じゃあね、渉くん
罪悪感――それに気づいたのはつい昨日のことだ。
手のひらに他人の吐瀉物を抱えながら、茉結華の放った『終わった?』という言葉。こんなのたいしたことじゃないよとでも言うように、顔色ひとつ変えずに見つめていた大きな瞳。彼からすれば、ただ単に床を汚すのが嫌だったからという理由かもしれない。けれどそれなら不快感が表に出てもおかしくないように思う。
茉結華は本気で、嫌とも汚いとも思ってなさそうに言葉を発した。それ故に、親友の――響弥の姿が、不覚にも浮かんだ。茉結華に対する罪悪感に気づいたのはその時だった。もしかしたら気持ち自体は、もっと早くから抱いていたのかもしれないけれど。
そして思ったのは、『茉結華は心配を表に出さぬようにしている』ということである。
渉自身、そんなふうに扱われたいとは思っていない。むしろ酷くされたほうが気が楽であり、そんな渉の性格を理解しているが故、茉結華もそう振る舞っているのだ。
飯は抜いても水だけは勧めてきたり、具合を気遣っても「大丈夫?」などの直接的な言葉は避けていたり――決して友達同士ではないことを肝に銘じて抑え込んでいる。
だから渉は、わざと彼を怒らせるようなことをしはじめた。優しい彼の姿になど気づきたくなかった。自分はどうなってもいいから、茉結華の殺意を、身を挺して証明すること。その先に見えるのは死か、それとも、優しいままの親友の姿か――
結果は、これだ。
「…………」
「…………」
茉結華の振り下ろしたナイフは、渉の目と鼻の先で止まった。
渉はその奥にいる茉結華の顔を見る。怒りを滾らせて目は真っ赤に血走っているが、表情こそない。静かな怒り、冷たい怒りだ。
(やっぱり、刺せないのか)
ずっと疑問に思っていた――彼はなぜ、自分のことをそうも気にかけてくれるのだろうと。
刺さないし、殺さない――殺せない。もしも茉結華のなかにその気持ちがあるのなら、それは響弥としての感情が残っているからだ。だから必要以上に痛めつけることができない。
だって彼は……響弥だから――
「ふふっ」
渉がそこまで思考したとき、茉結華は不意に、瞳を閉じて笑みをこぼした。
「響弥は随分と優しい人に思われてるんだね。でもね渉くん、私は、違う」
開かれた瞳は怒りの色を失い、慈愛に満ち、けれど先ほどよりも、赤く不気味に煌めいている。
茉結華はナイフを軽く振った。腕を横に振って自然に下ろした――渉の目にはそのように映った。だが、
「っう!」
渉の脇腹に鋭い痛みが走る。一瞬の冷たさの果てに、火傷しそうな熱と、皮膚が裂けるような激痛。自分の身に何が起きたか、理解するのに時間は要しなかった。
文字通り、ナイフで脇腹を突き刺されている――理解すると同時に、冷や汗が一気に吹き出た。
「あ、うぅ……、くっ……うううぅぅ」
「アハ、先っぽだけなのにそんなに喘がないでよ」
茉結華は上に跨ったまま身体を揺らして嘲笑う。しかしナイフを持つ手は微動だにしない。切っ先だけをピンポイントに、渉の身体に沈めている。
刺されることを予想していなかったわけではない。仕向けたのは自分であり、こうなる覚悟もしていた。だが一瞬でも揺らぎ、安らいでしまった渉の心に、現実は無情にも傷を付けていく。
「うーん、次はどこがいいかな」
「く……っ」
予兆なくするりとナイフを抜かれて、渉は小さく呻き声を漏らす。傷口を生暖かい湿り気と、じんじんとひずむ痛覚とが支配する。
渉は腹に力を入れた。内臓は守らなくては致命傷になる。どうせ無防備で、防ぐことができないのなら、どこを刺されてもいいように備える。
「キ――ヒヒ」
そんな渉を嘲笑うかのように、茉結華は片足で膝を割ると、太腿の内側にナイフをざくり。
「――っ!」
予想外の痛手に思わず悲鳴を上げそうになって、渉は歯を食いしばった。全身の筋肉が強張って、横隔膜がビクビクと弾みを上げる。
茉結華はぺろりと唇を舐めた。
「刃物の味ははじめて? ふふっ、気持ちよすぎて声も出ない? ねえ渉くん、さっきまでの威勢はどうしたの? ねえねえ渉くーん」
言いながら、ぐりぐりとナイフを押し込んでいく。広がりゆく痛みと溢れ出す血の熱に、渉は身じろぎひとつ取れない。
(くそ……っ)
煽られても悔しさなんてなく、『仕様がない』『自業自得』という言葉が自身に深く突き刺さる。
反応を見せない渉に飽きるどころか、茉結華の煽りはエスカレートする。
「あれ? やだなあ渉くん、もしかして……せーり来ちゃった? ダメだよ、ちゃんと言ってくれなきゃ困るでしょ?」
「……る、せえよ……響――うっ」
最後まで口にする前に、ナイフを勢いよく抜かれた。渉は震えた呼吸を繰り返す。
視界外でいったい、どれほどの血が流れ出ているのか。脇腹の血はすでに乾きはじめている。次はどこを刺されるのか――
「渉くんはいつになったら茉結華って呼んでくれるのかな」
白く霞む視界のなか、降ってきたのは茉結華のため息だった。渉は眼球をちらと動かし、その顔を盗み見る。
茉結華は片眉をひねらせて呆れ返っていた。凶悪だった目つきは和らぎ、殺意の色も消えている。渉は朦朧とする意識のなか、今できる精一杯の口を開いた。
「み、みは……」
「うん?」
「耳……切り落としたがってただろ……。片耳くらいなら……いいよ……」
意識を失う手前まで、渉は殺意の証明を続ける。自分らしく、茉結華の本質を探り続ける。
茉結華は「あー」と声にしながら思案して、
「うん、それもいいかも。だけど渉くんは、なか掻き混ぜられたほうが効くでしょ? こう、ナイフじゃなくて針とかで、ぐちゃぐちゃあーって」
何食わぬ顔で、真面目に残虐な回答をしてみせた。渉は言葉が紡げずに瞬きを繰り返す。
「顔に出てるよ、本当は怖いくせに、強がっちゃって」
「……」
「渉くんは殺してほしいみたいだけど、嫌だよそんなの。渉くんは誰かに殺されるよりも、一人で勝手に死ぬほうが合ってるもん」
茉結華は主観的なことを言ってのける。それから、おそらくポケットから取り出したであろう汚れのないハンカチで、ナイフに付着した血を拭う。渉はゆっくりと呼吸を続けながら、最後までその様子を眺めていた。
折り畳みナイフを片付けた茉結華は、渉の頭があるほうに移動すると、腋の下に手を入れて後ろ向きに引きずった。指一本動かせない渉は、ずるずるとされるがままに移動させられる。茉結華は部屋で唯一の押入れを開けて、脚を折り曲げないと入っていられない狭さのその空間に、渉を詰め込んだ。
「スライドロック付き、便利でしょ。このなかでなら、いくら汚してもいいからさ。……ひとりで慰めてなよ」
冷たい木の壁を背中で感じながら、聞こえたのはそんな声。次に訪れたのは、ピシャリと戸を閉める音と、視界のすべてに広がる暗闇、息苦しい古びた木材のにおい。
「じゃあね、渉くん」
戸の向こう側から小さく聞こえた茉結華の声。去って行く人の気配。押し寄せる失意と孤独。
意識を失ったのが先か、目を閉じたのが先か。渉は独り――暗闇のなかに身を預けた。
* * *
あれから何分、いや何時間経ったのだろう。ふと意識が戻った渉は、押入れのなかで密かに目を覚ました。状況は不変的に真っ暗闇のまま。唯一、襖の隙間から、細く白い光が差し込んでいる。
目覚めてすぐ、渉は反射的に息を止めた。
――くさい。
酷い金属臭が鼻を突いた。つい呼吸を止めてしまうほどの悪臭。原因は言うまでもなく、先ほどから左半身を湿らせている自身の血液である。
脇腹の出血は眠る前と変わらぬ程度の量で、端のほうはもう乾いて固まっていた。痛みも麻痺してあまり感じない。問題は、傷口が燃えるように熱く疼いている――左内腿のほうである。出血が酷く、臀部までもが湿っていた。
(痛え……気持ち悪い……動けない……)
打撲、創傷、出血、頭痛、目眩、吐き気。この最悪の状態に渉は顔をしかめた。
吐き気と頭痛は脱水症状だろう。だから厚着で、こんな密室にいても汗ひとつかかないのだ。
仄かに血の味がする舌を動かして無理やり唾液を飲み込むと、渇ききった喉がヒリヒリと痛んだ。顔も身体も――頭の先から爪先まで――全身が軋みを上げている。拘束された身であれだけ暴れ、殴られ、刺されたのだ。蓄積された疲労も加わって、内も外もボロボロである。
(……死ぬ……死ぬ、死ぬのか……)
渉は空白の頭で考えた。血を失い、体力を失い、このまま独りで死んでいくであろう自分のことを考える。
(失血死か……衰弱か……。他殺……いや、自殺かな……)
行為だけなら自殺のようなものである。けれど警察は他殺と考えて処理するのだろう――あくまで死んで、見つかったらの話だ。
(朝霧と、ちーちゃんも……こんな気持ちで……いいや、俺は殺されるんじゃない……一人で勝手に死ぬんだ)
茉結華のなかの響弥を知りたくて、殺意がないことを期待して、押し付けて――望んだ結果と違っていて――
(自業自得……)
全部、自分が蒔いた種――
そのときぴたりと思考が停止して、渉は死にゆく自身を改めて確認した。
上着は乾いているが、スラックスは後ろまでびっしょりである。出血もまだ続いているのだろう。けれど膝を曲げているからか、患部は心臓と同じかそれよりも高い位置にある。つまり多少なりとも、出血は抑えられている……?
それでも動けないのは変わらない。
(……凛に、何もしてやれなかったな……)
警察官になって、彼女をそばで支えていきたい。人を守れる立派な警察官になりたい。その夢は叶うことなく終わる。
(自分の身も守れないくせに、誰かを守りたいなんて……おこがましい奴)
泣きたいのに、涙が出ない。
(響弥は……喜んでくれるよな……、きっと……俺が死んで、喜ぶ……)
そしてこれから先もずっと――ずっと……、
犯罪は続いていく。
(……)
彼の手によって、奪われる命がある。
それは唐突に訪れた、虚無感だった。こんな状態になってもまだ、本能というものは先のことを考えるのか。――でも、
(もう……何もできない。できないくせに、考えだけが先走る……あいつの言うとおりだ)
茉結華の言ったとおり、何もできない。
(……死にたくない)
渉は、閉め切られた襖に目を向けた。ここから抜け出せる、ただひとつの出口……。
細く差し込む光の線は、身体の上を通っている。そのまままっすぐ壁へと伸びる線を追って、渉は思わず瞼を持ち上げた。
ちょうど光が照らす壁板に、字が彫られている。子供が刻んだような歪な文字。
平仮名で、たった三文字の。
「……ま、ゆ、か…………」
掠れた声で読み上げたその瞬間、スッと襖の擦れる音がして、光の線が大きく広がった。
肩の支えがなくなって、渉は崩れるように倒れ出る。脳はまず『痛い』という認識をするだろう。ナイフで刺されたときと痛覚は変わらない。なのに、何が起きたかまでは理解が追いつかない。
衝撃で閉じてしまった瞳を開くと、茉結華が――目つきの悪い大きな双眸で、じぃっとこちらを見下ろしていた。その足元に置かれているのは、明かりを灯したテーブルランプ――これが押入れのなかまで届いていた光の正体である。
茉結華は神妙な面持ちで、渉の身体を舐めるように見た。そしてひとつの場所に目を留めて、下半身のほうへと移動していく。手に救急箱を持っているのが、渉の目にもはっきりと映し出されていた――
ベルトが外される音をどこか心地よく思いながら、渉はもう一度、今度は強く瞼を閉じる。
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