事件発生

 男子は教室、女子は体育館の更衣室で着替えを行う。一緒に移動をした凛と芽亜凛は、クラスメートが和気あいあいと談笑するなか、神妙な面持ちで隣に並んだ。


「ちーちゃんがね、今日お休みなの……」


 凛は制服のホックを外しながら、浮かない顔つきで話を切り出す。芽亜凛はきょとんとした顔で、「千里さん、何かあったの?」と声をひそめた。


「ちーちゃんね、今まで学校休んだことなくて……。中学のときも……小学校だって皆勤賞取ってたって……」


 凛の声は震えていて、瞳はかすかに潤んでいる。千里が欠席することは、親友の凛からしても異例のことだった。そうでなくても、珍しさを感じるかもしれない。


「ねえ芽亜凛ちゃん、昨日の帰り、ちーちゃんの様子どうだった? もしかしてあのあと何かあったのかなって……」


 芽亜凛は首を横に振った。「ううん、ちゃんと見送ったわ。様子も変わりなかった」

 凛の顔色はさらに青ざめる。「そうなんだ……」力なく呟いて、「でも、ちーちゃん――」


 その続きを言う前に、鋭い予鈴が鳴り響いた。体育の授業がはじまる。先に着替え終わった芽亜凛は、納得していない様子の凛に向き直り、「私でよければ力になるわ」長い髪をひとつにまとめながら言った。

 凛は「うん……」と弱々しく返事をし、「またあとで話すね」と急ぎ着替えを済ませる。

 二人は更衣室を出て女子の集まりに合流した。男子はすでに準備運動をはじめていた。


    * * *


 転校生の橘芽亜凛が姿を見せると、男子たちから感嘆の声が上がった。隣の響弥は目を丸くして、「ポ、ポニーテールだと……」と口角をへにゃへにゃと歪める。


「なんて破壊力だ……」


 響弥に続いて言ったのは、C組の清水しみずはやと。渉の周りにいる彼らは揃って芽亜凛を注目している。渉は相変わらず凛の様子を気にしていたが、その顔色はさらに曇っているように見えた。

 ストレッチ中の女子を置いて、男子は体育館のランニングをはじめる。今日の体育は男子はマット運動、女子は珍しく跳び箱運動をするそうだ。

 走り終えたら男女別々に器具運びが待っている。響弥は分厚いマットに指をかけて、「おっも……!」と呻き声を漏らした。


神永かみながは力なさすぎなんだよー」


 笑いながら言ったのは、C組の林原はやしばらごう。ツヨシではなく、ゴウと読むのが正解だ。

「頑張れば望月もちづきがチューしてくれるってよ」と、趣味の悪い冗談を言ったのはE組の柿沼かきぬま慎二しんじである。

 清水、柿沼、ゴウの三人は、渉たちとよくいる『いつメン』だ。全員帰宅部なので、放課後も一緒に遊ぶことが多い。

 男子が雑談を交えつつマットの準備を進めていく一方、女子も数少ない跳び箱を順に運んでいった。


「珍しいよね跳び箱なんて」

「あたし小学校以来かも」

「うちは中学でもやったなー」


 あちこちから聞こえてくる思い出話を耳にしつつ、凛と芽亜凛は協力して七段の跳び箱を運んでいた。


「芽亜凛ちゃん運動には自信ある?」

「よくも悪くもってくらいよ。凛は?」

「んー……まあまあ」


 苦笑した凛は、出来上がった跳び箱を見て驚いた。


「跳び箱ってこんな大きかったんだね」

「中学と高校じゃ高さが違ってくるのよ」

「へえー、そうなの? 知らなかったぁ」


 女子のなかでも小柄で身長も平均以下の凛には、余計大きく見えてしまうのかもしれない。

 準備を終えると、「はいはい、じゃあ並んでー。みんな好きな段のところに行っていいよー」と、E組の体育委員である三城さんじょうかえでが仕切りはじめた。


「えー、楓跳ばないのー?」

「あたしはほら、記録取るから」


 跳び箱は四段から七段まで。計四つの高さが置かれている。みんな自信がないのか、あるいは低い段から順に跳ぶつもりなのか、行列は四段の跳び箱に作られた。

 凛は芽亜凛に「どこ行く?」と訊いた。芽亜凛は意外にも「六段……行ってみちゃう?」と挑戦的に言ってみせる。

 凛は難なく賛成して、芽亜凛と一緒に六段のコースに移動した。四段大勢、五段少数、六段の列には凛たちのみで、七段には誰もいない。


 先頭の誰かが跳びはじめたのを合図に、みな跳び箱へと駆けていく。余裕げに跳ぶ者、恥ずかしげに跳ぶ者。そのほとんどが遊び半分で挑んでいる。こんな賑やかな光景は、ほぼ実習に近くなる雨天時にしか見られないだろう。


「いいなあ、楽しそうで羨ましい……」

「でも俺小さい頃跳び箱で股間強打したことある」

「うわあ……」

「めっちゃトラウマ」


 女子側に目を向けるいつメンの間で飛び交ったのは、柿沼慎二の痛々しいエピソードだけだった。


「なんで俺たちは、よりによってマット運動なんだっ! やるなら男女混合でやりたい……そうだろお前ら!」マットの上であぐらをかき、同意を求める神永響弥。

「そうだな、大人のマット運動……実技で頼む!」と気合を入れる清水。

「何考えてんだお前ら」

「ちくしょう! 野郎と組み合っても何も楽しくねえよ!」


 響弥は涙を拭ってマットに拳を振り下ろす。渉はこれ以上突っ込むのは無駄だと判断して口を閉ざした。人知れず顔が引きつった。


「おっ! あれ見ろよ!」


 男子の誰かが声を上げた。見ると、長い脚をまっすぐ開き、無駄のない姿勢で着地する橘芽亜凛の姿が。

 彼女は六段の跳び箱を軽々と跳びきり、先に終えていた凛とハイタッチしている。


「芽亜凛ちゃん運動もできるのかー! くうううっ!」


 興奮して唸る響弥の横で、渉は「あれくらい誰だって跳べるだろ」とぶっきらぼうに言った。


「なんだよ渉、凛ちゃんが注目されなくて拗ねてんの?」

「凛が跳べるのは当然だよ」


 ――だって凛は運動神経がいい。

 足も速いし瞬発力もあって、何でも熟してみせる。

 だがそれと比べても、芽亜凛の動きは美しかった。軽やかで洗練されていて……凛と同様、運動ができる人の動きだ。大人しそうな見かけによらず、文武両道の転校生。

 二人は、まだ誰もいない七段に挑戦するようだった。


「楽々跳べちゃうんじゃない?」

「凛こそ」


 芽亜凛は、ふふっ、と楽しげに笑う。釣られて笑う凛の表情も豊かになっていた。

 運動は不安も心配も忘れさせてくれる。そこにあるのは勝ち負けではなく、やり甲斐と楽しさ。凛は自分と同じくらい運動神経のいい芽亜凛に、親近感を抱いていた。安心感と高揚が混ざり合う不思議な感覚。彼女といるうちに、そんな好感が湧いていた。


「じゃあまた私から――」

「あ、待って」


 ライン前で屈伸する凛を制し、芽亜凛は「今度は私から先に跳ばせて」と、前に出た。一瞬どうしてだろうという疑問がよぎったが、凛は「オッケー! 頑張ってね!」と明るく送り出す。

 芽亜凛はにこ、と微笑んでから、助走を付けて跳び箱に向かった。そこから先の光景はすべて、スローモーションに見えた。


 タンッ、と芽亜凛が跳び箱に手をついた瞬間、七段の跳び箱は大きく傾いた。芽亜凛の身体はぐらりと宙に放られる。そして床に吸い寄せられた彼女の華奢な肢体に、跳び箱は容赦なく崩れ落ちた。


「芽亜凛ちゃんっ!」


 体育館を叩きつける鈍い音と凛の叫び声に周囲は騒然となる。いち早く反応した渉と響弥は一斉に駆けてきた。


「お前らも早く手伝えっ!」


 額に汗を浮かべて叫んだのは響弥だった。呆然と立ち尽くす生徒のなかから清水たちが走ってくる。協力して跳び箱をどかすと、ぐったりと横たわる芽亜凛の身体があらわになった。覆われていたのは左半身。幸いにも頭への直撃は避けたようだ。


「芽亜凛ちゃん! しっかりして! 芽亜凛ちゃんっ!」


 凛がゆっくりと抱き起こすと、芽亜凛は「うう……」と苦しげに顔を歪めた。意識はあるようで、凛の声に反応している。

 どうする、どうすればいい? 凛は周囲を見渡した。保健室に連れていくべきだが、このまま運んでしまっていいのだろうか。辺りには先生を呼びに行く生徒や、担架を探している者もいる。自分だけ何もできないのは嫌だ……。


「俺が保健室まで運ぶよ」


 そう言って、真っ先に動き出したのは響弥だった。渉たちは彼を見て目を丸める。


「いや、お前何言って……」

「凛ちゃん、いいよね?」


 響弥は凛の返事を聞かず、芽亜凛の背中と足に手を回して、ぐいと持ち上げた。いわゆるお姫様抱っこ。

 マット運びにひいひい言っていたあの響弥が、女子一人を軽々持ち上げている。普段は見せないその力に、渉と凛は顔を見合わせて困惑した。

 その間に駆けつけた体育教師は、響弥と芽亜凛、そして渉を見るなり、「今日の体育は終わり!」と笛を鳴らした。


「望月、響弥を手伝ってやれ」

「あ、はい……!」


 渉は響弥の手助けに駆り出されたようだ。ふたりが親友なのは先生たちも知っている。


「先生っ、私も――!」

「連れ添いはいらん。残りは片付け!」


 凛は食い下がるも、ぴしゃりと跳ね除けられて口をつぐむ。

 体育館を出て行くふたりと、抱きかかえられた転校生の芽亜凛。凛はその後ろ姿を、ただ見つめることしかできなかった。自分の無力さに、凛は唇を強く噛んだ。

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