最後の選択
詩子は病室のドアに手をかけ、遠ざかっていく二人の刑事を見送りながら大きく嘆息した。
「やっと帰ったわ、面会時間くらい守れっちゅうねん」
時刻は現在午後一時。本来ならば今からが面会時間であるが、警察がやって来たのは昼前。信じられないほど早い時間である。
病室を訪ねてきた刑事は、昨夜朱野警部と共にやってきた
口を尖らせる詩子に対し、響弥は「たはは……」と笑う。
「まさか警察権限で押しかけてくるなんてね」
「ほんまなら今からやで? せっかちにもほどがあるわ」
「詩子さんも、呼び出しちゃってごめんね」
「もうそらええよ、うちも昼から行くつもりやったし。あ――これ置いてくるわ」
そう言って詩子は食器の乗ったトレイを持って、せかせかと病室を出ていった。
栄養バランスと摂取カロリーが重視された病院のご飯は、普段から食が細い響弥にはちょうどいい量だった。聴取を受けながらじゃなければ、もっとおいしく食べられたことだろう。
棚の上には風田たちが持ってきた果物カゴが置いてある。いわゆるフルーツギフトだ。詩子が用意してくれた本や雑誌もあり、個室のため小型テレビはイヤホンなしで観られる。携帯電話も使い放題だ。
身の回りのことは美人な看護師がしてくれるため、不便さもあまり感じない。ただひとつを除けば――
午後一時過ぎ、ベッドに置かれたスマホが震えた。手に取って見れば、電話のコール画面が表示されていて、その相手は、
「渉だー!」
響弥はベッドの上で半ば跳ねながら電話に出た。
「はいはい、もっしもぉ――」
『響弥!?』
こちらの声に被せるようにして渉の声が飛んできた。響弥は危うく落としかけたスマホを握り直す。
「な、な、な……俺だけど、どうかした?」
『今そっちに向かってる。響弥、今一人か?』
言われてドアのほうを一瞥してみるが、詩子が戻ってくる気配はない。響弥は「う、あー、ひとり」と曖昧気味に答え、「なになに怖い怖い、どうしたんだよ……?」と問うた。
電話越しの渉の勢いは、なかなかに不安を感じさせるものである。風を切る音が微かに聞こえるため、恐らく外にいるはずだ。
来るのは別に構わないが、いったいどういう了見なのか。まずは落ち着いてほしい、というのが響弥の本心だった。
しかし、そんな思いは親友には届かず、電話の向こうから告げられた言葉は不穏めいていた。
『病室に誰か来ても入れるな』
「え?」
『いいか、絶対に――ああ、くそ……できれば一人でいないで、誰かと一緒に……』
徐々に弱くなる渉の声は、不安と苛立ち、そして危機感を感じさせるものである。説明してくれ、と言いたいところだが、響弥がしつこく求めても渉はきっと答えない。
――それにもう、聞かなくてもわかった。
響弥はくすりと笑って、
「心配ねえよ、すぐ来るんだろ?」
『ああ、バス乗ったらすぐだ』
「バス? 渉走ってたの?」
『さっきまでな。今バス停に着いた、もう切るよ。何かやばかったら連絡して』
ブツリ。響弥が返事をする前に電話は一方的に終わりを迎えた。
「き、切られた……」
てっきり自転車を引いているのかと思えば、渉は走りながら話していたようだ。雨の日だから今日は徒歩通学だったのだろう。それにしては息を切らしていなかったが――まったくあの親友は、感心する隙も与えちゃくれない。
通話の切れたスマホ画面を憎々しげに見つめていると、詩子が戻ってきた。
「ほい」と言って差し出したのは、響弥の好きないちごオレ。響弥はお礼を言って受け取り、ストローを挿して早速飲んだ。とろりと甘い濃厚ないちごオレが五臓六腑に染み渡る。
「んんー、うめえー!」
目に見えて喜ぶ甥っ子に微笑みを向けて、詩子は自分用に買ったトマトジュースを飲んだ。響弥はあっという間に飲み干したいちごオレを、ベッドの傍らのゴミ箱へと捨てる。
そうして、まだトマトジュースに口を付けている詩子へ、響弥はひょんなお願い事をした。
「ねえ詩子さん……お風呂入りたいな!」
「アホか、入れるわけないやろ?」
迷いのない辛辣な返事が返される。精一杯作ったいちごオレのように甘いフェイスも詩子には通用しないようだ。
響弥は子供が駄々をこねるみたいに、両手の拳をぶんぶんと振った。
「だってさぁ、落ち着かないよお! 特に首から上! 頭!」
「そら頭は拭けへんからなあ」
当然、手術したばかりの身では風呂など入れず、身体は濡れタオルで拭いていた。しかし頭となると話は別。普段からヘアワックスを使用している響弥にとっては、過酷の一言に尽きるのだ。
響弥はパンッと音を立てて手を合わせる。
「ね、洗って? お願い! 朝シャンならぬ昼シャンだと思って!」
詩子は呆れ顔でため息をつき、「……洗ったら帰るで?」
「やったー!」
勢い余って万歳した拍子に痛みが身体を貫いて、響弥は「いててて……」と苦笑した。
* * *
詩子が空を見上げたとき、雨は降ったり止んだりを繰り返していた。傘置き場から傘を抜き取り、病院を後にする。
駐車場に向かう途中で一人の女子高生とすれ違ったが、詩子は気にも留めなかった。
長い黒髪を靡かせて闊歩する少女は、藤北の制服を着ていた。
* * *
病院行きのバスは休日に限らず利用者の姿が目立っていた。渉は一人、バスに揺られながら窓の外の曇り空を眺める。
(自転車があればな……)
学校近くのバス停に乗り遅れた渉は、別のバス停まで走る羽目になった。もし芽亜凛が響弥の病院に向かっているとしたら、彼女はあのバスにいたはずである。自転車を走らせていたら間に合っていたのにと、渉は自身の習慣を恨んだ。
やがて病院の正面が見えてきた。渉は小銭を払って降車し、利用を控えていたスマホを取り出した。画面には、凛からの不在着信が表示されている。渉は病院に向かう足は止めずに、すぐさまタップして繋いだ。
「あ、凛――」
『渉くん何かあったの!?』
幼馴染の慌てた声が耳を突いた。いったい誰から早退のことを聞いたのか、凛はメールを三件、電話を二件送ってきていた。
「なんでもないよ、用事だ」
『用事? 体調悪いとかじゃないんだね?』
「ああ、ないよ」
ぶっきらぼうに返すと、安堵したような吐息が聞こえた。
『もうっ……電話も出ないし、心配したんだから……』
「悪い、バスのなかだったから」
『えっ、バス? ……バスぅ?』
(あ、やべ……)
漏れかけた声をすんでのところで抑えた。思わず余計なことを言ってしまい、渉は軽く咳払いした。
「昼休み終わるだろ、もう切るぞ」
『待って待ってバスって何? 渉くん今どこにいるの』
「だから用事だって。心配いらない、すぐに帰るよ」
『待って、渉くん――』
凛の声を耳から遠ざけて、渉は乱暴に通話を終了した。まだテストが残っている凛に、変な心配はさせたくない。
(傘……忘れた)
渉は病院の傘置き場を前にして、学校に傘を忘れてきてしまったことに気がついた。急いで飛び出してきたから無理もない。
(まあいいか、何も起きていなければそれでいいんだ。予想が外れていればそれでいい……)
帰りのことを考えながら、足早に病院のなかへと入る。さすがに週末となれば混んでいるようだ。そのほとんどが診察を受けに来た人だろう。カウンターにはそれらしい人たちが並んで見えた。
渉は芽亜凛の姿に気をつけながらホールを進んだ。病棟ごとに分けられたエレベーターに乗って、八階のボタンを押す。上に向かっている最中も、頭のなかは響弥のことでいっぱいだった。
――守ると約束した。努力すると言った。響弥を選ぶと断言した。あのすべては嘘じゃない。偽りにしたくない。
響弥だけは、守ってみせる。
八階に着く頃には、エレベーターの利用者は渉一人になっていた。到着すると同時に、急いで響弥の病室まで足を進める。行き方は昨夜の時点で覚えていた。
『神永響弥』のネームプレートを前にして、渉は一時停止する。
「……ふぅー……」
息を深く吸って吐き、覚悟を決める。勢いよく開けるか、それともゆっくり開けるか。瞬時に判断した末、選んだのは後者だった。
音もしないほど静かに、渉はドアを開けた――
「…………わね、……永響弥……」
聞こえてきたのは、ざわりと鼓膜を震わせる、橘芽亜凛の声。視界に見えてきたのは、すらりと伸びた彼女の後ろ姿。
予想していたうちの最悪の展開に、渉はゴクリと喉を鳴らした。いるのか、いるのか……本当になかにいるのかよ……。心臓はドクドクと鼓動を速くし、喉は緊張で焼け付きそうである。
響弥の姿は目視できない。個室だというのに、なぜかベッドの脇を隠すようにカーテンが垂れているのだ。しかし芽亜凛はその先にいる響弥と話しているようである。
「…………のは、……植田先生?」
微かに聞こえてくる、芽亜凛の声。鼓動がうるさくて、会話がよく聞こえない。
(植田先生が何だ……? いったい何の話をしてる……)
息を潜めて近づき、角度を変えてみると、ベッドの膨らみが確認できた。響弥は確かにそこにいる。だがそれよりも、渉の意識が集中したのは、彼女の手の内にあるカッターナイフ――ではなくて、大きな果物ナイフ。
それを目にした途端、図書室での出来事がフラッシュバックした。襲いかかる橘芽亜凛。怯える響弥。一足遅れた渉の動き。
(――あのとき俺が迷ったせいで、響弥にナイフが当たったんだ。何が正解かわからなくて、判断が遅れた。怪我はなくとも、ナイフが触れたことに変わりはない。守れたことにはならない……っ!)
芽亜凛はまっすぐにベッドを見つめ、ナイフの切っ先を響弥に向ける。瞬間、
「っ……や、やめろおおおっ!」
「――っ!」
喉を震わせながら背後から飛びかかり、渉は芽亜凛の首に腕を巻き付けた。
これが、望月渉の選んだ答えだ。
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