間違い探し
「くっ……う、ううぅうう……!」
それは渉の唸り声か、それとも芽亜凛の抗う声か。
渉は決死の思いで絞め技を続けた。
(落ちろ、落ちろ、落ちろ、落ちろ……!)
注意すべきは得物の動きと、己のバランスを取られること。そして、背負投を食らうことである。忘れてはならないが、芽亜凛は柔術を心得ている。重心を奪われるのは許されないことだと、渉は強く警戒した。
芽亜凛は首に巻き付いた腕目掛けて必死に抵抗している。引き剥がそうと指を食い込ませ、緩ませようと引っ張ったり叩いたり爪を立てたり――いずれも果物ナイフは手に持ったままだった。
渉は自分の腕がどうなろうと、響弥を守れるならそれでよかった。ナイフで刺されようと、爪を立てられようと。だから頼む。早く落ちてくれ――
やがて芽亜凛は、一度もナイフを使うことなく、だらりと力を失った。手から滑り落ちた果物ナイフが、床に当たって高い金属音を立てる。その音を合図に、渉は力を緩めた。
「はあっ……はあ……っ……」
――間に合った。
緊張と興奮で、渉はいつになく息を切らせた。呼吸を整えるさなかに額の汗を手で拭う。決して高くない室温は真夏のように感じた。
橘芽亜凛は完全に意識を失っていた。瞳を閉じた表情は穏やかで、ただ眠っているだけのようにも見える。
渉はその軽すぎる体重を支えつつ、壁を背にして座らせた。姿勢が崩れてしまわぬよう慎重に手を離し、ようやく一息ついた。
「……大丈夫。気絶してるだけだ」
そう言いながら、ベッドの上の親友を見やる。昨夜と同じ手術服のままの響弥は、けれどもトレードマークの跳ね返った黒髪でもなくて、イヤーカフも付けていない。目にはすでにコンタクトレンズをしているようだ。
彼は怯えているふうでも、怒っているふうでもなかった。ただ開いた口が塞がらずに、渉のほうを見つめていた。どちらかと言えば渉のほうが、普段とは違う響弥の姿に目を丸くする。
「け、怪我はないか……? 大丈夫か?」
渉が訊くと、響弥はためらいがちに頷いて、「……あ、えっと……ありがとう」と口にした。
まさかお礼を言われると思っていなかった渉は、首を静かに横に振る。
「いいよ、でもこの状況はまずいよな……」
「…………」
「お前は気にすんな」
うつむいた響弥が落ち込んだふうに見えて、渉は自分だけでどうにかしようと考えた。芽亜凛が起きた後の対応や、正当防衛の受け入れを思うと胃が痛くなるが、それも仕方のないことだ。
せめて響弥が味方に付いてくれればいいのだけれど、そんな彼にもいくつか質問がある。さて、何からはじめたものか――
「これ――」と言った響弥の声に反応して見ると、彼は「汗……拭くのに使って?」と白のタオルハンカチを差し出した。
「……おう」
渉は少し考えてから受け取った。自分の汗拭きタオルは鞄のなかにある。しかし先ほど飛びかかった際、鞄は肩から滑り落としたため、床に無造作に転がっていた。
何にせよ親切で渡されているため、ありがたく使わせてもらう。
「ありがとう。洗って返すよ」
「ううん、いいよ、今返して」
「え?」
反射的に聞き返して、渉はハンカチと響弥とを交互に見た。響弥はまっすぐに手を突き出している。その手のひらには、傷跡が見られた。
「その傷、橘にやられたんだろ?」
渉はハンカチを返すさなかに尋ねた。響弥はハンカチを受け取りつつ、「うん」と言う。
(いや、うんって。今までのは何だったんだよ)
随分あっさりと肯定され、渉は表情に困惑を浮かべた。そして思い出したように顔を上げて、昨日まではなかったベッド周りのカーテンを見る。
「そういえば、カーテン付けたんだな」
「変?」
「いや、別に……」
おかしな点は特にない。だが本来仕切りの役割をしているカーテンを、個室に取り付ける理由がいまいちわからなかった。
悶々とする渉の視界に、親友の奇怪な行動が映った。響弥は、渉が返したハンカチを口元に当てて――深呼吸していた。それがまるで匂いを嗅いでいるように見えて、渉はぎくりとする。
「……………………」
突っ込み待ちのボケなのか、迷って響弥を見据えた。響弥はこちらに眼球を動かすと、にやりと口角を上げて白い歯を見せた。
「だって恥ずかしいじゃん、いろいろと」
「いやそれはもういいんだけど……。お前頭打った?」
「頭? ううん、打ってないよ」
そう言いながら響弥は、ベッドから降りようと床に足をつける。渉は慌てて手を伸ばした。
「まだ動いちゃ駄目だろ?」
「平気だよ」
『えへへ』と笑った響弥はそっと渉の手を払った。その柔らかな髪からは、洗い立てのシャンプーの香りがした。違和感はなく、いつもの響弥の匂い。なのに――渉の心はざわついた。
響弥は覚束ない足取りで芽亜凛のほうへと進んでいく。やはり様子が気になるらしい。それはそうだろう、好きな女の子が気を失っているのだ、心配になるのは当然である。
渉は今一番聞きたいことを尋ねあぐねて、ちらちらと響弥を窺った。響弥は床にしゃがんで手を伸ばし、何かを探るような動きをしている。芽亜凛を気絶させたことを怒っていないのか。渉はてっきり咎められるものとばかりに思っていたので、こんな冷静な反応は意外だった。
「あのさ、響弥……」
逡巡の末、渉は思い切ることにした。皮膚を這っていた部屋の熱はすっかり消え失せている。
「お前、その髪……」
渉がそこまで口にすると、響弥はゆらりと立ち上がり、姿勢を正して振り向いた。
見慣れているはずの大きな瞳が、飾り物のように冷たく見えて――
「……響弥?」
表情のない親友。笑顔のない親友。愛想のない親友に、渉は違和感を抱き尋ねた。心臓が、先ほど以上に忙しなく鳴っている。親友の、真一文字に結ばれた唇が歪曲する。
響弥はニコリと微笑むと、躓いて転んだかのようにして、渉の胸に飛び込んだ。渉は咄嗟に抱き留めた。
胸に当たった衝撃は軽いものだったが、身体には弾けるような鋭い痛みと、冷えた感触と、異物感とが走る。まるで氷を押し当てられたようなそれは一瞬にして過ぎ去り、今度は燃え上がるようにして、腹の中心が――熱い。
「キヒ――」
響弥は渉の胸のなかで、わらう。
「キヒヒヒヒ」
肩を震わせて嗤う親友を、渉は恐る恐る視線を下げて見た。
彼の手のなかにあるのは、白のタオルハンカチと、それに包まれて覗く――果物ナイフ。鈍い光沢を放つ表面には、苺のように赤い滴が伝っている。刃先はカッターシャツに沈み込んでいて、渉はようやく、己の内にある異物感の正体を知った。
呆然と瞳を揺らしていると、視界いっぱいに広がっていた白色が遠ざかった。
タオルの白とは似ても似つかない、砂糖をまぶしたような白い髪。
「デザートがやってきてくれて嬉しいよ――渉くん」
その声は確かに響弥のものであったが、渉の知っている彼の姿ではない。
こんな人間を、渉は知らない。
「お、おま……」
お前は誰だ? と言いたかった。けれど、喉奥に込み上げた吐き気に遮られ、後の言葉は続かない。
渉は、赤く染め上がった腹部を押さえて、ガクンと倒れ込んだ。身体が言うことを聞かない。まるで人が負ぶさっているような重みがあった。
(響弥……、……?)
苦し紛れに呼吸をすると、口から信じられない量の血液が吐き出された。前方に見える自分の鞄の、金具にぶら下がっているストラップ――響弥が取ってくれた犬のストラップに、汚い赤色が付着する。
(……なんで……)
涙か、それとも遠のく意識のせいか――霞んでいく視界のなかで、白い髪の親友は三日月型の笑みを浮かべていた。
――これは何かの間違いだ。
そう言い聞かせる頭をよぎったのは、中学生の少女がしたあの忠告。
『望月さんって鈍感じゃないですか。そのうち取って食われますよ』
『うるさいカラスの本来の姿は純白かもしれない、そういうことです』
(純白……ああ、確かに……純白だな……)
黒髪から、白髪へ――
渉が目を疑ったのはそのことで、訊きたかったこともそのことで――だが、響弥の髪がなぜ真っ白になっているのか、少年は知る由もない。
そうして瞼を閉じかけた時、ぼんやりと滲む響弥の後ろで、芽亜凛がゆっくりと立ち上がった。響弥は同じく緩慢な動きで、彼女のほうを振り向く。しかし、彼が何を言う前に、
「誰があなたに、殺されるものですか」
そう言った芽亜凛が後ろ手に窓を開けて頭から消えていったのが、渉が最後に見た光景となった。
* * *
その日の夕方。
昇降口でひとり、スマホを見ている生徒がいた。
『こちらが事件現場となりました、三人の学生が発見された、都内の病院です。――亡くなった女子生徒の名前は橘芽亜凛さん。発見されたときにはすでに死亡が確認されていた模様です。警察によりますと、女子生徒は窓から転落した可能性が高く、ほか二名の男子生徒と揉め事を起こしたのが原因ではないかとして、捜査を進めております。なお、男子生徒二名はどちらも重傷で、現在は別の病院で治療を受けているとのことです。――三人は近日『呪い』で世間を騒がせていた藤ヶ咲北高校の生徒だそうで、警察は二名の意識が戻り次第……』
ニュースの内容を見ていた凛は、声もなく、膝から崩れ落ちた。
* * *
「え? 神永? その生徒、神永って言うんです?」
陽が沈む頃、事件のあった病院周りには、人集りが見られた。
ひとつは、巨大なカメラやマイクを手にしている――マスコミたち。
ひとつは、汚れのない白の制服姿で敷地内をふらつく――病院関係者。
ひとつは、スーツや私服、紺の制服や作業着が目立って見える――警察たち。
敷地の一部はブルーシートで覆われて、キープアウトのテープが張り巡らされていた。
病院内にて、三人の学生が血まみれの姿で発見されたのは、本日白昼のこと。一人は女子高生、もう二人は男子高生。三人とも、長海と面識のある者たちだ。
ナースコールで駆け付けた看護師によると、病室にいたのは男子二名。一人は腹部から、もう片方は脇腹から酷く出血し倒れていたという。男子はすぐさま応急処置を施され、現場には長海たち警察が呼ばれた。
その間に今度は病院の敷地内で、同校の女子生徒が変わり果てた姿で見つかった。遺体があったのは、少年らのいた病室の真下。部屋の窓は開け放たれていたため、女子生徒はそこから転落したと思われる。
雨が降る上空には、警察外のヘリコプターが依然として彷徨っている。この様子はテレビ中継されているのだろう。
長海が被害者の名前を確認ついでに答えると、隣でビニール傘を差している若い刑事が声を上げた。長海は補足がてら、もう一度手帳に目をやる。
「元々入院していた生徒が神永響弥、もう一人の生徒は望月渉。二人とも藤ヶ咲北高校の生徒で、」
「あぁーそれは聞きました。そうですかそうですかーなるほどねぇ、ふふーん」
刑事は愉快そうに鼻を鳴らすと、長海を置いて、鑑識が集っている車両へふらりふらりと足を向けた。嫌でも見失うことのなさそうなその後ろ姿を見つめていると、長海の傍らに風田がやってくる。
「風田さん、あれが例のですか?」
「ああ、急遽呼び出されたそうだな」
二人の視線の先にいるあれとやらは、鑑識官と話している。彼は人混みのなかでも特別目立っていた。悪目立ち、と言ってもいいほどに。
(オカルトに特化した刑事か……)
長海が持った第一印象は、『こんな刑事がいるか』であった。
七月だというのに羽織っている淡い緑のモッズコートは、どこかの刑事ドラマの主人公を思わせる。髪は根元から白金色に輝いていて、化粧をしている女性警官よりも遥かに色白。おまけにアイドルグループに所属してそうな整った顔立ちをしている、その刑事。
しかし名前は見た目に反して、日本人のものである。付けられているあだ名も、冗談のようにふざけていた。歳は二十代と思われるが、まだ十代でもぎりぎり通りそうだ。
容姿だけ見れば、コスプレをしている物好きか、撮影で訪れている役者の様にも見えるだろう。それほどまでに、彼は刑事に見えない。
「ま、変わり者だが、相棒としてしばらく世話してやることだな」
「……はい」
長海は引きつった返事をし、鑑識課の車両に向かった。
白金の刑事は、資料と報告書を眺めていた。それには指紋採取の結果が載っていて、
「――自殺ですね」
長海が隣に並んだとき、彼ははっきりとした口調でそう告げた。
「揉め合って頭から真っ逆さまぁじゃなくて、自分から窓を開けて飛び降りた、自殺ですよ」
病室の窓と、床にあった凶器とみられる果物ナイフ。そのどちらにも付いていた指紋は、亡くなった女子生徒のものだったと報告書に書かれている。
長海は眉をひそめた。
「女子生徒の指紋が、窓にも凶器にも……? それなら少女が男子らを刺し、その後か手前に窓を開けて突き落とそうとして、彼らは正当防衛を――という可能性もある。自殺と決めつけるには早いんじゃないか?」
「えぇ? 自殺ですよぉ」
彼はなおも断言した。
「重傷の二人が協力して窓から突き落としたなんて考えにくい。そんな元気があるのならとっくに病室を抜け出してますってー」
「……」
それは大いに理解できるが、しかしやはり断言はしきれない。
――被害者の少年……望月渉は、この少女のことを気にかけていた。彼らの間に障害があったのは間違いない。
「ま、凶器のほうはともかくとして、殺さなかったのは大正解。それより自殺とわかれば、これは……彼女はおそらく、リセットに出たってところですか」
その口ぶりからして彼は、まるで誰が被害者で誰が加害者かは興味がない。自殺か否かがわかればそれでいい――そんな考えを持っているふうだった。
長海は首を傾ける。
――リセット?
(人生のリセット……?)
ふとそんな思考に結びつき、ため息をついた。
どうやら隣にいる彼の奇矯ぶりは見た目だけに留まらず、言動にも表れているらしい。変わり者と言われる理由が何となくわかった。
「その言い方は感心しない」
「そうですか、これは失礼。まあ、俺にできることはないってことですね。本人がいなきゃ意味がない」
そう言ってコートを翻した刑事を、長海は呼び止める。
「お、おい……! どこへ行くんだ?」
彼の星色の髪がビニール傘から透けて見え、雨粒がその煌めきを伸ばしていた。どこにいても見つけられそうな外見なのに、彼のまとっている空気は浮世離れしていて、朧げながらに危うい。しっかりと手綱を握っていないと、いつの間にかいなくなってしまう――そんな気持ちにさせられる。
長海が問うと、白金の刑事はピタリと足を止めた。
「あなたともこれでお別れでしょう」
「……いったい、何を言っているんだ」
降りしきる雨に構うことなく、長海はその背中を捉え続けた。
夕焼けと雨雲が混じった薄暗い空の下。こちらを振り向いた彼の素顔は、誇らしげに笑っていた。
「物語は、まだまだ続くってことですよ」
その瞳は、決して失うことのない輝きを放っていた。
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