする。

 彼女の言いたいことはわかる。でも渉は、自惚れることはもうしない。好意の期待なんて、二度と抱かない。

 茉結華が凛や渉のことをどう思おうとも――どちらにせよ、歪んだ愛情だ。

 小坂はちらりちらりと渉を窺って、言いにくそうに興味を示した。


「ねえ、そのって……」


 渉は自分の首筋を指先で触れながら「絞められた痕のこと……?」と疑問形で返した。


「この部屋、鏡もないから、自分でチェックできないんだ。たぶん汚いよね……ごめん」


 自分の容姿に無頓着な渉でも、人に見せられるものではないとわかっている。部屋にはもちろん、洗面所にも鏡はない。渉くんのことは私だけが知っていればいいという、茉結華の歪んだ感情の表れなのか。


(最後に絞められたのは……何日前だっけ。まだ痕が残っているなんて、ビタミンC不足だ)


 当然のようにそんな考えを持つこと自体、異常なのだろう。


「じゃなくて……キスマーク、付いてるよ」

「……へ?」


 予想外の返しに、渉は間の抜けた声を漏らした。


(キスマーク……?)


 ――ってなんだ? と、斜め下を見るように首を傾げる。


(そんなの付けられた覚え……)


「あ」


 声に出して、同時に顔を上げる。夕方、茉結華が抱きつき戯れてきたあの時、首筋に柔らかい感触を押し当てられていたのだった。


「やっぱ好きなんじゃん……」

「いやっ――いやいやいや、嫌がらせだよ。絶対そう」


 何だか疑わしく見られている気がして渉は全否定する。


「首筋への痕って、マーキングだよ? 自分のものだっていう証……」


(やめてくれよ……)


 ぶわりと両腕に鳥肌が広がった。証だと言うが、どう考えても彼女に対する当て付けである。『渉は自分の味方である』と思わせたかったのだろうか。


「修は、付けてくれなかった」


 ぽつりと呟き、小坂は肩を窄める。


「付けさせてもくれなかったけど、いつも嫌がってたな……」

「が、学生同士だし、仕方ないよ……」


 二人の関係をよく知りもしないで、大きなお世話だったかもしれない。

 茉結華が元恋人だと説明していたが、特別な関係だったことに違いはない。遊園地へ遊びに行く頃には、すでに別れていたのだろうか――

 その答えは、すぐに本人の口から明かされた。


「私……修によくないこと言っちゃったみたいで、それで、じゃあもう別れようかって言われたの」


 すごく後悔してる、と小坂は言う。


「私が余計なこと言わなきゃ、修はこんな目に遭わなかったのに……っ」


 自分も同じ目に遭っているというのに、彼女は朝霧のことを思い続ける。それがどれくらい難しく、強い執念であるのか、渉には計り知れないことだ。軽く踏み込んで追及できる話でもない。


「あ、会えればきっと、小坂さんの思いも伝わるよ。……今は、無事を祈るしか」


 渉が言うに連れて、再び小坂は啜り泣きはじめた。不安を掘り返してしまったと、渉は口を閉じる。


 そのとき音もなく、気配がやってきた。彼女の肢体が目に入るのも構わず、渉はそちらに顔を向ける。

 静かに開閉された扉の前で、茉結華はふふっと鼻で笑った。依然としてその手には革手袋がされている。


「泣き落とし? それとも渉くんが泣かした? どっちでもいっかぁ」

「……何しに来たんだよ」


 鋭く問いながら渉は膝立ちをし、小坂めぐみの前に出る。


「夕飯食べ終わったから来ただけ。小坂さんも朝霧くんに会いたいようだし」


 渉の威嚇に怯むことなく、茉結華はのんびりと歩を進める。合間に流した視線が交差すると、小坂は渉の背後で縮こまった。


「俺も行く」

「はあ? 何言ってんの」

「俺も朝霧に会いたい」


 言った先からこれか、と茉結華は長い息を吐いた。


「だからさぁ、お泊り会じゃないって何度言えばわかるの? 連れて行くのはどっちか一人だけ。選択肢は……あぁ――渉くん選びなよ」


 茉結華は呆れ顔の次に、何か思い付いたような顔をしてみせた。渉は注意深く茉結華の動向を探るが、腰の警棒もサバイバルナイフももう外されている。それでも目につかないところに隠し持っている可能性は否めないが。

 悩む間もなく、渉の答えは最初から決まっていた。


「そんなの……小坂さんが行くに決まってるだろ」

「フフン。だよね――じゃあ行こっか」


 茉結華は愉快そうに鼻を鳴らすと、片手を上げて、手袋のなかからグリップを滑り出させた。宙で指に挟み込み、手首をスナップさせると、ギラリと輝く刃があっという間に飛び出る。

 まるで手品のような巧みな動きに、小坂は「ひっ……」と声を上げた。安心できる材料には足りないが、茉結華の持っているそれはいつもの折り畳みナイフである。殺傷能力はあれど、殺意むき出しのでかい刃物ではない。


「足のを、切るだけ。――それからこれも付けるよ。叫ばれちゃ世話ないしね」


 茉結華はポケットから布切れと包帯を取り出して、ひらひらと振ってみせた。


「妙な真似したら許さないからな」

「シカンは趣味じゃないよ」

「……?」


 言葉の意味がわからずに渉は眉をひそめる。しかし取り分け聞き返すほどのものではないと判断し、そのあとは小坂めぐみの足の拘束を解く様を凝視した。彼女は怯えながらも抵抗はせずに、ただ目線だけはしっかり逸らし続けていた。


「あ、別れの挨拶でもしとこっか? めぐっち、渉くんに一言どーぞ!」


 口を塞ぐ手前、茉結華は縁起でもない提案を朗らかにする。

 小坂は顔を上げ、神妙な面持ちで渉を見た。笑うことはない、笑みを作ることはない、けれど痛いほどに、双方の気持ちは通じていた。


「……ありがとう、望月渉くん」


 さようならでも、ごめんでもなく、ありがとう。少女の言葉に、渉は黙って頷いた。

 このまま茉結華を信じ切っていいものだろうかと、それだけが胸に引っかかっていたけれど、誰もが合意を示している。この部屋を出ることを、朝霧修に会うことを。


 茉結華は手にした布切れを小坂の口に詰め込んで、その上から包帯を被せるように巻いた。むかつきを訴えるように顔色を悪くする彼女を連れて、茉結華は部屋を後にする。

 監禁部屋に残されたのは望月渉、ただ一人。


    * * *


「人殺し……」


 上の部屋よりも薄暗い、どころか真っ暗に近い地下室に、鋭利な震え声が響いた。

 その声に、茉結華が反応することはない。今は目の前の血溜まりの処理で忙しい。真っ赤な鮮血は排水溝へと落として流す。まとっているビニールコートにも、薄汚く血が飛び散っていたが、これは後で洗うとしよう。

 腐らないように温度調節を行なって、作業は終了する。吐く息も真っ白になるほどの室温。さらにはセメント状の壁と床が、部屋の雰囲気をよりいっそう冷やしていた。

 下着姿の少女にはあまりにも過酷な環境である。

 もう、関係ないけれど。


 地下室を出る前に、茉結華は隅にかかった漆黒のビニールカーテンをめくった。


「きみは明日」


 茉結華は言うが、しかし相手は答えない。感じの悪さに奥歯を噛み締め、カーテンを閉じて回れ右。


「きみはまだ先」

「……っ……人殺し」


 片側で震えている少女は、先ほどと同じ言葉を繰り返す。裸足の片足首に連なった大きな枷と頑丈な鎖が、動くたびに耳障りな音を上げる。静寂の一言で片付けられるこの地下室においてはうるさいくらいに。

 踵を返した茉結華は自分の身体を嗅いで、一言。


「くっさ」


 ここにいると鼻がおかしくなる。早く地上に出て、綺麗な空気を肺いっぱいに感じよう。渉くんのいい匂いをいっぱいいっぱい吸い込もう。

 裸足の少女は膝を抱えて極寒と戦い、刺殺された少女の遺体は冷気のある場所に放置され、ビニールカーテンの向こう側は無反応のまま。そしてもうひとつ、垂れ幕が掛けられた小さな檻は『置物』としてそこにある。

 地下室は、何人かの気配で満ちている。

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