第一話

はじめまして

 目を覚ますと、木製の天井が広がっていた。

 次に見えたのは、明かりの灯っていない四角形の和風照明。床はざらりとした畳敷きで、微かにイグサの匂いが漂っている。どうやらここは和室のようだ。


(…………)


 ここはどこだ? と、望月もちづきわたるは思考する。横たわった身体が重くて、頭はガンガンと痛む。意識はまだ混濁状態にあるようだ。


 身体の不自由さに身をよじると、細長い紐状のものが両手の指に触れた。感触はプラスチックのようで、親指の根元をきつく縛り上げている。いくら動かしても抜けそうにない。次に、自分の下半身に目を移す。足首には、いわゆる結束バンドが取り付けられていた。見た限りプラスチック製のものなので、手に付けられているのはこれと同じだろう。

 身体の不自由さの正体がわかったところで、渉は顔をしかめる。


(何、してたっけ……)


 妙に頭が働かない。確かにわかるのは拘束されていることだけか。

 状況を整理しようと記憶を辿りかけたそのとき、和室にある戸のうちのひとつが開かれて明かりが差した。

 目を眩ませながらそちらに目をやると、


「おはよう、渉くん」


 聞き覚えのある声がした。けれど、知っている声の主とは雰囲気が違う。逆光で顔はよく見えないが、シルエットも背丈も、どこか違っているような気がした。

 そいつは部屋に入ると、後ろ手に回して戸を閉めた。完全に閉めることはせず、残された隙間から細い光が通される。その様子を黙って眺めていると、相手はゆっくりと渉に近付き、目の前まで来たところでしなやかにしゃがんだ。


「気分はどう? まだ眠たい?」


 落ち着いた優しい声でその人は言った。

 顔が見えなかったのは、お面を付けているからだった。可愛らしくキャラクター化されている『少女』のお面。


「誰……?」

「え?」


 くぐもった声がお面から漏れた。そして返答に悩んでいるのか、黙りこくってしまう。

 渉は反応を示すまで見据えた。相手はくつくつと笑い出した。


「誰って、渉くんの大好きな『百井ももいりん』だよ」


 まるで当たり前だとでも言うふうに柔らかに言ってくれる。

 ――お面のモデルが凛?


(ふざけているのか……?)


 渉は呆れを抑え、とにかく身体を起こそうと肩と肘を軸にした。しかし力が入らず、床に擦れるばかりでなかなか起き上がれない。まるで自分の身体じゃないみたいだった。


 起き上がれない彼を見て、『百井凛』の影がゆらりと動いた。正面から脇腹に腕を滑り込ませて、そのままグイッと引っ張り起こす。鼻をくすぐった、渉は心臓を掴まれた気分になった。細い腕で行われた動作には、およそ力は入れられていないように見えた。

 体育座りになって相手と向き合うと、お面を付けたままの『百井凛』から声が漏れる。


「渉くん言ったじゃん、付き合おうって。私たち付き合ってるんだよ。だから今日から、私と過ごすの」

「……付き、合う……?」


 渉が復唱すると、目の前の相手は頷いた。


(ああ、そうか……俺たち付き合ってるんだっけ)


 ――日曜日。遊園地で、凛に告白したんだ。

 それで付き合うことになって……それから、次の日は……。


「みんなは……?」


 渉が尋ねると『百井凛』は首を傾げた。


「みんなって――何?」

「ゴウ、清水しみず柿沼かきぬま……あいつらはどこに……」

「んー、みんなお家にいるんじゃないかな」


 響弥きょうやたちいつメンとカラオケに行ったのは月曜日の放課後である。それからどうなったのか、思い出せない。


(今は何時で、どれだけの時間が経っているんだ?)


 渉は相手の顔を見た。声を聞けば聞くほどに、は強くなる一方だが、相手はあくまでもしらばっくれるつもりか。


「えっと、おふざけならやめてほしいんだけど……これってドッキリ……?」


 ため息混じりに問うと、相手の肩がピクリと揺れた。そしてそのまま、「クっ――ククッ……プッハハッハハッハ――!」と派手な笑い声を上げて腹を抱える。


「ドッキリ? そんなんじゃないよ渉くん」

「だってお前、その声……」


 そこまで口にして、渉はハッとする。


(え……?)


 相手の奇行とふざけたお面にばかり注目していて、気づくのが遅れた。暗がりで見えないというのもあったけれど――


「お前、髪染めたの……?」


 お面からちらりと見えているその髪は、白色。穢れのない、透き通るような真っ白だ。

 もしかしたらウィッグかもしれないという考えは、次の瞬間に取り払われることになる。


 白い髪の彼はそっとお面を外して、呆気なく『百井凛』をやめた。


「渉くん、それは人違いだよ」


 相手は不敵な笑みを浮かべていた。その顔は、よく知っている。知らないはずがない。

 知らないはずがないのに、渉は困惑した。


「はじめまして、渉くん。いや、久しぶり――かな。私の名前はマユカ。植物の茉莉と、結ぶ、華やかさ――で、茉結華まゆかだよ」

「全然……笑えねえよ」

「別にふざけてないけど」


 そう言って茉結華は、拗ねた子供のように口を尖らせ肩をすくめた。


(意味わかんねえ……意味わかんねえ……っ)


 本来不自然で違和感しかないはず――なのに自然体に見えてしまう。本当にその様子に、言葉が詰まった。

 ――どこまで本気なのか。どこまでが嘘なのか。


「……外せよ……これ、外せよ」

「うん? ダメだよ、渉くん逃げちゃうじゃん」

「だからっ……面白くねえって! 意味わかんねえし……」

「うふふ、わからないことがあるなら私が教えてあげ……」

「響弥――っ!」


 その刹那、喉元に激痛が走った。渉はされるがままに、背後の押入れに頭と背中を打ち付けることになる。


「ぐっ……」


 首に、茉結華の細い指が食い込む。反応する隙もなく、喉元を絞め上げられる。

 血管を押し潰すようにして食い込ませる、そいつは――そいつの目は……真っ赤な怒りに満ちていて――まるで、鬼のようだった。


「っ……か、っ……」


 渉は抵抗することもできず、ただ相手から与えられる痛みと苦しみに――いや、それすら感じている暇もなく、頭のなかに空白が生じていった。


「名前間違えないでよ。私は、茉結華だってば」


 意識が途絶える手前、茉結華は彼から奪っていた酸素を何事もなかったかのように返した。渉は吐き気と共にむせ返る。


「……うっ……、う……っ」


 首元は楽になった。だが身体が欲しがっていたはずのそれをすぐに吸うことができない。急激に巡ってくる血と酸素と、和らいでいく苦痛。戻ってくる意識に、自身が追いつかない。

 喘いでいる渉を見下ろして茉結華は立ち上がる。


「そうだなあ。やっぱり、少しだけ教えておいてあげないと……渉くん、油断ならないもんね。忘れちゃ、嫌だよ?」


 独りよがりな言葉を並べて、茉結華は横たわっている渉の腹を――彼がまだむせ返っているにも関わらず――思い切り踏み付けた。


「――っ!」


 呼吸するのも許されないのか、またしても空気を奪われて、渉は拍子に身体を丸める。しかし茉結華はお構いなしに、何度も、何度も、腹部を執拗に踏み付けては蹴り上げる。


(くそ……!)


 渉は歯を食いしばり、内臓を傷付けさせないようにと腹に力を入れた。

 茉結華は一度の蹴りを入れた後、「ん」と声を漏らし、ぴたりと足を浮かした。宙で静止した足を、今度は優しく添えるように腹部へと当てる。足裏と指を器用に使い、何かを確かめるようにモソモソと撫でる。


 まさか……と、渉は相手の顔を見た。白髪の彼は目が合うや、にぃっと満面の笑みを浮かべた。全身に悪寒が走り、ゴクリと唾を飲む。


(こいつ……)


 ――何が、嬉しいんだ。

 反応、表情。茉結華は渉の素振りを見て、受け身を取りはじめたことに気づいた。わずかな変化に、瞬時に気づいたのだ。

 臓器がむかつきを訴えだしたところで、今度は背中に踵を振り落とされる。


「くっ! う、うう……」


 茉結華の姿を視界に映したまま、渉は身体をさらに縮める。視線を逸らすのは相手の思う壺だ。だから決して外さぬよう、次の攻撃に備えて睨み続ける。だが、口角を上げる相手の表情を見ていると、その思考すら読まれている気がしてならない。


(逃げなきゃ、やばい。まずは……逃げなきゃ……)


 頭ではわかっている。けれど、どうすれば――


「渉くん、守ってばかりだね」


 そう言った茉結華は笑みを消して、その場にしゃがんだ。その顔つきからは思考も感情も読めない。渉は相手を見据えたまま、呼吸を整えることに集中した。

 茉結華は口を閉ざして渉の様子をじっと見つめていたが、不意に再び笑みをこぼし、


「せっかくだし、サービスサービスってね」


 にこりと微笑んで、渉の身体に跨がった。

 横向きだった姿勢を仰向けにされて、渉は相手の動向を窺った。暴力的だった雰囲気は丸っきりなくなり、これから何をされるのか予想がつかない。ただひとつ言えるのは――嫌な予感がする。

 茉結華は渉の着ている学生服のボタンを上から順に外しはじめた。馬乗りは強固なもので、身をよじってもびくともしない。悔しくて顔をしかめる一方、カッターシャツのボタンも三分の一ほど外される。


(……? ……?)


 経験のない状況に渉の思考が停止しかかっていると、茉結華は抱きつくように顔をうずめた。髪の毛がくすぐったくて、渉の表情に険しさが増す。何がしたいのか、まったく意図が読めない。

 肌着の襟に指をかけられた。そして、柔らかいものが皮膚に当たって、湿った感触がして――渉の頭は沸騰した。


「ひっ……うぅううう……!? は……? いっ、や……」


 粟立つ肌は素直な反応を示していた。相手の舌が、唇が、肌に触れている。そう認識すると、身体は拒みを訴えて、頭は否定を続ける。


「ううううう、嫌、嫌だ! 嫌だ……! やめろ! やめろってぇ!」


 渉はがむしゃらに藻掻いた。なぜこんなことをするのか。嫌がらせにしては、度が過ぎている。

 ――こんなこと、してほしくなかった。


「うう……う……っうう」


 渉は顔を背けて、鼻をすすった。肩が小刻みに震えた。茉結華は予期せず顔を上げた。


「渉くん? ……泣いちゃったの?」


 そう言って、顔を確かめようとする。渉は唇を噛んで恥辱に耐えているようだった。――が、次に茉結華が名前を呼んだとき、


「渉く……がっ――!?」


 射程距離に入った相手に、渉は頭突きを食らわした。

 茉結華は呻き声を上げて仰け反る。


「いっ……ててぇ」

「こっの野郎……! うっ!」


 もう一発食らわせようと身を起こすが、首元を押さえ付けられ防がれる。鼻を狙ったつもりだったが、惜しくも額に当たったようだ。茉結華はもう片方の手で自分の額を撫でている。


「んふふ、ふふっふふふ……いいねえ渉くん。悦ばせ方、よくわかってる」

「てめえ……いい加減に、しろ……!」

「あははっ自分でどうにかしてみれば? もっと動いてよ、渉くん」


 ねえ、と言って、茉結華は愛おしそうに目を細めた。頭突きの射程内に入ることはせず、そのギリギリのラインまで顔を近付ける。


「また明日ね」


 そう囁いて、首にかけている手に力を加えた。

 きゅうっと絞めてくる指先は、自然な手付きで優しかった。


「く、ぅ……ふ、ざけん……」


 すぐに意識が遠くなるのを感じた。最初よりも痛みはないが、苦しかった。絞めるところをきっちり絞めて、確実に落としにかかっていることがわかる。


 意識を保っていられる最後の最後、渉は声を振り絞った。


「……響……弥ぁ……、……」


 を口にして、ゆっくりと瞳を閉じた。

 悪い夢なら、どうか覚めてくれないか。

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