絶対、しーっす!
「お邪魔いたします」
引き戸式の玄関を通って、植田はリビングへと招かれた。なかはクーラーが効いていて、確かに外よりは快適である。
しかし、家庭訪問ですら玄関で済ませるというのに、こう安々と上がっていいものだろうか。リビングまで上がる必要は? 親御さんの許可は?
いろんな不安を浮かべつつ、植田は引かれた椅子へと腰掛けた。
響弥は「ちょっと待ってて」と言い、キッチンの向こうへと消えていく。
植田は部屋を見渡した。奥には、くるりと丸めた洗濯物が――いかにも今しがた、慌てて隅によけたというふうに山積みで置いてある。よく言えば生活感に溢れているというか……、植田はつい視線を逸した。
「麦茶でいいっすか? それともアイスコーヒー?」
「いえ、どうぞお構いなく……………………麦茶で」
キッチンから現れた響弥が、選べとばかりにペットボトルの麦茶とコーヒーを掲げているので、植田はお茶を選択した。
コーヒーには利尿作用があるので、出されても飲むのは少量とするように。植田がはじめてクラス担任になり、家庭訪問をするとき、緊張していた自分に向けて先輩教師がくれたありがたい助言だ。元々紅茶派だったので、出されたところで一口すする程度だろうけれど、なかには去り際に缶コーヒーをくださった家庭もあった。本来は感謝するべきところだが、コーヒーが苦手な植田は、職員室に戻ってから先生方に配布した。新米だった頃の懐かしい思い出だ。
やがて響弥は、カラカラと氷の音がする麦茶入りのグラスを運んできた。
「俺の家、ジュースとお茶だけは買い溜めしてあるんですよ。見ます?」
グラスを置いて差し出した響弥は、片手に持ったコーラをぷしゅりと開けて席に座った。
冗談だと知りながらも植田は、ううん、と首を振る。そして、「いただきます」と小さく告げて、麦茶に口を付けた。薄味の麦の風味が、渇いた喉を潤す。砂漠で見つけたオアシスの水を飲む旅人のような気分になった。
「おいしいでしょ」
「ええ。たまには麦茶もいいわね」
「夏ですもんね」
響弥はにこにこと笑う。
普段、植田が飲んでいるのはほうじ茶だが、夏に飲む麦茶もまた格別だと思った。たまには麦茶もいい、言葉通りの意味である。
――そういえば水筒、どうしたっけ。
麦茶を口に含みながら、物忘れがふわりと浮かんで消えた。後で確認すればいいか、と楽観的に考えて口元を軽く引き締める。本題に入ろう。
「それで、あのメモを寄越したのは神永くん、そうよね? 何か授業でわからないことでもあった?」
「授業は、わからなくもないんですけど、俺って勉強苦手だし、そういう意味だとわからないことだらけっつーかぁ……」
響弥は頬を掻いて、たはは……と苦笑する。授業は、と強調したのは、『先生は悪くないですよ』という配慮のように植田は感じた。わかりづらいのなら正直に言ってくれればいいものを、けれど面と向かって言われるとへこんでしまうのもまた事実。
(神永くんの成績は平々凡々。テストの点数は五十点台がほとんどだし、二年になっても赤点は取ってないわよね)
彼の国語の成績は一概に悪いとも言えず、テストの点数も落ち込む要素ではないはずである。ただ、ほかの教科がどの程度か知れないが、国語で平均点を上回ったことはない。
「神永くんは読書する? 文章は読むだけで力になるわよ」
アドバイスがてら何気なく振った話を、響弥は真剣な面持ちで、
「文章はあまり……。でも文芸部の作品ならたまに見てますよ」
「ふうん、じゃあ小説は読むんだ? どんな話を読むの?」
そう切り返せば、響弥は首元を掻いたり髪を触ったりで逡巡してから、アヒルのような口を作って言う。
「……れ、恋愛ものっすかね」
うつむいて身を縮める響弥。跳ね返った黒髪から覗く耳が赤い――――と思いきや、すぐに顔を上げた。
「あ! 今の話、ほかの奴には内緒にしといてくださいよ! 絶対、しーっす!」
人差し指を唇の前に立てて綺麗な歯列を見せてくれた。
――恋愛ものか。やっぱり、年頃の男の子はそういうものに興味がありつつ、隠したがるものなのかな。
植田は文芸部の顧問としてたまに部室に訪れるが、部員の作品内容までは把握していない。ほとんどが青春ものだというのはおおむね読み取っているので、そのなかで恋愛小説が生まれるのは必然的だろう。
文芸部と無関係の男子生徒が、我が部の作品を見てくれているというのは驚きでもあり喜びでもあった。
「わかった。内緒にしといてあげるから、勉強は頑張りなさい。わからないことがあれば学校で訊いてくれていいし、図書室にはよくいるから、そこで訊いてくれてもいいわよ」
「ほんとっすか! ありがと先生!」
身を乗り出して言った響弥は、勢いで上げた腰を照れくさそうに下ろした。植田は、微笑ましくなって緩んでしまう自身の頬を必死に力ませる。
来年、もしまた三年生を受け持つことになったら、彼の担任になりたい。植田はそう思った。
二年A組の優等生を褒めるのも、あの笑顔を自分だけに向けられるのも、植田はそれなりに満足していた。だが、あの子はもういない。今度は、平凡で伸び代のある生徒に構おう。これも、一教師としての生きがいになるかもしれない。
聞きたかったことはこれで終わりだろうか、植田は視線で探ってみたが、響弥は水滴だらけのコーラをごくりごくりと飲んでいた。腕時計を見ると、時刻は十九時を指していた。
「お父さまはまだお仕事中?」
「……へ?」
響弥が父子家庭なのは東崎から聞いていた。母親のいない家庭で、けれども明るく前を向いている彼のことを、担任の東崎も気を遣い、面倒を見ていたに違いない。その気持ちは今ならわかる。
一拍遅れて返事をした響弥は、乾いた笑いをこぼした。
「あ、あは。うち、今はひとりっすよ。母親はいないし、父親は……海外に出張中」
――え?
「ああ、でも最近叔母さんが帰ってきて、……でもまだ忙しいみたいで、今日は帰ってこない、と思う」
「そう……」
グラスのなかで溶けた氷がカランと音を立てた。
父親まで留守だなんて聞いていない。寺を放ったらかしにして、その上家族と身内に任せっきりだなんて。教師が首を突っ込むことではないが、それでも――無責任、という言葉が浮かんでしまう。
「……神永くんは偉いわね、高校生からもう自立して。……今の経験は、大人になったとき、きっと役に立つわよ」
彼の話をどう捉えたとしても、植田には、表面上の言葉でしか返せない。どんなに心配しようとも、褒めて励ますことしかできないのだ。
「だといいですけど! ……でも」
響弥はそれまで浮かべていた笑みを崩した。
「先生に帰ってほしくないな、なーんて」
「…………そ、それは」
さすがに――まずいのでは?
頭のなかでははっきりと答えが出ているのに、咄嗟に判断がくだせなかった。頷くことも否定することもできず、植田は唇を噛みしめる。
「えへへ、わかってますって! こんな事言われたら困りますよね……そりゃそうだ」
「…………ごめんね」
謝らないでくださいよ。響弥はそう言って、半分まで減ったコーラボトルを顔の前に掲げた。表情を隠すようなその仕草を見て、植田は両手で包み込んだグラスのお茶を、ごきゅっと飲んだ。――喉に針が刺さるような痛みを感じた。
「……え、っ……」
グラスを離し、植田の口から漏れたのは、自分でも驚くほどしゃがれた声だった。
(な、に……今の……)
喉が、焼け付くように痛む。唾液を飲み込んで緩和を試みると、痛みはさらに増して喉に引っかかった。そして、唾が通り抜けるのを感じた後、喉の皮膚が、粘膜が、溶けるような触感が走った。植田は口元を押さえた。
――何? なになになに? 何が、起きている……?
必死に鼻呼吸を繰り返すが、今度は肺が圧迫されているみたいに苦しくなる。冷や汗が額と頬を伝い、手の震えは止まらない。視界が明滅して、植田可奈子は机の上に突っ伏した。
グラスが倒れ、まだ残っていた麦茶と氷が、目の前に水たまりを作る。その氷をよく見ると、いくつもの白い固形物が透けていることに気づいた。
――まさか、氷に……? そんな、何を……どうして……。
(神永くん……?)
限界まで眼球を押し上げて響弥の顔を見ると、その半分はペットボトルに覆われて、ぐにゃりと歪んでいた。
「先生? おいしいでしょ?」
響弥は、ひっくり返ったグラスを見て目を細める。およそ三十分前に言った言葉に抑揚を付けて。
――ころ、される……。
殺される。
殺される、殺される、殺される、殺される。不明瞭な状況で、それだけは肌で感じ取った。それだけわかれば十分だった。
響弥がペットボトルの蓋を開ける音が聞こえる。植田は、机の上に投げ出された手をずるりと下ろして、脇に置かれたハンドバッグに触れた。彼に気づかれぬよう中身を探り、奥から水筒を取り出そうとする。だが、一向に指先は届かない。つるりとしたあの表面が、求めている感触が、指先に訪れない。――やはり、職員室に置き忘れてしまったのだろうか。どうして待っている間に取り出そうとしなかったのだろう。門の前で気づいていれば――いや、気づいていたとしても、この状況は防げない……。
「ふぅ……あ、シャワー浴びなきゃ」
コーラを飲み終えた響弥の呟きが、斜め前方から聞こえた。
植田は、冷えた金属を指で伝い、その先にある輪っかに人差し指と中指を通した。判断している場合ではなかった。脳髄に鳴り響く警報音に、植田は身を任せた――
逃げなきゃ……死ぬ。
瞬間、植田可奈子は動いていた。
鞄のなかから剥き出しのハサミを抜き取ると、ぐらつく視界を何とか制御して立ち上がる。鞄が椅子から落下し、財布や携帯などの貴重品類が散乱する。穴あけされていない色とりどりの栞が床に広がった。
ピクッと反応した響弥が振り向く寸前――植田は、ハサミを両手で握ると、その背後めがけて突進した。
「っぐ!?」
つんのめりながらぶち当たった刃先は少年の薄い腰に沈み込む。布と皮膚の繊維を破る感触が、ぶつかった衝撃が、両手にダイレクトに跳ね返ってびりびりと痺れた。
植田は凶器を彼の内部に置き去りにしたまま全力で逃げ出した。千鳥足で、まるで酩酊状態だが、これが精一杯の足取りだった。よろめいて廊下の壁に肩をぶつける。後ろで人が倒れる音がしたが振り返る気力はない。
「先生、待って……先生!」
――この期に及んでまだ生徒として振る舞うつもりか。
植田可奈子は朦朧とする意識のなか、本能に促されるまま身体を引きずって外へと飛び出した。
――誰か、助けて……。誰でもいい。自分を救ってくれるのなら、誰でも……。
薄白い空の下、植田は電柱の陰に倒れ込んだ。自分を救ってくれる通行人Aは――? 通行人Bは――? 物語のなかにしかいないだなんて、もう言わない。
だからお願い、今すぐ、私を――――
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