反応は氷のごとく
保健室に運ばれた芽亜凛は、保健教諭の
猪俣は、「はい終わり。ここで休んでく?」と真っ赤な唇をせっかちに開いた。芽亜凛は「いえ、大丈夫です」と断る。
「そう。ならあたし出るから、早く授業に戻りなさいね。いい?」
渉と響弥が「はい」と返事をすると、猪俣は足早に保健室を出ていった。化粧の残り香に渉は自然と息を止める。
「オマタ先生、相変わらず男と遊んでんのかな」
隣で響弥がぼそりと呟いた。『オマタ』とは噂話から生まれた猪俣の品のないあだ名だ。
教師のくせに男遊びが酷く、過去には生徒に手を出したことがあるとか、ないとか。渉が呼ぶことはないが、一部の生徒の間で使われている。
(転校生の前でそんな呼び方するなよ……)
聞こえてたらどうするんだと、渉は芽亜凛を一瞥した。
芽亜凛は黙って窓の外を見ている。丸椅子に背筋を伸ばして腰掛け、膝の上に両手を重ねて置いて。座っているだけで絵になるその姿は、まるで人形のようだった。
「……大丈夫?」
渉は小さく咳払いをして尋ねる。芽亜凛はわずかに顔をこちらへ動かし、「平気」と、ぽつり呟いた。長い睫毛の輪郭だけがちらりと見えて、渉は「ならよかった」と返す。
芽亜凛は再び顔を背けた。その視線の先には、棚に置かれた花瓶があった。薄く埃を被っている。――造花だった。
「大事にならなくてよかったよなー!」
雨水を含んだような空気に、響弥が明るい声で一石を投じる。
しかし芽亜凛は、
「…………」
今度は一言も、返さなかった。
渉は眉をひそめてふたりのやり取りに目を配る。響弥は苦笑いして頬を掻いた。
「えっとぉ……ほら、怪我! 大したことなくてほんとによかった!」
「……」
「……えっと、あー……」
「…………」
「……、……」
響弥は捨てられた子犬のように、しゅんとなって口を閉ざす。芽亜凛は依然として無言を貫いていた。まるでいない者のように、聞こえていないかのように。響弥の声には、まったくの無反応だ。
渉は気まずくなって、「じゃあ、俺たち先に戻るよ」と切り出した。
「響弥、行こう」
「あ、うん……」
きっと疲れているのだろう。そう思うことにした。
響弥は芽亜凛に告白をした仲だし、しかもフラれたと言っていた。ふった本人も自覚があって、まだ気にしているのだろう。……少し、冷たさが目立つけれど。
渉は先に保健室を出た。氷のように凍てつくあの空気は耐えられない。女の子を相手に嫌悪も猜疑心も抱きたくないけれど、どうにも苦手意識が生まれてしまう。
――ほかにはない冷たさを感じた。触れれば皮膚が裂けそうな、鋭い刃物のような雰囲気を。
渉は廊下に出たところで立ち止まり、壁に背中をつけて深呼吸をする。
(さっきの王子様気取りのこと……あとで問いたださなくちゃな)
響弥の行動には渉も驚いた。中学から一緒にいる親友なのに、あんな響弥を見たのははじめてだ。
清水たちから『もやし』だの『お姫様』だのといじられるくらい、本当は力がないくせに。好きな子の前だからってかっこつけやがって。
「……あれ?」
渉は後ろを振り向いた。保健室の扉から、響弥が一向に出てこない。何やってんだ?
再び保健室に顔を出すと、そこには――
響弥の袖を掴んでいる、芽亜凛の姿があった。
心臓がどくんと大きく跳ね上がる。渉は「あ、」と口を開き、
「お、俺……っ先戻ってるわ!」
そう言い残し、駆け足でその場を去った。
(なんなんだよ! 響弥の奴、フラれたんじゃなかったのか?)
どうして芽亜凛が響弥を引き留めているんだ? どんな心境の変化だ? だったらあの冷たさはなんなんだ?
渉の頭は混乱していた。見てはいけない場面に遭遇してしまった、しかも親友の。
響弥は芽亜凛の手に釘付けになっていた。彼の手を握る芽亜凛の姿は妖艶でもあり可愛らしくもあった。表情は前髪に隠れて見えなかったけれど、まさか本当は響弥に気があって……?
「……本気かよ」
実は両思いだったのか? 親友に春が来たのなら、それは喜ばしいことだけれど……。
考えだしたら止まらない。渉は勢いを殺さずにそのまま教室に戻った。心臓はまだ毒々しい唸り声を上げていた。
クラスメートは制服に着替え終わり、残り時間を自由に過ごしていた。扉をくぐるとすぐさま凛が駆け寄ってきて、「芽亜凛ちゃんは?」と心配そうに尋ねる。
「大丈夫。大したことないって」
「そっか……よかった……」
しかし渉の返事を聞いても、凛の顔色は晴れない。原因は芽亜凛のことだけじゃないはずだ。渉は思い切って訊いてみる。
「朝からずっと元気ないな。何かあったか?」
凛は目を伏せて唇を噛み締める。教室のみんなは自分のことに没頭しているため、会話が聞こえることはないだろう。凛はふうっと息を吐いてから、意を決したように話しはじめた。
「……昨日、ちーちゃんちから電話があってさ」
「うん、電話?」
「ちーちゃんが……夕方急に家を飛び出して、それから帰ってきてないって。学校じゃただの休みになってるけど、おかしいよね?」
「連絡は?」
「ううん。家にスマホ置いてっちゃったみたいで……。一応メールはしてあるんだけど、やっぱり既読付いてないや」
「そうか……」
二人が親友同士なのは、渉ももちろん熟知している。もしも、何か事件に巻き込まれていたら……。渉だって心配になるけれど、それ以上に親友の凛のほうが不安なはずだ。
「なんか急だよね……。体育館の事故もそうだし、ちーちゃんに続いて……芽亜凛ちゃんまで。これって……もしかしてさ、」
「そんなんじゃないって」
渉は凛の言葉を遮り否定する。らしくないな、凛がそんな弱音を吐くなんて。相当参っているのだろう。
……確かに不幸は続いている。だが、これはそんなんじゃない。そんなオカルト、渉は信じない。
「私、ちーちゃんちに行ってみるよ」
「一人で? 何なら俺も」
「ううん。大丈夫、私一人で行くよ」
凛はくしゃりと、消え入りそうな笑顔を作った。
「くじけてたら、警察官になんかなれないもんね」
警察官。
凛の将来の夢。
昔から正義感が強い凛は、じっとしていることが嫌いだった。幼馴染の渉は、そんな彼女の性格をよく理解している。何か自分にできることはないか。力になれることはないか。凛はそんなまっすぐな気持ちで、ただひたむきに動くことができるのだ。
渉はまだ自分が体操着姿なのを思い出し、「あ、やっべ……!」と席から制服を掴み取った。もうすぐ自習時間も終わる。渉は急いでトイレに駆け込み、個室を更衣室として利用した。
(響弥のこと、凛に話せなかったな。もう教室に戻ってんのかな)
さすがに千里の話を聞いたあとで言い出せない。
芽亜凛は響弥のことが好きだったのだろうか。まさかあのお姫様抱っこで惚れた、なんて……。
響弥は渉にとって唯一無二の親友だ。一緒にいると幸福感を得られて、何よりも楽しいし、くだらない話をするのも好きだ。
だけど……、だけど。
女子と付き合ったこともない、根っからの童貞のくせに。芽亜凛に必死に笑顔を振りまいて、明るい声で取り繕って。
彼女に恋する親友の姿は、痛々しすぎて見ていられなかった。
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