じゃあ仲直りのキスだね!

 わざわざ得物を見せて近付く様は、今からコレであなたを殺しますと告げているようなものである。非常にわかりやすい威嚇行為であり、臨戦態勢。逆を言えば、相手に逃げる余地を与える舐めた行為でもある。フィクションの世界でもよくあるだろう、手の内を明かすのは相手を見くびっているからだ。

 らしくもなく、茉結華は大きな動きを見せた。一歩一歩進むたびに、手にしている警棒が振り子のように揺れる。彼らしい軽やかな動きとは言えない、完全に手を抜いている。


(くそっ……)


 舐めやがって。そうは言っても渉は茉結華の一挙一動を見据える。殴られる覚悟はできている。右手で防ぐ準備もできている。油断はしない、引き下がらない。

 でも少しだけ神経を逆撫でしてやろうと思い、渉は茉結華の後方で怯え続ける彼女に視線を移す。


「よそ見」


 案の定、茉結華は煽った途端に踏み込んできた。言ったのが先か、右肩を蹴り上げられたのが先か、重心を保てなくなった渉は後ろにバランスを崩す。そのとき手錠に繋がれた左手を無意識に庇って、右手を床に付いたが最後、茉結華に踏みつけられた。


(つっ……)


 表面を押し潰され、指の関節がへし折れそうになる。不自然に床に磔にされたような不格好のまま、渉は歯を食いしばった。吊り上げられている左腕は今にも脱臼しそうである。

 その腕に、茉結華は狙い通り警棒を振り下ろした。肉を叩く、乾いた音が派手に響く。


「ひっ……」


 渉の代わりに、小坂の口から悲鳴がこぼれた。さらにもう一度、上腕を切り落とすかのように茉結華は警棒を叩きつける。

 ――くはっ、と。

 渉の口から漏れた吐息は、衝撃によるものではない。『骨折を危惧して関節を狙っていない』ことがはっきりと証明された、嘲りによるものだった。


「……いいのかよ、手間かかっても知らねえぞ」

「何の手間?」

「大好きなオモチャの修理」


 渉は口角を上げて余裕ぶる。殺意はある、けれどまだ殺す気はない。ならば傷を与えるメリットだってないも同然で、後の手当が面倒になるだけである。それを見越して堂々と挑発してやるのだ。

 ――自分に注意が向いているこの隙に、逃げてくれるといいんだけれど……。煽られても逆上してこない辺り、茉結華にはその思考がバレている。


「小坂さん、おいで?」


 茉結華は振り向き、優しく手招きした。しかし視線の先にいる小坂めぐみは、ガタガタと震えてその場から動けずにいる。茉結華は渉の手から足を退けて、彼女のほうへ歩み寄った。

 身体をいっそう激しく震わせて、両手で頭を覆う小坂に、茉結華は警棒の持ち手を差し出した。


「これで渉くんのこと殴ってよ」

「ぅ……うぅっ、……えっ……え……?」


 恐る恐る顔を上げた小坂めぐみと、満面の笑みを浮かべる茉結華の視線が交差する。


「大丈夫。これ結構硬いし、箒を扱うより簡単だよ。相手は憎い女の彼氏! これぐらいがちょうどいいって!」


 ね? と言って茉結華は歯を見せる。小坂は言われた先へと目線を傾けた。

 磔にされていた渉は、片肘を使って上体を起こしていた。踏みつけられた手の甲は内出血で変色し、手錠の掛かった手は血流の影響で赤みがかっている。さっきまで相手に見せていた余裕ぶった表情はどこにもなくて、声を抑えて呼吸をしては苦しげに顔をしかめていた。ふと目が合うと、ほんのわずかに瞼が上がって静かにうつむく――

 そんな彼を殴れと言うのか。これ以上の目に遭わせろと言うのか。


「できないの?」


 茉結華が鋭く訊く。


「……っ……で、できない……」


 小坂は発作かと思うほど短い呼吸を繰り返し、嗚咽をこぼした。目の敵にしていた百井凛もその恋人である望月渉も、自分と同じ立場の人間だったのだと痛感して涙をこぼす。


「じゃあ土下座してよ」


 行き場のない後悔に襲われる彼女に、茉結華は冷たく言い放つ。ひっくひっくと泣きながら顔を上げたその瞳には、そっぽを向き続ける渉の姿が映っていた。

 小坂はぺたんと座り込んだまま、もぞもぞと姿勢を動かす。


「あー待った待った。服を着ててもいいなんて言ってないよ? 脱いで」


 渉は反射的に茉結華を睨み上げたが、小坂はそんな台詞に対しても従順に従った。最早少女にとってはプライドなどどうでもいいことだ。

 小坂はまだ震える脚でその場に起立すると、腰まで届く長い髪を両手で集めて、首の片側へとまとめて流した。


「せ、背中の……ファスナー……下ろして……」


 そう言った小坂に、茉結華は片眉を吊り上げた。まさかそれが自分に向けられた言葉だとは気づかずにいると、背中を見せる小坂がついと指をさす。目で追った先には米粒程度のファスナーが付いていた。茉結華はようやくその指示を理解すると、半ば不服そうにファスナーを下ろしてやった。張りのある柔肌が面積を広げて、小坂は下着姿となる。

 茉結華は顔を引きつらせながら「やっぱやる気満々じゃん」と愚痴った。小坂は目を赤く腫らしながら唇をぎゅっと噛むと、渉の前で正座をし、頭を垂らした。


「ご……ごめんなさい……」

「……」


 渉は横目でその様子を見るが、やはり長くは見ていられずに顔を背ける。


「何についての謝罪なのか、ちゃんと口にして」


 床に額を当て続ける小坂に、茉結華は追い打ちをかける。渉は思わずその顔を睨んだが、視界に入ってしまう少女の姿に居た堪れず、瞳を泳がせて固く瞑った。


「凛さんの、ことを……き、き、傷付けて……ごめんなさい……。もうしません……だから、ゆ、許して……ください……」


 声の震えには、恐怖と嗚咽が半々である。もう凛がどうとかいじめがどうとか、そういうことを言っていられる状況ではないのに。


「だってさ。渉くん、どうする?」


 茉結華は白々しく問いかけてくる。

 渉には、彼女を責める理由が一欠片だってない。当事者でもないし、見たわけでもない。茉結華が言っていることはすべて、彼女を苦しめるための口実に過ぎないのだ。


「……もう、頼むから、帰してやってくれ。……お願いだ」


 瞳を閉じたまま頼み込むと、パンッと何かを叩く音がして、渉は素早く目を開けた。音の正体は茉結華が両手を合わせただけであったがしかし、


「じゃあ仲直りのキスだね!」


 悪意のない無垢な笑みが、かえって不気味さを増加させる。

 茉結華は小坂の腕を掴んで引っ張り起こした。その非常識な力加減は誰が相手だろうと例外ではない。小坂は、うぅ……と小さく呻く。


「早く。立って」

「っ……ぃ、嫌――」

「暴れたら朝霧くんに会えないよ」


 耳元で悪魔が囁くと、小坂はハッとしたように表情を変えた。茉結華はしたり顔で片頬を上げる。


「はい、じゃあ小坂さん、渉くんとキスして」


(は――?)


 予想外の展開に渉は目を瞬かせる。


「何言ってんだよ」

「キスだよ、できるよね? あ、もちろん唇同士のキスだよ」

「はあ……!?」


 なぜ自分が? という思考と、お前がするんじゃないのか? という言葉が頭のなかを巡る。未遂で済んだ強姦紛いの行為よりは幾分もましだが、どちらにしろ非合意のもとで行なわれるのだ、相手にとっては地獄だろう。それを、自分が行なえと――?

 渉と同じく、小坂の顔にも強張った表情が張り付いている。彼女は一歩も踏み出せず、茉結華に「めぐっち?」と呼ばれると両肩をビクリと跳ね上げた。


「できない? それとも、まだこっちのほうがいい?」


 茉結華は大股歩きで渉に近付き、頭上目掛けて警棒を振り下ろす。予定調和のごとく渉は右腕で防ぎ切るが、勢い任せの打撃は骨をも痺れさせた。茉結華はほくそ笑み、無防備な左脇腹へと二撃目を打ち付ける。


「っ……」


 治りかけの傷口に衝撃が響いて、渉はガクンと上体を丸めた。けれど声だけは、声が漏れることだけは押し殺して耐える。

 ――これ以上、関係ない少女を怯えさせたくはない。


「わかった?」


 茉結華は小坂に確認を要する。彼女は震え上がるみたいに首をぶるぶると横に振った。


「え、じゃあもっかいだけお手本見せるね。次はよーく見てて……ね!」


 宙に構えたままだった渉の右腕を蹴り飛ばし、今度はガードできないようにと手首ごと床に踏みつける。油断したと自覚した渉が顔を上げたときには、すでに警棒が振り上げられていた。


「頭を狙ってー……」


 こう、と言う前に、


「やっ、やめてぇ――――っ!」


 少女の叫び声が、部屋中に響き渡った。

 渉の前髪を揺らしたのは、衝撃波にも似た風。警棒による打撃は、額に当たる直前で止まっていた。


「き、聞く……言うこと聞くから、もうやめて……」


 小坂はポロポロと涙をこぼす。


「キスするの? 殴るの? どっち?」


 静止した状態で茉結華が顔だけ向けて言うと、小坂は棒のようになった足を無理やり動かして前へと進んだ。どちらとも答えない不躾な彼女に茉結華は目を細める。そっと足をどかすと、小坂は警棒には目もくれず、渉の真正面に腰を下ろした。茉結華は『ひゅーっ』と口笛を吹いた。


「へえー、キスするんだ……。さすがめぐっち、凛ちゃんへの当て付けってわけだね! あ、ちゃんと舌入れてやってよ? 生温いのは嫌だからね」


 余計なことを言いながら茉結華は後ろへと下がる。顔を背け続ける渉は、頬に触れた人肌に反応し、恐る恐る顔を上げた。――傷ひとつない小坂の綺麗な手が、片頬に添えられていた。

 近くで見る彼女の素顔は、美を付けていいほど端正だった。ピンクの髪に埋もれさせておくのはもったいないと感じるほどに。

 渉は、しなくていい、と小さく首を振る。


「い、いいよ……しなくていい。殴ってくれて、俺は全然構わないから……」


 したくないのではなく、させたくない気持ちのほうが強かった。

 この思いは今、彼女に届いているのだろうか――

 

「キス! キス!」


 雑音にも等しい茉結華のガヤを耳にしながら、小坂はもう片方の手も頬に添えた。そして親指を唇の真ん中まで伝わせたかと思うと、その上目掛けて口付けを落とした。

 茉結華には見えないだろう角度で。


(……、っ……)


 渉も、同じように瞳を閉じた。ふりで済ませてくれた少女の優しさに応えるように、せめてその肢体が見えないように。

 後に耳に入るのは、茉結華の歓声のみだった。気配が遠ざかり、唇を押さえる感触がなくなってから、渉は目を開けて呼吸を再開させた。

 小坂はゆっくりと立ち上がり、後ろを振り返る。――直後、奥から伸びた影のように黒い手が、彼女の腰を乱暴に引き寄せた。


「――――」


 瞬きする間もなく、茉結華は彼女と唇を重ねていた。渉にも見えるように横向きの姿勢で――

 目を見開いた小坂は悪寒が走ったみたいにぶるりとその身を震わせて、相手の身体を無理やり引き剥がすと同時に、頬に平手打ちした。叩かれた茉結華は平然と佇んでおり、手を上げた彼女のほうがむしろ覚束ない足取りで、よろよろと後ずさる。

 茉結華は食べかすを舐め取るみたいに、ぺろりと唇の端から舌を出した。


「やっぱ悪い子だね……渉くんの味しないじゃん。嘘つきには罰を与えなきゃ――」


 声色は至って冷静で温厚だった。しかし音もなく取り出されたナイフが、渉の視界で光を作る。

 渉は咄嗟に小坂の腕を掴んで、自分のほうへと引き寄せていた。


「――!?」


 獲物を仕留めるかのごとく突き出されたナイフは間一髪、空を切り、茉結華は目を丸くする。渉は、横向きに倒れた小坂の軽い身体を受け止めて、手と目のやり場に困りながら早口で告げた。


「下がって! 俺の後ろに隠れて……!」


 小坂は頷くよりも早くその背中に回り込んで身を縮める。渉が彼女を庇うように大きく手を広げると、茉結華は引きつった笑みを浮かべた。


「……渉くん? 何してるの?」

「何してるはこっちの台詞だ!」


 渉の怒りの矛先は、ただひとりにしか向けられない。内側から込み上げる炎は、哀しみと緊張と安堵、そして軽蔑が混ざっている。

 ――最初から、殺す気満々じゃないか。

 茉結華が手にしているが、それを証明していた。


「そ、その子は凛ちゃんを苦しめてたんだよ? 敵なんだよ?」


 お前が言うな、と言ってやりたかったが口には出さない。


「この子は被害者だ。でもって加害者は……お前だ」

「で、でもでも、悪いことしたんだよ? わ、渉くん言ったよね、お前が助けてやれって……だから私」

「嘘をつくな」


 そう言って言葉を遮ってやれば、茉結華はわかりやすく口をつぐむ。人を袋叩きにしておいて何を今さら、必死に弁解する必要があると言うのだ。彼の面の皮の厚さには、心底うんざりだ。


「はじめからこうする気だったんだろ。俺に会わせて、俺の目の前で甚振って……俺には何もできないってことを知らしめたかったんだろ!」


 渉は思いの丈をぶつけてやる。どうせ話が通じないのはわかりきっていることだ。遠慮はしない。


「いいか、こんなことをしても誰のためにもならない。いい加減気づけよ! 目を覚ましてくれよ……! お願いだから、こんなことしないでくれ――!」


 もう、誰も殺さないで……。

 懇願するように、最後にそう口にする。


「それは――」


 茉結華は演技するのをやめたかのように目を据わらせて言った。


「それは、小坂さんのため? それとも私?」

「どっちもだ……っ」

「……」


 沈黙のなか、茉結華は納得が行かない様子で眉間にしわを作り、渉の背後に隠れている小坂に視線を送った。彼女は誰とも目を合わせることはなく、ただ目の前にいるヒーローの背中だけを、怯えた瞳で見つめている。

 茉結華はため息をついて天を仰ぎ、腰のホルスターにサバイバルナイフを収めた。得物が見えなくなっただけで渉の心は軽くなる。だが茉結華が彼女を放っておくはずなどない。

 警戒を怠らずにしていると、茉結華はポケットから結束バンドを二本取り出した。


「手足、これで縛るから、めぐっち後ろ向いて」


 まるで、戦意喪失だった。茉結華は退屈そうに首を回すと、その場に腰を下ろす。


「縛った後はどうするんだ」

「二人共ご飯抜き」

「……それで?」


 小坂の代わりに渉が問う。茉結華は再度大きなため息をつき、「朝霧くんのところに連れてってあげる」と。

 朝霧の元に連れて行く――それはつまり、


「生きてるよ」


 渉の考えを先読みして、茉結華は断言した。


「朝霧くん、まだ生きてるよ。……寝る前にでも連れてってあげる」

「ほん、と……?」


 小坂は渉を盾にしてそれ以上前に出ようとしない。すっかり嫌われた茉結華は飾る気も起きずに「うん」と投げやりに言う。


「だから早く後ろ向いて。手は後ろに回して」


 そうして茉結華は、警戒し続ける渉の視線を浴びながら、小坂の手足を縛った。続いて渉の両手をひとつにして、先に親指同士を縛り上げてから手錠の鍵を外す。床に散らかったままの服とバッグと、金髪ウィッグもついでとばかりに拾って――茉結華は部屋を後にした。


 ようやく本当の意味で、二人は胸を撫で下ろす。

 この日この時、望月渉は、かけがえのない一人の少女の命を――救うことができたのだ。

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