ずっと、このまま……
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* * *
「ん、んんぅ、ん……?」
茉結華が目を覚ましたとき、視界の下部にあったのは汚れた包帯とガーゼとタオル。とぐろを巻いている包帯の先は、なぜか自身のほうへと伸びている。視点は眠る前よりもやや高い。
「んー……?」
さも寝起きという掠れた声で再び唸ると、「あっ」と言った渉の声が落ちてきた。茉結華は、視界に映らない渉の姿を探す。――どこからした声? 上? 後ろ?
ごろんと寝返りを打って仰向けになると、こちらを見下ろしている、血まみれの渉の顔が間近にあった。影が自分の顔に落ちている。ばちりと目が合って、茉結華はぎょっとした。
(な、なんで渉くんがいるの? どういうこと? どうなってんのこれ。……膝枕)
そう認識した途端、首の後ろがぶわわっと熱くなる。渉の体温の高さが、スラックスを通して後頭部に伝わってくるのだ。
渉は、隈の濃い目をふらふらと彷徨わせて、「……よお」と短く挨拶した。茉結華は小さく顎を引く。
「う、うん、おはよう」
「起きれる?」
「うん……」
床に手をついて起き上がると、背中に厚みを感じた。左手を後ろに回して患部に触れると、Tシャツの下にタオルが挟まれているのがわかる。服の表面は乾いてぱさぱさになっていた。裾からはみ出ている包帯の先は、へその緒みたいに伸びてとぐろと繋がっている――
「えっと……渉くん、これは何?」
「ハサミがなかったから」
「あー、なるほど」
包帯を切ることができなかったため、こうして汚れた部分が先に繋がっていると。それよりも赤茶色くなったガーゼの量が多いように思える。止血として念入りに替えていたのか。
渉は「水飲む?」と言って、隣にあったペットボトルを差し出した。茉結華はありがたく受け取ってストローに口を付ける。
身体に巻かれた包帯はきつくもなく緩くもない。元柔道と剣道を習っていたためテーピングには慣れているのか、適切に巻かれている。視界から得る情報だけでも、渉に多大な面倒をかけたことを理解した。
ストローを口から離した茉結華は、くすりと苦笑いを浮かべる。
「救急箱の場所よくわかったね」
「風呂上がりに塗ってただろ、軟膏みたいなやつ。だから、洗面所に置いてあると思った」
(わあ、大正解)
渉の言うとおり、救急箱は以前から洗面所に置いてある。茉結華は洗面台で髪を洗った後、その場で麻酔を打ち、応急処置として傷口を縫った。上からガーゼと包帯を適当に巻き、着替えてこの部屋に来たのだ。片付けもしていなかったため、相当わかりやすかっただろう。おそらく追加のタオルもそこから持ってきたものだ。
――あのとき渉が寝たふりをしていなかったら?
渉が逃げ出したあの日。あの日の失態が今に繋がっている。でなければ救急箱の場所は明確化されていなかったかもしれない。大げさに言えば、渉に命を救われた――――?
「それで? どうして渉くんは、そんなに血まみれなのかな」
向き直って言うと、渉は『え?』の口を作ってきょとんとした。
「顔だよ顔、自覚なし?」
「……あ。ああ……もしかして包帯、歯で噛みながらやったからかな。この手じゃうまくできなくて」
渉は顔を下げて自分の両手に目をやる。依然として結束バンドで繋がっている手も、乾いた血で汚れていた。
茉結華はうつむいた渉の鼻先を見つめる。頬、顎、鼻のてっぺん――付着した汚れは、すべて茉結華の血だ。不自由な両手で懸命に包帯を巻く渉の姿が脳裏に浮かび、茉結華は唇を噛んだ。目の下の隈も、眠らずに看護してくれた証拠だ。
――どうして、そこまでするんだよ。私のために……。
茉結華は、きつく結んだ唇をゆるりと解いた。
伸ばした両手を渉の頬に添えて、額と額をこつんと合わせる。
「もう……馬鹿はどっちだよ」
渉の温もりが額に、手のひらに、心に浸透する。
小さい頃、風邪を引いて寝込んでも、そばにいてくれる人は誰もいなかった。気だるい身体を起こして廊下を進み、背伸びをしてキッチンに立つ。氷枕の中身を流して新たに氷を取り出すと、濡れた手に引っ付いてヒリヒリと痛んだ。重たい枕を両手で抱えて、冷えた廊下を歩いて戻る。そうしてまた、独りぼっちの布団にもぐるのだ。
誰かに看てもらうことがこんなにも温かいだなんて知らなかった。
――バカ。馬鹿だよ、渉くんは。逃げてしまえばいいのに。私のことなんか放って、外に出ちゃえばいいのに。どうして戻ってきたんだよ。どうして付きっきりで看病したんだよ。
本当に、渉は馬鹿だ。
「あのさ」
「うんっ?」
呟いた渉に、茉結華は勢いよく顔を上げた。
今ならなんでも答えられる気がした。――どんと来い渉くん!
「なんでお前……パンツ穿いてないの?」
「え」
くぐもった低音が開いた口から漏れた。渉は不思議そうに小首を傾げている。
――え、このタイミングで訊くの? マジ?
茉結華は引きつった口元を窄めて、「むぅ……」
「やっぱ、お礼言うのやーめた。渉くんのえっち」
「ふーん……感謝してたんだ?」
「一ミリ程度にはね!」
渉は再度ふーんと鼻を鳴らした。その目にはほんの少しだけ喜色が灯っているように見える。
「怪我してたから俺のところに来たんじゃないんだ?」
「まさか! 何となくだよ、何となく……!」
茉結華は意地を張って語気を強くする。だって、
――渉くんに会いたくなったって言ったら、笑うでしょ?
「でも渉くん、よく気づいたね。私そんなに顔に出てた?」
茉結華はペットボトルのストローキャップを外して、背中からタオルを引き抜くと、水を汚れていない部分に少量垂らした。簡易的な濡れタオルを渉の顔に近付ける。
「……ただいまがなかったから」
「えっ」
――ただいま?
渉はタオルを受け取ろうとしたが、自分の汚れた手を見てやめたようだ。
「いつもは言うくせに、今日はなかったから、変だと思った」
茉結華に顔を拭かれながら渉はもしゃもしゃと口を動かす。帰ってきてからの、ただいま――言われてみれば、言ってなかった気がする。それで渉は、茉結華に余裕がないことを察したのだ。
「へ、へえ……そんな、ことで……」
「笑うなよ」
「違うの! これは、う、嬉しくてニヤけてんの!」
えへ、えへへへへへ、と茉結華はふにゃふにゃ顔になる。渉はその様子を薄気味悪く見ながら、しかし抵抗はせず、素直に顔の汚れを落とされていった。
茉結華は渉の指先をタオルで拭きながら言葉にする。
「あのね渉くん、私ね、私……、渉くんと……ずっと、このまま……」
その続きはスマホのバイブレーションに止められた。茉結華は震えるハーフパンツのポケットを一瞥する。
「ごめん、ルイスさんかも」
ちょっと見るね。渉に濡れタオルを渡して主端末を取り出した。
植田可奈子に逃げられた後、茉結華はルイスに防犯カメラの映像処理をメールで頼んでいた。警察は被害届が出されても、証拠がなければ動かない。もし事情聴取されることになっても、茉結華は今までどおり臨機応変に、不幸な学生を演じていればいい――そう思っていた。
ロック画面を確認する。時刻は午後十時ジャスト。
――表示されている名前は、ルイスではなかった。
『凛ちゃん』
凛ちゃん。凛ちゃん。百井、凛ちゃん。
頭のなかがどこからともなく聞こえてきた蝉の声で満たされる。舌根が乾いていく。瞳が赤く充血する。
白光に霞む視界の隅で、画面を覗き込もうと渉が動いた。片腕に落ちたその影に突き動かされて、茉結華は逃げるように立った。
メールは、『こんな時間にごめんね』からはじまっている。その先は行を変えたらしく、ロック画面に表示できていない。
動悸がする。心拍数が跳ね上がる。これは、嫌な予感のサインだ。
* * *
『こんな時間にごめんね。明日、響弥くんの家に行っていいかな? どうしても話したいことがあって』
『話したいこと?』
『うん』
『響弥くん、あのさ、』
『渉くんを、』
『返して』
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