第十一話

役立たず

 あ、ちょっと待ってくれる?

 テスト後に申し訳ないわね、昨日電話で――、あなたに伝えてほしいって頼まれちゃってね。

 えーっと、ああ、あった、これこれ。…………メモしてくれって言われたの。


『言葉には魂が宿ります。あなたのその強い願いは、口にすることで真実になりうるのです。それは相手にとって、一生消えることのない呪いとなるかもしれません。しかし呪いは、ときには奇跡をも起こします。あなたの言動は決して無駄ではありません。いつか必ず、鮮明な記憶となってあなたの大切な友に深く刻まれるでしょう』


 ……ってさ。オッケー? わかった?

 ……どんな人って、あんまり大きな声で言えないけど……刑事よ。


(これだからE組の生徒と関わるのは嫌なのよ)


 名前? ……いいえ、ナガミじゃなかったわ。というより、名乗ってすらなかった。……知り合いじゃないわよね? ふん、まあいいわ……とにかく、伝えたからね。

 百井ももいさん――あれ? 休み? そう。じゃあ萩野はぎのくん、これ図書室まで運ぶの手伝ってくれる?


(ああ、そう、あの空席は彼女の席だったわね。昨日あんなに元気に廊下を走ってたのに。でも、それもそうね。彼女、C組の松葉まつばさんと仲がよかったものね。あ、言い忘れてたことがあった。けど、まあいいか)


 ――あなたはひとりではありません。今回の私がお役に立てなくても、何周目かの俺が必ずチカラになります。……とか、あの刑事、意味わからなすぎでしょ。


    * * *


長海ながみ

「はい」

「お前結構、運転荒いのな」

「……え」


 助手席の綾瀬あやせ刑事から指摘を受けて、運転席にいた長海は言葉に詰まった。


「車間はちょうどいい、けどブレーキのかけ方で酔うわ。灰本はいもとのほうがまだできるな」


 綾瀬は車酔い真っ只中のようなしかめっ面で言った。長海は返す言葉が浮かばず、ただぽかんと口を開けていた。

 運転が荒いだなんて、しかも女性から言われてしまうなどとは。長海は少し、いや若干――正直に言えばとても――内心では深手を負った。

 昔、上司の風田かぜた朱野しゅの警部に連れ添ったこともあったが、そんな指摘は一切されず、与えられた言葉も『ご苦労さん』だった。――あのときはまだまだ未熟で、刑事になりたてだったから、今よりもっと丁寧な運転を心がけていたのだろうか。


「ネコメの相手してるうちに荒っぽくなったか?」


 綾瀬は鼻で笑うとサンバイザーを広げ、付属の鏡を見つめて前髪をチェックする。一応見た目には気を使っているのだと思うと、綾瀬も十分女性らしい。

 長海はバックミラーで自分の様子を確認した。形のいい眉の下には、見開かれた二重瞼が鎮座している。今朝セットした前髪の分け目も崩れていない。こういう場所に招かれるのははじめてのことだが、自分は警察官として向かうのだ。見た目は最低限、気を使っていればいい。――内心かなり動揺しているくせに、それを表に出せない図太い瞳がこちらを睨めていた。


 確かに、以前よりも怒りっぽくなった気がする。イライラすることは増えたし、神経質じみた脱力感を覚えることは多い。だが、そのすべての矛先がネコメにあるわけではない。ほとんどは仕事の疲れや、世論の声、風潮、難解な事件に関わっているからこそ抱く焦燥感によるものだ。

 それに――パトロールや現場急行時も常に長海が運転してきたが――相方のネコメからは一度だって『運転が荒い』とは言われなかった。それどころか、いつもご機嫌そうに話しかけてくるではないか。本当はどう思っているのだろう。


「……今度聞いてみるか」

「ん? 何をだ?」

「いえ、こちらの話で……」


 長海のぼやきに綾瀬は不可解そうに片眉を吊り上げる。だが言及はなかった。

 二人は車から降りて、会場のホテルを見上げる。地上十階建ての背景には、今にも崩れそうな黒々しい雲が重なっていた。


「お別れ会に警察が行く必要あるんでしょうか」

「仕方ねえだろ、呼ばれたんだから」


 綾瀬はそう言って肩をすくめ、ジャケットの襟部分を指で整える。長海もネクタイを締め直し、ほかの車をじろりと一望してから歩を進めた。

 エントランスを通ると、ホテルの受付嬢が会釈をする。そのすぐ脇に、会場は九階であるとの案内板が立てられていた。受付は風田が済ませてあると言っていたので、長海と綾瀬はエレベーターへと向かった。


「こんな会にさー、警察が立ち寄っていいのかなー……」


 エレベーターに乗り込んですぐ、綾瀬が口を開いた。「というと?」と長海が促す。


「だってさぁ、あたしら警察は……、あの家族に何にもしてやれなかった。呼ばれるような立場じゃない」


 珍しく弱気な綾瀬に、長海は肯定的に否定したい気持ちになった。

 七月三日。長海たちは、午後から開かれた松葉千里ちさとのお別れ会に参列していた。呼ばれたのは名指しではなく、『警察関係者』という曖昧な立ち位置で。

 なぜ風田班から数名向かうことになったのかは不明だが、班長である風田は長海と綾瀬を共に選抜した。おそらく、風田班おまえたちが行け、と上から指示されたのだと思う。


 お別れ会は市のホテルを会場にして開かれた。遺体のない葬儀はイマドキ珍しくはない。だがそれは事故や災害、そのような場合を選ぶものだ。今回のような痛ましい事件では、葬儀が開かれないことがほとんどである。それもそのはずで、松葉千里のはまだ見つかっていないのだ。よって家族は、娘を偲ぶ会を開いたわけである。


「外に藤ヶ咲ふじがさき北高校と書かれたバンが停まってました。学生もなかにいるということでしょうか」

「だろうな。クラスで仲がよかった子とか、同じ部活の生徒とか、そういう子が呼ばれてるんじゃねえの」


 駐車場には藤ヶ咲北高校の専用車が停まっていた。普段は学生の登下校を支援している送迎車だ。参加したのは希望者のみだろう。


「あくまで、あたしらは警察だからな。あんまハメ外しすぎんなよ?」

「外しませんよ。綾瀬さんこそ」


 ため息混じりに忠告し合ったところで、エレベーターの自動音声が九階を告げた。エレベーターを降り、看板に従って廊下を進む。妙に静まり返ったフロアが酷く不気味だった。

 廊下を右に曲がってすぐの扉に『松葉千里お別れ会』という看板が掛けられていた。綾瀬は自然と、音を立てないようにしてノブをひねる。


「なんっだこれ……」


 半分ほど開けて覗き込んだ綾瀬が、引きつった顔で呟いた。長海は緊張感から下唇を舐めた。

 参列者は全員、並べられた椅子に腰掛けて、前方を向いていた。

 その先のステージにはマイクを前にして立つ、藤北生の女子二人が、もごもごと何かを喋っている。一人は唇を噛み締め、語っているもう一人は眼鏡の下にハンカチを添えている。二人が話していたのは、松葉千里との思い出だった。

 決して楽しい雰囲気を期待していたわけではない。だが会場は、葬儀に等しい陰鬱な空気に支配されていた。


 長海と綾瀬が固まっていると、一番後ろの席の――座っていてもほかより頭ふたつ分飛び抜けて目立っている人物が振り返り、そろりと立ち上がった。後ろ姿だけで特定できる、風田班長だった。

 長海と綾瀬は一旦廊下へと出る。続いて、後ろ手に扉を閉めた風田に「お疲れ様です班長」「お疲れ様です」と、綾瀬と長海が口々に挨拶する。


「おう、待ってたぞ。と言っても、もうしばらくで終わるがな」

「は、班長……偲ぶ会ってあんな空気なんすか? あたし葬儀かと思いましたよ」

「娘さんが亡くなった後だ。パーティーを開けというほうがどうかしてる」

「それは、そうっすけど……」


 でも……と、綾瀬は何か言いたげに口元を動かす。


「あの、警察はなぜ呼ばれたんでしょうか」


 先ほど綾瀬にした問いと似たことを長海は訊いた。しかし風田は首を振る。


「さあな。ただ、もてなされてないことは確かだ」


 その答えの意味が掴めず、長海と綾瀬は顔を見合わせた。


 再びホールの扉を開けると、ステージ上の女子生徒が一礼をしたところだった。途端に拍手が鳴り響く。おおむねスピーチが終わったのだろう。

 長海と綾瀬は風田を追って、後ろのパイプ椅子に並んで座った。冷えた鉄の上に直接触れているような座り心地と、動くたびにギイギイと錆びついた音が耳をつんざく。


岸名きしなさん、楠野くすのさん、娘との素敵な思い出を語っていただきありがとうございます」


 司会進行のマイクスタンドの前に立ったのは、千里の母親だった。いや、本当にこの人が松葉千里の母親かどうか、長海はひと目で判別できなかった。やつれこけた頬の肉と蒼白い顔色――それらを化粧で誤魔化しているように見えたのだ。声を発し、そこでようやく千里の母親であると認識する。

 母親は娘の部活動について語り出した。お世辞にも運動神経がいい子ではなかった、けれど部活に取り組む姿勢は前向きで、家の庭でもよくテニスボールを突いていたと。


 母親が話すに連れて、左端中央にいる学生たちからすすり泣きが上がる。参列している後ろ姿は、男子が三人、それ以外は女子生徒である。学生のほかにも、担任の教師、部活動の顧問、そして校長と教頭の――黒や紺色の背広が見て取れた。


(本当に……通夜みたいだ)


 場違いな空気が息苦しく感じる。長海は両膝に置いた拳を解いて、襟元を緩めた。

 母親が話を終えて一礼する。拍手は沸き起こらない。

 今度は脇から現れた男性が、母親と替わってマイクの前に立った。背が低く、小太りな男――こちらはひと目でわかる、千里の父親だ。


「本日は我が娘のために、友人、知人、学校関係者の皆様、ご参列いただき誠にありがとうございました。皆様のなかの千里は、どれもきらきらしていて、どんなときも、どんな話の千里も、輝いているように私は感じ取りました」


 父親の目は深海のように暗い渦を巻いていた。

 松葉千里の遺留品がいつ家から消えたかを問われた際、『覚えていない』と、ただ身体を震わせていた父親。ポマードで整えられた髪から一房が耳の前へと流れる。


「葬儀は、身内だけで行う予定ではありますが、皆様のなかの千里を、どうか、忘れないでいただきたい。千里は……」


 絞り出すように声を発する父親は、そこで一旦言葉を切った。

 そして、


「娘は、まだ、見つかっておりません」


 長海は生唾を飲み込んだ。隣に腰掛けている綾瀬が顎を引いたのが視界の端に見えた。その隣にいる風田の表情は窺えない。


「千里の、遺体は……まだ、警察が管理しています。娘は、痛ましい目に遭ってもなお、浮かぶに浮かばれずにいます。だから今日は、最後に――本日ここにお越しくださった警察のみなさんに、熱意を改めてお聞きしたいと思います」


 え、警察? と言った小さな声。身じろいで服が擦れる音。会場全体が、この場にいる警察探しにざわつく。


「謝罪しろ」


 はっきりと放たれたのは男の声だった。さらに、その付近から別の男性の声が上がる。


「そうだ、警察がなんでここにいるんだ!」

「帰れ帰れ! 役立たず!」

「ちーちゃんと松葉さんに謝れ! 謝罪しろ!」


 父親と、その男たちはまっすぐに長海たちを捉えていた。まるで最初から警察の位置を把握していたみたいに。周囲の顔向きも、ドミノ倒しのように長海たちへと注がれる。動けずにいる長海は、背中に嫌な汗が伝うのがわかった。――風田が静かに腰を上げた。弾かれたように長海と綾瀬も立ち上がる。

 風田がすうっと息を吸いこんだ音が二人には聞こえて、


「警察は、圧力には屈しないっ!」


 会場に響き渡ったその声にハモるように、キィーンとマイクが唸った。風田は、ステージ上で語った誰よりもある声量を放った。


「本来なら、我々はここにいるべき人間ではありません。捜査に全力をかけるのが警察官だからです。今こうしている間にも、別の事件が起きている。藤北の事件もまだ収束していない。我々は犯人を見つけ出し、あと一人を救出することを第一に考えています」


 あと一人、と口にしたところで、前列にいる誰かがピクリと顔を上げた。右端からは「なんだその態度は」と、先ほどよりも抑えられた声音で言ったのが聞こえた。


「それが警察官の務めです。話は以上です。今日はお呼びいただき、ありがとうございました。失礼します」


 風田は軽く一礼をして、腰を下ろすことはなく、謝罪の言葉ももちろんなく、すたすたと扉へ向かう。長海と綾瀬も一礼の後に風田に続いた。背後からは叩きつけるような怒号が飛び交っていた。


 足早に廊下を進む風田の横に、長海は急いでついた。


「風田さん、本当に帰ってもいいんでしょうか」

「気にするな。最初からそうするつもりだった」


 口調は柔らかだが、目は笑っていない。長海はこのときはじめて、風田刑事が怒っていることを察した。

 風田は、職場でも現場でもいつもクールで、感情を表に出さない人だ。今だってそう。怒りの感情を抑え込んでいる。風田だって、悔しいのだ。捜査から遠ざけるようにこの場所に送られたことが、謝罪しろとあらゆる方面からぶつけられたことが、悔しい。


 長海は歩を緩めて、綾瀬の隣に歩調を合わせた。風田は――なりふり構わず熱くなってしまう短気な自分と大違いだ。


「あ、あの!」


 エレベーターを待っていると、後ろから小走りで声をかけられる。三人の刑事が振り向いた先にいたのは、黒のワンピース姿の、小柄な少女――

 え? と開きかけた口を長海は閉じる。


「私、百井りんです。お、お仕事中に失礼かと思いますが、あの、どうしても聞きたいことがあって……」


 ほかの生徒たちとは違い、彼女だけ制服ではない。つまり個人参加ということになるが、親友であったはずの彼女が学校側から呼ばれないのはおかしい。すなわちこれは、一度家に帰って着替えて来たか、彼女自身が学校を休んだことを意味している。

 先日取調室で暴れていた少女には見えない風貌だった。髪はサイドテールにくくられていて、赤い小さな髪留めが控えめに覗いている。顔色は依然悪そうだが、瞳は確かな輝きを宿していた。


 風田は長海たちより一歩前に出ると、刑事手帳から名刺を抜き取り、ボールペンで何かを書き足す。エレベーターが到着してドアが開いたので、綾瀬が真っ先に乗って『ひらく』のボタンを押し続けた。

 書き終えた風田はそれを凛に差し出す。書かれていたのは風田の携帯番号だ。


「何かあったらここに電話をかけてくれ」


 それだけ言って、風田は踵を返した。

 長海は一礼して、いそいそとエレベーターに乗る。ここで自分も名刺を渡すのは気が引ける。少女は受け取った名刺を、エレベーターの扉が閉まるまで、熱心に見つめていた。――風田のように素早くできる大人の対応を、長海も見習わなくてはいけないなと思った。


 エントランスを抜けて外に出ると、折りたたんだ傘を手にして佇む一人の女性と、何人かのスーツ姿の男が、見るからに剣呑な雰囲気を醸し出して扉の横に対立していた。

 後で合流しようと言い残し、風田と別れて駐車場に向かう。


「ですが神永かみながさん、もう少しお安く見積もっていただけると……」

「何遍言わせるん? こちらの要求は一銭たりとも変えるつもりあらへんよ」


 女性の扱う濃厚な関西弁と、神永さんという言葉が、風雨のなかでも耳にすることができた。


(神永……? あれは神永響弥きょうやの母親?)


 彼も会場に来てたのか、と長海は仰天した。

 急ぎ足で車に乗り込んで一息つくと、長海の思いを汲み取るように、髪をかきあげた綾瀬が口を開く。


「学校の祟りを鎮められる唯一の存在だって言われてる。これも灰本情報だけどな。……もうあたしらよりも寺頼りってか」


 そう言って憫笑すると、「あ」と一言、続けざまに声を漏らした。


「どうしました?」

「班長の車に乗ればよかった」

「……………………」


 長海は、そんなに酔いますかね、という言葉を必死に呑み込んだ。

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