第十二話
嵐の前の静けさ
男なのか女なのかわからないシルエットを盾にして周囲を見渡す。
前方には白黒の車がたくさん、無造作に停められている。茉結華を囲む大人たちはみな武装をしていて、年配の刑事の手には拡声器が握られていた。刑事の言葉は雑音に呑まれて聞き取れないが、この状況からして説得を試みている。
四方八方、どこからでも敵意を感じる。警戒態勢。自分はすでに包囲されているのだ、状況は最悪と言ってもいいだろう。
だがこちらの意思は固く、白旗を上げる気は起きない。
茉結華はぐるぐるとその場で回転を続けて、常に射線に出ないよう身体をずらし続ける。ビルの屋上やタワーから狙われていることは、スコープの反射で丸わかりだった。相手が子供だからって、わざとそうしているのかもしれない――舐められたものだ。
突如、銃声がこだました。茉結華の右手から拳銃が離れていく。撃たれたのか、右手に走る痺れは指先と骨にまで響いていた。
……自分は死んだのか? いいや、まだ生きている。警察の射撃によって、武器を弾かれただけだった。ナイフと人質はこちらの手にあるというのに、そんなことをしていいのか? 周囲の大人たちは顔を見合わせて訝しんでいる。冷や汗を流しながら無線でやり取りしている者もいる。
なるほど、指示を無視した警察官の発砲。馬鹿な奴もいたものだと、茉結華は内心嘲笑した。ならばお望み通り、人質を殺すまでだ――――そうわかっているのに、なぜか身体が動かない。
焦りを募らす茉結華に、『もう終わりだ』と誰かが言った。たったそれだけの言葉が、胸の奥の奥まで染み渡る。そっか、もう終わりなんだ。それなら、もう――
「!」
夢から覚めた茉結華は、自分の部屋の天井を目にして安堵した。渇いた喉を不十分ながらに唾液で潤し、呼吸を落ち着かせる。甲で触れた頬は、涙でぐっしょりと濡れていた。
――今の夢は……。
茉結華が悪夢を見るのは死体処理をした後だ。昨夜は
腰部の傷口が開かないようゆっくりと上体を起こした茉結華は、同じベッドの上でまだ寝息を立てている
監禁部屋を抜けて自室で眠ろうと誘ったのは、もちろん茉結華のほうだ。元々このベッドは、いつか渉と並んで寝られるようにと新調したものである。自分ひとりでは大きすぎるベッドも、ふたり並べばぴったりだ。
茉結華は泥のように眠る渉の横髪を一房指で掬い取り、耳の横へと掛けた。最近よく眠れていなかったようだが、ふかふかのベッドの上じゃ不眠も通用しない。睡眠薬もなしでぐっすり眠れている。
「嵐の前の静けさ、か……」
渉の寝顔から視線を外して時計を見る。時刻は七時半。いつもなら遅刻確定であるが、今日は学校を休む気でいたので、渉が起きるまで寝ていようと思った。指を組んで両手を上に伸ばし、軽くストレッチをする。こんな日こそのんびりと過ごしたい。
けれどその前に、確かめなくてはならないことがふたつある。茉結華は、昨夜眠る前に指紋認証からパスワード式に画面ロックを変えたスマホを手に取った。アルファベットと数字を組み合わせたパスワードを打ち込み、ある連絡先に電話を掛ける。ツーコール後、
『はい』
「おはよう
『……言われたとおり、病院前に張り付いてるよ』
電話の向こう側で井畑
「例の状態はわかった?」
『ああ、昏睡状態らしい。病院周辺はガラガラだが、なかはサツがうろついてる。病室は個室で、扉の前には警備員ががっちりガードしてたよ』
「ふぅん、そっか。わかった、ありがと――」
それだけ確認できればいい。さっさと電話を切ろうと耳を離すと『な、なあ……!』
井畑の上擦った声が聞こえた。
『もし意識が戻って、このことがバレたら……』
「戻る前に、タジローがなんとかしてくれる」
『……そのタジローってやつは誰なんだ?』
「会わないほうが幸福だよ。それでも知りたい?」
沈黙の代わりに、ごくりと唾を飲む音が聞こえた。
『この礼はしてくれるんだよな?』
「前と同じでいいのなら」
『……次は、ふ、藤北で頼む』
「高校生ぇ?」
茉結華は軽蔑を込めた笑みをこぼす。――あー……元々そっちが趣味だっけ。
彼の趣味はまったく理解できない。理解したいとも思わないが。井畑の鼻息がぼふぼふとうるさいので、茉結華は「考えとくよ」と適当な返しをした。じゃあねと別れを言う前に、井畑芳則の力んだ声が耳に響く。
『あんたが捕まったら俺も捕まるのか?』
「捕まらないよ、私はね」
茉結華はぷつりと電話を切ると、画面に向けてべぇーっと舌を出した。
(嫌な奴)
どこまでも臆病で狡猾な男。手綱を握っているのはこちらだと言うのに、要求してくるなんておこがましい奴だ。
「誰と、話してたんだ……?」
スマホを睨んでいた茉結華は、隣から発された声を辿る。渉は寝ぼけ眼をふわふわと開閉させてこちらを見ていた。茉結華はフッと破顔して「おはよう」と続けた。
「雑誌記者の人だよ。金に目がなくてさ、困っちゃうよ」
「ふーん……」
寝起きの渉は質問以上の興味はないらしく、ぼやぼやと枕元に視線を落とした。指先まで無防備に投げ出し、深く静かな呼吸をしている。二度寝する気だろうか、しかしリラックスしているのは見てわかった。
「ねえねえ渉くん」
茉結華は両肘を付いて寝そべった。
「今日、ルイスさんいないんだ」
内緒話をするかのように小声で言うと、渉は『それで?』と言いたげにちらりと茉結華に目をやった。茉結華は含み笑いをする。
「だからお部屋替えない? さすがにこの部屋に居続けることはできないから、行くなら防音室になっちゃうけど……。ほらほら、あっちのほうがゴミの片付けも楽だしさ」
茉結華は自身の腰を指差す。手当する際の手間とゴミの処理だと察したのか、渉は小刻みに頷いた。茉結華は「よかった。じゃあ決まりね」と言って体勢を起こす。
ルイスは朝から秋葉原に出かけると言っていた。もっとも、外出するよう頼んだのは茉結華だが。
――昨夜から変わらない。
渉の様子は、酷く大人しい。
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