らしくないことを
最っ低。何やってんだよ、このバカ響弥。バカ、馬鹿、大馬鹿者。
植田加奈子を取り逃がした……って、頭で悟ったときには、もう遅かった。
二年E組を極端に嫌っていて、生徒の
人選は悪くなかったと思うんだけどな。女だからって、ちょっと舐めてたかな。芋虫みたいに床を這いずる、こんな状態じゃ追えないし、外に出るのはまずい気がする。冷や汗止まんないし、血も止まんないし……てかこれどこ刺してんの? 広背筋? 振り返ってたらやばかったなー、ははは。
……あー、どうしよ。ルイスさんは頼れないし、トワちゃんも、肉は縫えないよなぁ。見たら二人とも救急車呼びそうだし、タジローも仕事中だしさぁ。
あーあ、どうしよっかなー。もう、おしまいだ。
* * *
仰向けの姿勢で何時間が過ぎただろう。監禁部屋で一人、飾り気のない白い天井を渉は見つめていた。
時折、前に回した腕をひねったり、身体を伸ばしたりして筋肉をほぐす。寝返りと同じで無意識にしていることだった。そうしてもぞもぞと動いては、ふと息を止めて秒数を刻む。今じゃ何の役にも立ちやしない、ただの暇つぶしだ。
以前までなら、ストレッチをしていただろう。けれど、いくら柔軟しようと空腹が満たされるわけじゃない。それどころか、頭痛と目眩を引き起こす原因となる。
これが防衛本能か、渉の身体は自然と逃げることを覚えた。こうやって寝転がっているほうが楽だ、と。――茉結華に見られたら、きっと笑われるだろう。
「俺、何やってんだろな」
どうしてここにいるのだろう。何をしているのだろう。その問いにもう一人の自分が答える。
「俺にもわからない」
渉はゆるりと起き上がって、壁際に放ってあるオカルト雑誌に目をやった。何十回読んだかわからない、傷だらけで廃れきった一冊の雑誌。――世間はまだ、茉結華の企みに踊らされてるのか。それすらわからない渉は、彼の言葉に頼るしかない。
茉結華に会いたい、話がしたい。早く帰ってこい。日中、何度もそう心で唱える。主人の帰りを待つペットのように――けれど、がぶり。手には噛みつくのだ。
『今日もきっと遅くなる。だからいい子で待っててね』
今朝、部屋を出る前に渉の頭を撫でながら茉結華が残した言葉だ。連日にしてこの帰りの遅さ――まだテスト期間だろうに、いったいどこで油を売っているのやら。
視界の輪郭がぼやけて見えて、渉は目をこすった。先ほど顔を洗ったばかりだというのに、寝不足のせいか――それとも、思っていた以上に時間が経っていたのか。
今のところ、幻覚は見えていない。彼らは渉が苦痛を感じたときに現れるらしい。今見えるとしたら、退屈すぎて死んでしまいそうなときだ。そんなこと言わずに出てきてくれればいいのに――と、渉は自分でも正常と思えない思考をした。
「顔、洗うか」
あぐらから姿勢を変えて膝を付いた渉は、左重心で洗面上へと向かう。麻酔が切れかかっているのか、時折右の鎖骨周辺がピシピシと熱く疼くので、できるだけ右半身に負担をかけないようにする。
引き戸を開けて立ち上がると、やはり目眩がした。血の巡りが悪いのは空腹と運動不足のせいだ。
目眩が治まったところで手洗い場の前に立ち、袖を歯で噛んで捲ってから顔を洗う。親指の結束バンドが邪魔で水は汲めないため、濡らした手の甲を顔にぴちゃぴちゃと当てる。我ながらこの不格好な動作は、猫が顔を洗うときみたいだと思っている。
洗面所から出たとき、部屋の中央で茉結華がペットボトルを入れ替えていた。扉の開閉音で渉に気づき、「お水、ここに置いとくね」と言って顔を向ける。髪は濡れそぼり、首にバスタオルを掛けていた。
「……夕飯は?」
渉が訊くと、茉結華は「まだ」と低い声で呟きそっぽを向く。
「私も食べてないから、待って」
その言葉から、帰ってきたばかりなのだと察した。だとすればなおさら――おかしい。最初の一言目で渉はそう判断した。
「……何かあった?」
聞くだけ聞いてやろうと思い尋ねたことだったが、茉結華はぎこちなく首を横に振った。ぽたた、と落ちた水滴を目で追い、再度茉結華の横顔を見ると、濡れた髪から覗く片目が忙しなく泳いでいた。
「別に、なんにもないよ。渉くんには、関係…………かん、けい……」
茉結華は肩で呼吸したかと思うと、膝を折って四つん這いになった。ふぅ、はぁ、と息を吐いて吸って、どんと壁に背中を預ける。明らかに具合が悪そうだった。
「腹が痛いなら、トイレ行けよ。ここのトイレ、使っていいから」
茉結華は緩慢に瞬きを繰り返して答えない。
「おい、何とか言っ――」
「うるさいなあっ!」
渉の心臓がどっと大きく跳ねた。茉結華は歯が見えるくらい大きく口元を歪めて。
「渉くんには関係ないって言ってるでしょ……黙っててよ」
獣が唸るような低い声と、刺すような鋭い目つき。怒気をあらわにする茉結華の様子が、渉には怯えているふうに見えた。
「……そんなとこにいていいのか? 今ならいつだって逃げ出せるぞ」
「いいよ、別に。私を置いて、逃げても」
「…………」
――何だよそれ。
渉は、茉結華と扉を交互に見た。
部屋を出入りする扉は内側からのロックができず、茉結華がいる間だけ扉の鍵は開いたままである。茉結華の意識が低い今、逃げ出すのは容易なことかもしれない。しかし本人はちゃっかりその手前にいるし、逃げ出そうものなら飛びかかってきそうである。
それに、そもそも渉は、逃げ出すつもりなんてない。
少なくとも今は――渉はその場であぐらをかいた。
「何やさぐれてんだよ。ルイスと喧嘩でもしたのか?」
「……してないよ。ただ、自分の無力さに呆れただけ」
「らしくないことを」
渉がわざとため息混じりに言ったが最後、会話はそこで途切れた。不気味な距離感を保ったまま、ふたりを沈黙が包み込む。
――何をこいつはそんなに落ち込んでいるのか、言ってくれなきゃわからない。なのにこいつは、部屋を出るわけでもなく、壁にもたれて黙ったまま。もどかしくて、ムカムカして、もやもやする。
渉がちらりと盗み見ても、茉結華は力なくうつむいたまま。ぽつり、ぽつりと、時間の流れを示すかのように、白い毛先から水滴が落ちる。
「ああぁ、ったく、もう」
苛立ちを声に出した渉が膝を擦って近寄ると、茉結華は自動人形のように顔を上げた。腫れぼったく瞼を下ろし、不貞腐れたみたいに唇を尖らせている。いい顔が台なしだ。渉は、首に掛かったタオルを指で挟んで引っ張ると、茉結華の濡れた頭に被せた。
「髪! 拭かないなら俺がやる。気になって仕方ない」
拭くというより、不器用に上から押さえて撫でつける。
――こんな状態で部屋に来られても迷惑なだけだ。せめて髪を乾かすまでの時間は自分のために費やしてほしい。そう思う反面、夕飯も食えないほどショッキングな出来事があったのかと、それはいったい何なのかと、心がざわつくのも確かだった。
(よし)
自分の手まで水滴に濡らしながら一通り拭き終わると、タオルを外すさなか、ふと目線を下にやった。茉結華のTシャツの色が一部分だけ、じっとり濡れて濃くなっている。渉は呆れ返った。
「身体も拭いてないのか――よ……」
ひらりと裾を捲ると、白い包帯を染め上げる鮮やかな血の色が、目の前に飛び込んできた。血の面積は段々と広がり、やがて畳の上を侵食して血溜まりを作る。水面に映った自分の背後に
「もう助からないよ」
「――っ! 嘘だ!」
渉は脊髄反射で言って、見上げた先の茉結華を捉えた。茉結華は吊り上がった目をほんのりと丸くさせて、
「……あは、冗談だよ。耳元で大声出さないの」
「これ、いったい……どうして…………」
もう一度目を落としたとき、広がって見えた血の池は消えていて、包帯に滲む血液は拳ひとつ分の面積になっていた。
安堵したと同時に、渉の身体がぶるりと震えた。今度は血液の代わりに、渉の本能的な部分が視界を真っ赤に染め上げる。よくもこんなことを――
「失敗しちゃったんだ、私。はじめてしくじっちゃった」
茉結華は密かな笑みを湛えてから「あ、はじめてじゃないか」と訂正した。
「渉くんにも逃げられてたね……本当、詰めが甘い」
「出血が酷い。止血は?」
「見てのとおりだよ」
「……横にするぞ」
「えー、何ーっ? えっちぃー」
言葉とは裏腹に茉結華は嬉しそうに肩をすくめ、渉の言うとおりに傷口を上にして横になった。外したバスタオルは厚めに折って、枕代わりに敷いてやる。
Tシャツをたくし上げると、くびれた細い腰部を覆う包帯と、傷口に広がる赤い血がよく見えた。その下はガーゼでも詰められているのか、もわもわと膨れ上がっている。それすらも通り抜けて血が染みているのだ。早いところ傷口を確認しなければならない。それには、新しい包帯類が必要だが――
「私、約束守ったよ」
「……え?」
茉結華は虚空を見つめて、いつもみたいに口角を上げた。
「もう誰も殺さないっていう約束」
「……………………馬鹿」
あはははは、と乾いた声で茉結華は笑う。そうして短く息を吐き、穏やかな呼吸に戻ったとき、茉結華は疲れ切ったように目を細めた。
「……もう、全部終わりだから。だから……逃げて、いいよ」
「逃げないよ」
渉は吐息混じりに、茉結華の言葉を遮るように即答してみせた。茉結華のぼんやりとした瞳がおずおずと渉の瞳を捉える。
「すぐに戻る。約束する。――だから待ってろ」
渉は茉結華の片手をぎゅっと握り締めて、離した。茉結華は何か言いたげに小さく口を開いたが、その言葉が発されることはなく、代わりに大きな瞳がぱちぱちと開閉する。渉は畳の上を滑るように移動して、唯一の出入り口を前にした。
――部屋を出て、まっすぐ、右に曲がったところ。大丈夫、道は覚えている。
この日、渉ははじめて自分の力で扉を開け、監禁部屋から抜け出したのだった。
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