待ち伏せ

 芽亜凛が保健室を出たとき、目の前から浴びせられたのは、三城楓の芯のある声だった。


「神永と何してたの」


 三城楓。跳び箱運動をせずに記録を取っていたE組の体育委員。

 彼女は廊下の壁に背を預けて、問い詰めるような視線を芽亜凛に向けていた。


「何って……?」


 芽亜凛は後ろ手に扉を閉めて聞き返す。少なくとも三城に待ち伏せされる覚えはない。

 三城は、保健室の扉に人差し指を向けた。


「鍵かけてたでしょ」

「鍵?」

「とぼけないでよ」三城は芽亜凛の反応を嘲笑う。「望月が出てったあとに鍵かけたんでしょ? 人に見られちゃまずいこと? それとも神永と秘密のお話?」


 挑発するように腕を組み、警戒心をむき出しにする。その表情はまるで、毛を逆立てて威嚇してくる猫のようだ。

 芽亜凛はふっと頬を緩めた。


「告白の返事をしてたの。ほかの人には聞かれたくない話でしょ?」

「ふーん、告白ねぇ。あんた神永のこと振ったって聞いたけど。あっ、もしかしてお姫様抱っこされて気が変わったとか?」


 芽亜凛は落ち着いた口調のまま「誤解よ」と言って続けた。


「断ったのに変わりないけど、謝罪の意を込めて話してただけ。まさか彼が助け起こしてくれるなんて思わなかったから」

「神永はいつもあんな感じだよ。別にあんただから優しくしたんじゃないから。勘違いしないことだね」

「そう……」

「そもそも告白だってノリっていうか? 転校生に対するいじりみたいなもんだし、一種の遊びでしょ? むしろ罰ゲームみたいなもんじゃん。まあ、まさか本気にするような馬鹿はいないと思うけど」

「そうね」


 吐息混じりの相槌を打ち、芽亜凛は片頬で笑む。


「遊びで告白するような人を好きになる女って、相当馬鹿よね。いるなら会ってみたいくらい」


 そうして三城を正面から見据え、長い髪をぱらりと手で払った。

 三城の瞳孔がすぅっと細くなる。その瞳からは苛立ちと敵意しか伝わってこず、一瞬にして空気が張り詰め、二人をまとう雰囲気は険悪なものへと変わった。


「あんた……感じ悪いね。転校してきたばかりにしちゃ随分と余裕そうじゃん。取り巻きにそそのかされて調子に乗ってなきゃいいけど。周りがちやほやしてるのも今だけだよ。神永だってあんたのことなんか、流行りのネタとしか思ってないんだから」

「……三城さん、」

「え、何? 怒っちゃった? あたしはただ本当のことを言っただけで――」

「よく喋るのね、三城さん」

「……!」


 芽亜凛はにっこりと、勝ち誇るような微笑みを浮かべた。三城は芽亜凛の言葉の意味を理解し、ぐっと押し黙る。

 それは彼女の癖だった。響弥のことになると、つい熱くなってしまう。この反応がどういう意味かなんて、誰の目から見ても明らかだろう。

 三城楓は、響弥のことが好きなのだ。


「ねえ三城さん」


 うろたえる三城に、芽亜凛はさらなる追撃をする。


「自分の意見を言うのは大事よ。だけど押し付けるのは、ただ声のでかい迷惑な人じゃない?」

「は……、はあ?」

「別に私は、あなたと争うつもりはないわ。できれば仲良くしたいもの」

「あんたとなんか仲良くできるわけないでしょ。天地がひっくり返ったって無理だね」

「そう? 私は、そうは思わないけど」


 芽亜凛はどこか残念そうに目を伏せ、三城の横を通り過ぎた。「待って」と、三城は咄嗟に芽亜凛を呼び止める。


「なかに、神永いるんでしょ」

「……ええ。でも今は、入らないほうがいいわ」

「なんで?」


 三城が怪しげに眉をひそめると、芽亜凛はくすっと口元に手を当てて笑いながら、小声で告げた。


「彼、疲れてるようだから」


 艶めかしく目を細めて、芽亜凛はとびきりの嫌悪感を三城に与えた。こうすれば、意気地のない三城楓は動けなくなるのを知って。

 どうか意味深に思わせておけばいい。意味のない意味を作り出して、好きに嫌わせておけばいい。


    * * *


 更衣室で着替えを済ませて芽亜凛が戻ってきたのは、二限目が開始されたあとだった。クラスメートに心配されても、芽亜凛は笑顔で「大丈夫」と答える。担当の先生も怪我のことを知っていて、彼女を温かく迎えた。

 授業が終わって五分休みになると、凛が改まった様子で芽亜凛を呼ぶ。


「芽亜凛ちゃん、あのとき……どうして先に跳ぶって言ったの?」

「……跳び箱のこと?」


 凛はうんと深く頷く。


「なんか、まるで芽亜凛ちゃんが……私の代わりに怪我をした気がして……」


 私、悔しくて……と、凛は自分の痛みのように顔をしかめる。芽亜凛は少し驚いたように瞬きをして、困ったような笑みを見せた。


「実はね、あの跳び箱……斜めに切れ込みが入れられてたの」

「き、切れ込み?」


 寝耳に水の話である。凛は瞠目して聞き返した。芽亜凛は静かに首肯し、「運んでるときに気づいたの」と付け足した。

 あれは、誰かの悪意によるものだ。


「わ、私、全然気づかなかった……」

「ひと目じゃ気づかないわ。姑息なカモフラージュがしてあったもの。きっと誰かのいたずらだろうけど――」

「い、いたずらじゃ済まないよ!」


 ガタンと大きな音を立てて、凛は椅子から立ち上がった。近くで談笑していたクラスメートが驚いた様子で顔を向ける。

 二人を窺っていた渉も、人知れず目を見張った。


(何やってんだあいつ……)


 二人の会話は聞き取れない。けれど、揉めているようなのは見て取れた。

 すべては保健室の一件のせいである。渉は授業中でも休み時間でも、無自覚に、芽亜凛のことを目で追っていた。

 凛は苦虫を噛み潰したような顔で「ごめん……」と、静かに腰を下ろす。


「落ち着いて。怪我だって大したことないし、予想してたから受け身が取れたのよ。凛のせいじゃないわ」

「でも……」

「私は、あなたを守れたことが嬉しい。だから、ね、謝らないで?」


 優しく微笑む芽亜凛を見て、凛の目に涙の膜が浮かんだ。こらえるように唇を震わせて、凛はぷるぷると頭を振る。ネガティブ思考を払い除けるかのように。


「今度はちゃんと、私に言ってね! 一人で抱え込んじゃ……駄目だからね!」


 強がる凛の声が、視線が、芽亜凛のすべてを独占する。

 これは芽亜凛にだけ向けられたもの。芽亜凛にだけ与えられた、芽亜凛だけが触れることの許される凛の心の叫び……。

 芽亜凛はくすりと、満足げな笑みをこぼした。


「凛も、何かあったら……なんでも話してくれていいからね」


 そう言って、陽だまりのように温かな凛の小さな手を、ぎゅっと両手で包み込んだ。

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