植田先生

 あと少しなのに。

 あと少しで、完全犯罪ノロイビトの完成なのに。そうすれば、あのひとに認めてもらえるのに……。

 どうしよう。どうすればいい。わたるくんを使う……? いや、駄目だ駄目だ。渉くんは殺さないって決めたんだ。考えろ……。

 ほんの少しの繋がりでいい、代わりになる、犠牲者を――


「ねえ詩子ともこさん。もうひと押し、必要だよね」


    * * *


 恐怖の対象は何かと問われれば、学校の怪談と答えるだろう。生徒に聞かれたら、その歳で? と引かれるかもしれない。その上意外とも思われるだろう。先生って、案外子供なんですね。だから今まで隠してきたし、誰にも言ったことがない。

 それを嘘偽りなく、正直に答えられるのは今だからだ。今だからこそ言える。

 藤ヶ咲北高校の国語教師――植田うえだ可奈子かなこは、学校が好きで、学校の怪談が嫌いだ。


 そもそも学校の怪談、七不思議と言われる類は幼稚で陳腐なものだ。身近ではなかったが、都市伝説もそれに含まれるだろう

 噂、怪談、オカルト話。それらを作った者、広めた者は存在する。そこにとやかく言うつもりはない。ただそんなものに恐れ慄き、一喜一憂できる者たちは、架空と現実を履き違えているのではないか? 植田は学生の頃からそんなふうに思っていた。


 所詮、物語は作者によって紡ぎ出されたフィクション。架空だからこそ、読者や視聴者は陶酔し、そこに憧れを抱くのだ。

 現実でもあったらいいな、起きたらいいな、こんな出会いがしてみたいな。――何を馬鹿なことを言う。ないからこそ美しいのではないか。


 ――学校の怪談? えー何それ、おもしろーい。

 ――うちにもあるんじゃない?

 ――ウソぉ、怖いー。


 まるで自分たちが生み出したかのように、自慢気に語る女子が嫌いだった。何かといえば学校の怪談に繋げて、からかってくるやんちゃな男子が嫌いだった。そして、ないものに恐怖する、恐怖せざるを得なかった、幼稚な自分が嫌いだった。

 はじめから信じてなどいないのに、何を恐れる必要があるのか、自分でもわからない。結局自分は、架空と現実を混合して娯楽する周囲の奴らとなんら変わりなかったのだ。

 そうだ、オカルトも怪談話も、すべては娯楽。嘘で、偽りで、つくり話で、フィクションであってもらわねば困る。そう思っていたのに――


 生徒が死んだ。原因は、藤ヶ咲北高校にまつわる最大のオカルト、祟り――学校の怪談――呪い人。

 まさか、本当に死亡者が出るなんて。着任から五年目にして、植田の恐怖心は一気に膨れ上がった。早いうちに転任を申し出ていればよかったと後悔した。


 亡くなったA組の二人は――お気に入りの生徒を挙げろと言われれば、九割の教師が彼の名を出すだろう――優等生の少年と、正反対の問題児。少年の通夜に参列した保健教諭の猪俣いのまたが涙していたのを植田は覚えている。彼女にとっても、お気に入りの生徒だったのだろうか。

 それから、なぜA組の生徒が? という疑問が、植田のなかに爪痕を残した。

 藤北の黒歴史によれば、巻き込まれる者はみな二年E組の関係者である。すでにほかのクラスから行方不明者が出ていたように、二年E組の生徒に関わるものは例外なくその対象になる、ということだろうか。


 何にしても結論は変わらない。植田可奈子は、二年E組の生徒を敬遠するようになった。担任の石橋いしばし先生とも、できるだけ関わらないようにしている。元々寡黙な人なので話す機会は挨拶くらいだったが、廊下ですれ違うのも避ける始末だ。

 すべては自分の身を守るため。フィクションに喰われてしまわぬよう、呪いの餌食にならぬよう。




 七月四日の掃除時間。植田は、自分が担任の三年C組に贈る栞作りのために、図書室へと向かった。がらりと扉を開けると、担当の生徒らがこちらを一瞥する。つけっぱなしのクーラーが心地よく、夏場は――掃除の担当はローテーションとは言え――室内を任された者が勝ち組とされる傾向がある。そんな意味では図書室も十分人気な場所だ。

 植田はカウンターに着くとすぐに荷物を下ろした。山積みになった本を前に出して、元の位置に戻すように声をかける。


「これ、よろしく」


 担当する三年D組の生徒らは「はぁい」とぬるい返事をして、本の整頓に取り掛かった。背表紙に貼られた分類番号に渋い顔をして向き合うと、「これどこだっけ」「奥の棚じゃない?」などと話し合っている。

 図書委員であればこちらが指示を出さずとも動いてくれるのだが――しかし、わからなかったら訊いてくるだろう。そのときに突き放してやればいい。いい加減本の場所くらい覚えなさい、と。


 植田は、ラミネート加工でシート状になった栞をデスクに広げ、鞄のなかからハサミを取り出した。これを三十三人分切り取って、穴あけパンチをしたら、リボンを通して結ぶ。三年生の担任になることが多い植田が、毎年のように行なっている栞作り。可愛い教え子たちに贈る、最後のプレゼントだ。


 ぱちんぱちんとハサミを入れると、シートの欠片がデスクや床に飛び散った。さらに向きを変えながら黙々と作業を進めると、くしゃり。シートの角が何かに引っかかった。

 植田がシートを持ち上げて見やると、ふたつ折りされたメモ用紙が目に入った。上には赤いマグネットが乗っている。


(……?)


 ――何のメモだろう、こんなところにいつ置いた?

 マグネットをどけてメモを開き、植田可奈子の瞳孔は大きくなった。


『先生に聞きたいことがあるんです。お仕事がおわったら神水神社の前に来てください。待ってます』


 差出人の表記はない。

 植田は思わず息を呑んでいた。素早く顔を上げて瞳をぎょろつかせる。生徒はみな本の整理に夢中で、こちらを見ている者は誰もいなかった。ホッと胸を撫で下ろして、紙切れ一枚に視線を戻す。


 改めて文面を見る。文字はボールペンで書かれており、一筆一筆を慎重に引いたような歪さがある。お世辞にも綺麗な字とは言えないが、そこに妙な温もりを感じた。さも、一生懸命書きました、という熱い思いが滲み出ている。

 書いたのは男子だろう。置いたのは、本人か? 生徒が望んでいるのなら真剣に答えてやる義務がある。ただ注意しなくてはならないのが、これがいたずらだった場合だ。


 残念なことに、三年生のなかにはそういった連中が一握り存在している。成績も悪く素行不良の少年少女たち。主に金銭を積んで藤北に入った、植田が問題児だと称している者たちのことだ。

 のこのこと現場に現れたところを集団リンチに……または、ホテルに向かう途中で写真を撮られたり……。学園ドラマの見すぎだろうか、あんなものは現実じゃそうそう起きないというのに。虚構と現実を一緒くたにしたくはないのに。


 いやいや、まずは落ち着こう。冷静になろうと、植田可奈子は首を振った。

 指定先の『神水神社』とは、学校の近くにある神永分寺のことだろう。あそこは神社ではなく寺だ。永の字は間違っているし――これはひょっとしたらひょっとするかもしれない。素行不良の問題児たちによる罠……。

 行くべきか、行かないべきか。

 植田可奈子は放課後になっても迷い続け、しかしその足は、ごく自然と約束の場所に向かっていた。


    * * *


 ブラウンカラーの腕時計に視線を落とすと、短針は六と七の間を指していた。

 職務を終えた植田は、近場の駐車場に車を停め、徒歩で神永分寺の前へと来ていた。見上げる空はまだ明るく、一面が灰色の雲に覆われている。

 幸いにも木陰になっている門の前で、植田可奈子は額の汗をタオルで押すようにして拭いた。いつ現れるかも知らない人物を思って、もう一度腕時計に目をやる。午後六時三十五分。植田はため息をつきたくなるのを我慢して、鞄のハンドルを握る片手にタオルを移し、汗ばんだ手のひらを拭った。稀な通行人が視界に入るたび、植田の心臓は激しく鼓動を刻んだ。


(ねえ、まだなの? いつ現れるの?)


 鞄からメモを取り出して見る。『待ってます』という言葉を信じてやって来たはいいが、そもそも相手の生徒はこちらの帰宅時間を把握しているのだろうか。まさかすでに帰ってしまったのではなかろうか。すれ違いに気づいたところで、自分はこのまま長時間待ちぼうけするしかない。あと十分、いや、七時まで待とう。それで現れなかったら、ここは大人しく帰ろう。

 ――そう思った矢先のことだ。


「植田先生」


 背後から、仄かに笑みを含ませた声が植田をくすぐった。予期せぬ場所から声をかけられて、植田はビクリと肩を弾ませる。心臓の高鳴りを耳にしながら振り返ると、上下ともに体操服姿の男子生徒が門の間に立っていた。

 ――この生徒は見覚えがある。二年C組の女子生徒が亡くなる以前までの、明るかった東崎とうざき先生がよく口にしていた、いい意味での問題児。教師を困った笑顔にさせるのが得意な、クラスのムードメーカー。


「神永……響弥くん?」


 にんまりと笑った響弥はこくりと首を振り、「ここ俺の家なんすよ」と、親指を立てて後ろを指した。

 植田は彼のことを認知していたが、寺の名称からも顔と名前は合致する。どうして着ているのか察しがつかない体操服の刺繍にも、神永響弥という名前が咲いていた。

 てっきり三年生からの呼び出しと思い込んでいた植田は、安堵すべきか困惑するべきか迷い、知らず識らずのうちに口先を頼りにしていた。


「聞きたいことって何?」


 単刀直入に訊いた。少し冷たい印象を与えてしまうような、低めのトーンが口から漏れていた。――あ、やば。今の態度はまずかったかしら。つぐんだ口をタオルで隠して、ついでに鼻の下に溜まった汗を拭き取る。


「なかでお話しません? ここ暑いし」


 響弥は薄い笑みを浮かべて言うと、返事も聞かずに背を向けた。

 ちょっと待ちなさい、と心では言っても、口に出す気力は起きない。乗り気ではないにしろ、涼しい場所に行くことは植田も賛成だったからだ。だから特に拒否することもせず、植田は神永家の庭へと足を踏み入れる。

 メモの差出人である神永響弥が、実家であるはずの神永分寺の字をなぜ間違えて書いていたのか。仕事終わりの疲労と蒸し暑さにやられた植田可奈子の脳みそに、思考する余地はなかった。

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