だから……、今日はサービスだ

 学校から西側の位置に『神永かみなが分寺ぶんじ』という寺がある。十数年前はメディアから大々的に取り上げられたものだが、今はひっそりと経営されている。門が小道に紛れ込んでいるこぢんまりとした寺の住職は、今日もその姿が見られない。

 本堂の脇には、馴染むように建てられた瓦屋根の家がある。見る角度によっては寺と無関係な一軒家に見えるだろう。


 寺の門を通らずとも裏から回って出入りができるその家に、少年は帰宅した。玄関で靴を脱ぎ捨てて、暗い廊下を進んでいく。向かう先は洗面所。

 トレードマークのイヤーカフを外して制服を脱ぐ。風呂場の戸をガラリと開けて、頭からシャワーを浴びた。全身を洗い流したところでシャンプーを手に取り、先まで染まった黒髪に浸していく。水では何の変化もなかった染色剤が、みるみるうちに溶け落ちていった。

 白と黒が混ざった灰色の泡が、贅肉のない体躯をなぞって道を作る。次に湯を流したときに現れるのは、純白の地毛。

 そうして舞い戻った自分の姿を、白く曇った鏡を擦って確認する。

 茉結華はこの瞬間が好きだった。




 着替えを済ませてからリビングの戸を開けると、ちょうどエプロンをしたばかりのトワと目が合った。


「あ、おかえりなさい! 晩御飯を作りにお邪魔してます」

「うん、ありがとう。ただいま」


 茉結華はタオルで髪を包みながら、部屋の奥へと歩いていく。折り畳み式のテーブルを開いて、ドライヤー、櫛、保湿クリームなどをずらりと並べた。頭にタオルを巻いているうちに、さっさと肌の手入れを済ませる。BGMは後ろから聞こえるトワの鼻歌であった。

 その後、タオルで髪の水気をこれでもかと言うほど取り、オイルをつけてからドライヤーで乾かしていく。色素を失った者として、これらのケアは最重要項目であった。

 彼と、自分とを切り替えるためのルーティンワークは、メンタル面に直結している。見た目のコンディションを整え終えてようやく、茉結華は茉結華として顕現するのだ。


「ふん、ふん、ふふんふん」


 トワは鼻歌を歌いながら、挽き肉と微塵切りされた玉ねぎをボウルのなかで捏ねていた。

 茉結華は空のペットボトルを二本持って流し台へと行き、水道水を注いでからストロー付きキャップで蓋をした。これも渉が来てからはいつもしていることである。


(今日の夕飯は何だろなぁ。渉くんにも食べさせてあげたいな)


 そう思いながら茉結華はリビングを後にした。


(ま、いい子にしてればの話だけどね)


 茉結華は散らかった自室に戻ると、机の引き出しから結束バンドと折り畳みナイフを取って、ハーフパンツのポケットに忍ばせる。誰かが部屋に入ったという形跡はないし、なかから出てきた気配もない。けれど茉結華は注意する。知らぬ間に中身が空になっていないか。渉の姿を確認するまで、この緊張感はなくならない。安心感は彼の姿を見て、はじめて得ることができるのだ。


 クローゼットの奥へと進み、隠し扉のロックを解除した。緊張の一瞬――扉を開けて、なかへと踏み込む。

 渉はこちらに背中を向けて寝転んでいた。その姿に安堵し、茉結華はまた別の緊張感を抱く。


(……寝たふりっぽい)


 結束バンドで縛られた手を後ろに組んでいる渉は、今朝と変わらない位置で横たわっている。これを見て『まだ眠っているのか』と思うほど茉結華は素人ではない。注意には注意を重ねる。

 茉結華は持っていたペットボトルをその場に置いて、ハーフパンツのポケットを上から撫でた。万が一に備えてナイフは常備している。習慣に狂いはなく、問題はない。


 声をかけて反応を誘おうかと考えたが、敢えて黙って近付くことにした。静かに、だが湿気で張り付く畳敷きを足裏で受け止めながら、ペタペタと歩を進める。その気になれば気配も足音もゼロにできるが、渉が気づいてくれなければ意味がない。

 茉結華は渉の背後に立って、慎重にその横顔を覗き込んだ。瞳を閉じて寝息を立てているようだが、昨夜と違って寝汗はかいていない。今しがた寝転んだばかりだという証拠か、それともこれは――


「……渉くん、」


 茉結華が呟いた瞬間、畳の擦れる音と共にスラックスが黒い弧を描いた。

 案の定、渉は寝たふりをしていた。背後に立つのを待っていたのか。


「っ!」


 予想以上に足払いの衝撃が強く、茉結華は前のめりになって床に片手を付ける。そして次は予想の範疇――横から飛んできた蹴りを茉結華は転がって避けた。


「ハハ、子供騙し――」


 余裕ぶる隙もなく、渉は身体をバネのようにして跳ねて、茉結華に体当たりを食らわせる。


(っ……今、爪先立ちで……!?)


 茉結華は知らなかった。拘束された状態で、渉がここまで俊敏に動けるようになったことを。

 バランスを崩しながらも茉結華は渉の肩に手を回し、抱き寄せて逆に押し倒そうとする。だが渉も同じように前方に体重をかけてくる、これではただの踏ん張り合いだ。

 茉結華は渉の狙いを察して、仕方がなく足払いをかけた。呆気なく床に叩き付けられたその身体に跨る。


「惜しい、でも今のはいい動きだったよ。ご褒美にチューしてあげよっか」


 言いながら顔を寄せると、渉は頭を押さえつけられながらも鋭い目つきで射抜いた。茉結華は目前でピタリと静止して、ついと姿勢を遠ざける。


「渉くんはするほうが好き? ここにしたかったんでしょ、残念」


 茉結華は自分のTシャツの襟をぐいっと引っ張り、色の薄い肌を晒した。

 そう、先ほどの揉み合いで、渉が狙っていたのはここ――首筋である。噛み付く気でいたようだが、その動きは茉結華に一歩及ばなかった。

 渉は這い出ようと身体を動かす。挑発されて苛立ったようにも見受けられる。


「おっとと、暴れても無駄だって……学習しないね?」

「お前が、言ったんだろ」


 茉結華は首を傾げる。


「何を?」

「抵抗しろって、お前が言った」


 だから無駄だとわかっていても足掻くと、そう言いたいのだろうか。

 渉は、けれど、息は上がっている。


「確かに言ったけど、でも」

「俺も抗うと決めた、お前も退屈させるなと言った。だから……、今日はサービスだ」


 ハッと息を吸い、渉は頭突きしようと上半身を思い切り起こした。

 茉結華は咄嗟の判断でその喉元に手刀打ちする。相手に与えるはずだったダメージはすべて渉の元に跳ね返る。


「ぐ……っ!」呻いた渉に続いて、「あっ……」小さく驚く茉結華の声が口から漏れていた。


 後ろ向きに倒れた渉は当然ながら頭と背中をぶつける。急所を打たれて呼吸困難に陥り、ガクガクと痙攣するその姿を見て、茉結華はぱちぱちと目を泳がせた。

 どうしよう――と考えた末、茉結華は折り畳みナイフを取り出し、渉の首に突きつける。これ以上暴れられても仕様がない、だから。


「は――、あ――、はあ――、はあ、はあ――」


 渉は呼吸を整えるさなか、自分に当てられた刃物の存在に気づいた。わずかに触れる切っ先を一瞥して、茉結華のほうへと視線を向ける。


「活きがいいのは嬉しいけど、違うね。渉くん、無駄に体力を減らして何になるの?」


 抗うだけのサービス精神なわけがない。本気で抗い、逃げようとするならば、寝たふりなんて幼稚な真似をする必要もない。例えば相手の死角から飛びかかり不意打ちを狙う、そのほうが賢明であり有効的である。部屋に入る際、茉結華がいつも警戒しているように。


「本当は何考えてるの? これじゃまるで陸に釣られて跳ねるお魚さんみたい……だけど――もしかして釣られたのは私のほう?」

「…………ふっ」


(笑っ……)


 その笑みの理由を思考する間もなく、渉は首を起こした。あてがっていたナイフに肉が食い込んで、


「――っ!」


 またしても、茉結華は咄嗟に渉の首元を腕で押さえつけた。

 一瞬だが、確かにナイフの刃は肉を切り裂いた。その証拠に、渉の首筋には奇麗な一線と、ツプリと浮き出る血の玉が見て取れる。


「……何逃げてんだよ。せっかく向かってやってんのに」

「渉くん正気? 首にナイフ当てられてるのに……動くなんて」

「言っただろ、サービスだって」

「動いたら刺すって意味だってこと、わからない? 動脈でも切ってたら……」

?」


 渉の鋭い聞き返しに、茉結華の心臓がドクンと脈を打つ。


「俺はお前にとって人質? 違うだろ、赤の他人だ。俺が暴れて傷付こうが、体力を減らそうが、お前には関係ない」

「……」

「それとも、まだ親友って呼んでくれるのかな、響弥くん?」

「――っ」


 茉結華は返事の代わりに、グリップで、はじめて渉の顔を殴りつけた。


「私は茉結華。渉くんの親友じゃない」

「響弥、だろ――」


 歯を食いしばる渉の顔を、今度は反対側から殴る。さらにもう一度、折り返し殴った。


(……らしくない)


 頬や鼻、顔中に血を滲ませながらも、渉は不敵な笑みを作り続ける。茉結華は眉を平坦にした。


「不快だなあ、そういうおふざけ。渉くんらしくないよ」

「俺は……嘘偽りなく、誠実に接してるつもりだよ」

「誠実だって言うなら人のこと間違え続けないでよ。どうせやるなら、友達ごっこより恋人ごっこのほうがいいなあ」


 ハハ、と乾いた笑いを返してやると、渉の表情から薄ら笑みがなくなった。渉はどこか遠くを見つめて言う。


「……俺は、親友だと思ってる」

「そ、響弥が聞いたら喜ぶだろうね」

「嫌われても、俺の気持ちは変わらない」


 弱々しくも芯のある声色だった。茉結華は静かに息を呑む。


「響弥は、渉くんのこと、嫌ってなんかないよ。今日だって渉くんのこと……」

「お前に言ってんだよっ!」

「っ!」


 ぞわり――と、

 全身の毛が逆立つような感覚が走る。

 おかしい。

 意識の切り替えはできているはず――なのに、まるで自分のことのように胸がキリキリと痛む。

 こんなこと、あってはならない。

 だから茉結華は、渉が思う相手は響弥ではなく、『自分』だと考えた。『茉結華』のことを親友だと言い、『茉結華』のことを好きだと言っている。そう考えて、処理能力を働かせれば――おかしなことは消えてなくなる。

 なんてことのない、愛の告白じゃないか。


「へえ、そう。私は別に、渉くんのこと親友だなんて思ってないけど、でもそっか――うん、ありがとう。私も渉くんのこと好きだよ」


 感情のない上辺だけの言葉をつらつらと口にする。これはただのおまけ、牽制。

 おそらく渉は、昨日の一件が原因でこのような行動を起こしている。

『そういうところが、本っ当に――大っ嫌いだった!』

 あの言葉に嘘はない、けれど茉結華自身、感情的になってしまったことは認めよう。だから牽制しておく。

 あんな言葉で揺らぐ渉は、まだまだ子供だ――


「……今お前が思っているとおりだよ」


 沈黙を破り、渉は口を開いた。


「俺はお前に言われた言葉で傷付いた……傷付いてる自分がいた。我ながら馬鹿だなって思うし、どうしようもない奴だと思う」

「あ、ハハ、へえー自暴自棄ってやつ?」


 言いながら渉の上から退こうとし、「響弥」

 呼び止められて、ビタッと動きが止まる。


「おりるなよ響弥。まだ終わってない」

「…………響弥じゃ……ないって……」


 ふつふつと湧き上がる怒りの感情。と同時に、どこか悲しい気持ちも抱いていた。――だったらお望み通りに。

 茉結華はナイフを手中で回し、逆手で握り直すと、先ほどより強い力で渉の頬をぶん殴った。渉は奥歯を噛んで耐え、次の攻撃に備える。が、茉結華はナイフを持っていない左手を、その無防備な首に絡ませた。


「……ぅ、あ……、う……っ……」


 細くしなやかな指が皮膚を食い破らんとする。血管でも気道でもなく、周りの肉をギチギチと絞め上げる。

 激痛に堪え兼ねて、渉は動けないと知っていながらも自然と首を振った。このまま意識を飛ばしてしまおうかとも思ったが、眠りにつかせるのはつまらない――茉結華はパッと手を放した。


「は――っ、あ……はあ――はあっ――ゲホッゲホッ、ゲホッ」


 渉は激しく呼吸を繰り返して喘いだ。茉結華は冷たく言い放つ。


「これが嫌ならもう間違えないで」


 サービスと言っていたが、やけに挑発的なのは何なのか。抵抗することと人を煽ることはイコールではない。これじゃまるで、殺してくれと言っているようなものである――

 茉結華が引き下がろうとしたそのとき、


「……い、……嫌じゃ……ない」

「――――は?」


 渉はひゅーひゅーと細い息を吐き、潤んだ瞳で茉結華を捉えていた。


(嫌じゃない――って、だから……それじゃまるで……)


「ナイフ……使い方、間違ってるんじゃないか? 子供騙しは……お前のほうなんだよ、響弥」


 渉は不規則な呼吸を繰り返しながら、決定的なことを告げた。


「甘いんだよ……やってること全部。お前……俺を殺せないだろ」


 ――ああ、そうか。

 ギリッと音を立てたのは、茉結華の歯軋りだった。

 驚愕し、納得し――茉結華は無言のまま、ナイフを振り上げる。

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