危篤状態
犯人がこれを見たら、被害者を殺しに来るのではないか――? 警察はそのように考え、朝から病院へと急行した。
そして、午後十二時半。病院を訪れていたのは、
「危篤状態だそうです。いつ急変してもおかしくないと先ほど……」
病室前から
数分前、二人は、見舞いに来ていた植田の両親に話を聞いている最中だった。だが、一室に押し寄せた医師によって聴取は一時中断。両親は医師に連れられて、植田可奈子の病室へと消えていった。
何があったのか。病室前にいた看護師に、今しがた灰本が聞いてきたところである。
――危篤状態。
昨夜タクシードライバーによって発見された植田可奈子は、そのときにはすでに意識混濁状態で、消化器官のほとんどがその機能を失っていた。外傷は擦り傷程度だったこともあり、警察は毒殺の線で捜査を進めている。また、両親の話では誰かから狙われるような覚えはなく、身内や知人にも思い当たる人物はいないとのことだ。
「聴取はここまでだな。戻って警部に報告しよう」
「ええ。防犯カメラの解析結果もあります。早くしたほうがいいでしょう」
防犯カメラの件は午前の調査でわかったことだ。
植田可奈子が倒れていた周辺、距離にして一キロメートル以内の防犯カメラを片っ端から調べ上げたところ、一部の範囲で不可解な記録の上書きが判明した。定期的に上書きされる防犯カメラの映像が、設定時間外で更新されていたのだ。各管理者に尋ねたところ、『設定を変えた覚えはない』『もう数年は触っていない』という意見が多数。
警察の気づかぬ場所で大規模なハッキングが行われていた――? こればかりは専門のチームに任せる必要がある。だが、うまくいけば一連の事件の犯人に繋がるかもしれない。大収穫だ。
――まだ戦える。長海はそう思っていた。
「そういえばネコメが来ていないようですが、まさか病院でも出禁じゃないでしょうね?」
灰本はまだ来ぬ長海の相棒を指摘する。そう言う彼だって今は一人だ。いつもは灰本とペアの
灰本刑事と綾瀬刑事。二人の仲は、相棒と言うよりは先輩後輩である。普段は綾瀬の尻に敷かれていて、灰本は明確な熱意も思いも表に出さない。しかし灰本には、刑事という間柄以上に、綾瀬を支えていきたいという特別な感情がある――――少なくとも長海はそのように感じ取っていた。
「あいつは来ない。今日は学校へ向かうと言っていた」
「が、学校……? えっ、行って平気なんです?」
「テスト期間の早帰りを狙って行くそうだ。生徒が帰った後なら心配ないだろうと」
植田の両親に聴取を行なう手前、一向に現れないネコメに長海が電話をかけると、
『俺は行けません。学校に用があるので今日はそちらに向かいます。――いえ、少し聞きたいことがあって』
聞こえてきたのは、プライベートモードとも仕事モードとも区別ができない、ネコメの静かな声だった。電話越しでこんなにも、相手の顔が見えないのがもどかしいと感じたのははじめてだった。
ネコメはつい先日、学校に伝言を頼みたいと長海に話していた。その後すぐに行動を起こしたネコメは、電話で伝えることに成功したらしい。そのとき受話器を取った相手が、偶然にもまだ学校に残っていた植田可奈子教諭だったのだ。
『長海さん……俺、実は植田先生に――――』
そう言って伝言のことを明かしたネコメの、肩を落として震えていたあの姿が、忘れられない。自分自身を責めているのか、病院にも現れないでいる。彼が伝えたことと今回植田教諭が狙われたことは関係ないと言うのに。
(まったく……すぐに単独で行動する)
「だからこのあと迎えに行く。悪いが、報告は俺抜きでやってくれ」
「それは構いませんが」
二人の視線の先で、風田が携帯電話を握り締めて廊下の向こうへと消えた。こちらを振り返った綾瀬が髪をかき上げながらやってくる。
「ん? ネコメはどうした?」
「綾瀬さんそれさっき尋ねました」
「なんだ、まだいねえのか」
綾瀬は胸の前で腕組みをした。それがネコメを待っているかのように見えたので、「あいつはここへは来ないと思います」
長海が促すと、綾瀬はぼんやりとした顔つきで小さく頷いた。どうやら珍しく、何か言うのをためらっているようだ。長海が再び口を開く前に、灰本がすかさずフォローに入る。
「学校の夏休み、予定より早くなるそうですね」
「……校長は今にでも祓を任せたいんだろ。あの、
あたしの口からお前らに伝えてくれって。班長も落ち込んでたよ。と綾瀬は泣き笑いのような顔で呟く。ネコメも揃ってから伝えるべきか、彼女は悩んでいたようだ。
いよいよ、警察は不要か。掴んだ糸が手からすり抜けていくような錯覚に陥り、長海は拳を握り直した。――祓をして、解決なんてするはずがない。させてはいけない。
事件の犯人は必ず存在する。悪事を働き、姿をくらまそうと企み――今もどこかで警察を嘲笑っているに違いない。
もしかすると、すぐ近くにいるかもしれない。
* * *
今朝に続いて、茉結華が自分の手当を頼むと、渉は嫌な顔せず応じてくれた。
「お前の髪ってさ、黒くなんないの?」
包帯を解いた渉は突拍子もない質問をした。
黒くならないのかとは、どういう意味で言った言葉なのか、茉結華は疑問に思う。自然治癒の話か、それとも『
目を伏せてガーゼを取り出していた渉は、茉結華の緩やかな視線に気づくと「あ、いや」と言葉を濁らせた。
「色が抜けたのは殺しを強要されてたから……って言ってただろ。今もそうなのか?」
「……。今はそんなことない、けど……」
「……けど?」
渉は茉結華の背後に回ると、創傷にガーゼを当てる。まだ麻酔が効いているため強めに押さえても痛みはないのだが、渉は気を遣ってか、指先で慎重に触れる。
――今日に限ってそういうことを訊くんだね。渉くんは、欲深いな。
茉結華は笑うように歯噛みした。確かに、話していないことだった。
「渉くんは、それだけで色が抜けたと思ってるんだね」
「え……?」
「確かに閉じ込められてたし、ご飯も抜きにされてたって言ったよ。けど別に、それだけじゃない。渉くんにはきっと、想像できない」
背後で止まった渉の手の動きから、顔も気持ちも伝わってくるようだった。
本当を話したらどんな顔をする? 同情する? 後悔する? 教えてやる気はなかった。こんなふうになってしまった今日の今、茉結華は渉の欲に応えるつもりはない。
「手が止まってるよ。巻いてくれるんでしょ?」
「あ、ああ……」
茉結華が振り返って言うと、渉は開いた口をもぞもぞと閉ざした。それが正しい選択だ。もう、交わす言葉はいらない。
自分の身体を前後する渉の手を視界に入れながら、茉結華はスマホで時刻を確認した。
――約束の時が近い。
ふたりを繋ぐ鎖の音を耳にしながら、茉結華はぞくりと武者震いした。
さて、餌の準備と行こうか。
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