また彼にやられたんだね
ルイスがいつものように防音室でサイト管理を行なっていると、「ルイスさんご飯だよぉ、一緒に食べよぉ」と、茉結華がのんびりと部屋に入ってきた。ルイスはモニターの端から覗き見て、了解の返事をする。作業に夢中で気づかなかったが、もうとっくに夕飯時である。
茉結華が持ってきたのはコンビニ弁当のカツ丼だった。両手が塞がっているので扉は足で開けたらしい。茉結華の器用さには驚かされるばかりだ。
夕飯を取るにあたって、茉結華と一緒に食べるという規則はない。別々に食べることもあれば、茉結華はトワと、ルイスは一人、部屋で取ることもある。もちろん三人や四人で取ることもある。
――茉結華が自ら部屋にやってきて弁当を勧めてくるときは、大抵話があるときか甘えたいときだ。そう考えていれば、ほら、
「聞いて聞いて聞いてよルイスさん! 今日すっごく嫌な刑事に会った!」
パイプ椅子にどっかりと腰を掛けた茉結華は、割り箸を乱暴に割って切り出す。
愚痴でも悩み事でも相談事でも、茉結華からこうして話し出してくれることにルイスは優越感を覚える。誰にも言えない話も、ふたりだけの秘密も、約束も、茉結華とは数え切れないほどした。――僕だけにしてくれる。僕だけの茉結華。
ルイスは椅子を前に滑らせて「どんな刑事?」と話の先を促した。
「うん、なんかね、すっごく高圧的で傲慢なタイプ」
「傲慢?」
「そう。警察の肩書きを偉そうに引っさげてる感じ。あともう一人、あのヘンな刑事がいた」
「……この前言ってた若い人?」
そうそうそいつ、と茉結華はカツ丼を口に運ぶ。
茉結華が以前言っていた、髪が白に近い金色で顔立ちは日本人の美形で季節外れのモッズコートを羽織った若い男のヘンな刑事。それは確かに変だね、とルイスも防犯カメラの映像でチェックをしたが、見つけられなかった刑事だ。
「イケメン、ムカつく」
和訳のように言って茉結華は割り箸を噛む。――茉結華も十分だと思うけど……。心中で呟き、ルイスもカツ丼を食す。
珍しくカツ丼なのは何かの願掛けだろうか。試験前日になると、母が毎度のことのように作ってくれていたのをルイスは思い出した。中央には針海苔が乗っていて、湯気でふわふわ揺れていたっけ。一人暮らしで投資をはじめて、レートが読めるようになってからは仕送りも断ってしまったけれど、あの両親なら今も田舎で元気に暮らしているだろう。今度茉結華を連れて挨拶に行こう。
――けど、そんな僕と茉結華の未来には、邪魔なものがひとつだけある。
「茉結華、それ……!」
「にゅ?」
容器の中身が半分程度になったとき、ふと茉結華の脚に目が行った。パイプ椅子の上であぐらをかいている茉結華の綺麗な脚――その片方のふくらはぎに、グロテスクな歯型が付いているではないか。
茉結華はルイスの視線を追って「これ?」と言って笑い、
「たいしたことないよ」
「――また彼にやられたんだね」
ルイスは間髪入れずに答えた。
「ああ、いや、渉くんじゃなくて」
「ううん、誤魔化さなくてもいいよ。僕には本当のことを話してくれていいから、ね?」
僕はずっと、茉結華を信じてるから。そう言うと、茉結華は心打たれたように押し黙る。それから目を伏せて、眉尻を下げた。ルイスの割り箸を握る手に力が加わる。
――邪魔なもの。ただひとつの邪魔者だ。
彼がいるから茉結華は自由になれない。彼がいるから茉結華に傷が付く。彼がいるから、茉結華が悲しそうな顔をする。
――茉結華を傷付けるものは、僕が絶対に許さない。
「あ、あのねあのね!」
パッと顔を上げて、茉結華は明るい声を出す。無理にでも話題を変えようとしているみたいだ。ルイスも、茉結華といるときは楽しい話に興じていたいので顔色を変える。
「ルイスさんの、今日のメールのタイミング、ばっちりだったよ! さすがだなぁって、嬉しくなっちゃった」
「あはは……合図が届いたら即時送信、あれくらい朝飯前だよ」
パソコンの前で構えていれば子供にだってできる。『ちーちゃん』という子のトークアカウントにPCからログインして送信しただけの簡易的な作業。アカウント自体は移されて、今は茉結華の副端末にある。茉結華が送信することもできるのだが、恥ずかしいからやって、と頼まれたのだ。
でも茉結華が喜んでくれてよかった。あんな小さな仕事でも褒めてくれる、その心遣いがルイスは嬉しかった。
茉結華はポケットから赤色のスマホを取り出した。いつも使っている主端末だ。
「掲示板も盛り上がってるし順風満帆だよねぇ。あ、ほら、E組じゃなくてよかったぁって言われてるよ」
茉結華はくつくつと笑う。ここには、食事中に携帯をいじるなと叱る人はいない。ルイスは実家でよく怒られていた。茉結華には自由に振る舞ってほしいし、ルイスも縛られるのは嫌なので、こうしてモニター脇で行儀悪く食事している。
「ねえ、この管理者名ってなんて意味?」
カツ丼を食べ切ったルイスに、茉結華はひょんな質問をした。これ、と言って見せる端末には、管理者のハンドルネーム『夜十七夜』の文字がある。
「朝霧くんが管理してたときはアルファベット二文字だったよね、AS――たぶん朝霧修って意味だと思うけど、ルイスさんのこれはどんな意味なのかなあって、前から疑問だったんだ」
裏掲示板サイトの管理者名は、ルイスがサイト運営を任されてから変えたものだ。この変化に気づくものはそうそういないだろう。況してや規約さえ読んでなさそうな高校生たちが、こんな場所に着目するだろうか。
そんな安直な考えから変えてしまったけれど、しかし茉結華は気づいていたようだ。彼の注意深さには一本取られた。ルイスは軽く鼻を掻いて、
「それは…………内緒」
ちょっぴり溜めてから、人差し指を唇に当てた。
えぇーっ! という茉結華の声を受けて、ごちそうさまでした。ルイスは手を合わせて、赤い頬で微笑する。
このハンドルネームの由来はね、茉結華たちへの愛なんだ。
* * *
手錠で繋がれた左手に重心を預けながら、渉は微睡みのなかにいた。
鍵を外せ、飯を寄越せ、少し前までならそうやって文句を垂れていただろう。だが毎日両手両足を縛られて硬い床で眠っているうちに、身体が適応してしまったのか、今の状態はむしろ楽とも言える。一歩も動けないとはいえ、両手を縛られているか、片手を吊られているかの違いに過ぎないからだ。こんな状態でも眠れてしまう自分の身体を、渉は疎ましく思う。
変化はもうひとつある。睡眠が浅くなったことだ。以前までの渉は、一度眠ったら数時間続けて眠れるような深い睡眠を取れていた。それが今は、少しの物音、足音、声、気配ですぐに意識が覚醒する。真っ暗な押入れに丸一日閉じ込められたことで、皮肉にもはっきりと自覚したことだった。
そして、まもなく茉結華が戻ってくることも肌で感じる。
遠くのほうでロックの外れる音がして、渉は瞼をすっと開けた。引き戸のほうへ首を傾けると、透明の液体が入ったペットボトルを手にした茉結華が、こちらに向かってくるところだった。晩飯じゃないことは一目瞭然である。
「トイレ平気?」
その問いで渉は、これから入浴の時間なのだと察した。眠らされ、風呂に入れられる。それはつまり、空腹との戦いが延長戦にもつれ込んだことを意味している。
トイレは平気だった。正直、水もあまり飲んでいない。だが素直に答えてやる義理はないので、渉はぷいっとそっぽを向いた。
「平気なら、はい、チューチューして」
ポンッと小気味のいい音がして、目先でストローキャップが開く。渉は差し出されるペットボトルを一瞥した。
「睡眠薬入りだろ」
「それはどうかなぁ?」
土曜日の夜、『おいしい栄養剤』と言って出された液体を飲んで即刻意識を失った。
日曜日も同じ手法で眠りについた。なかに仕込まれた睡眠薬がでたらめな量なのか、効き目が強いのか、それとも渉の耐性が低いだけなのか定かではない。
どうやら脱走に失敗した日から、茉結華は麻酔性のある芳香の使用をやめたらしい。ハンカチで嗅がせる間にまた息を止めて眠ったふりをされては堪らないからだろう。渉としてももう副作用に苦しまなくて済むので、あの薬を使わなくなったのはありがたい変化だ。
だがしかし、睡眠薬の入った水と知って自ら飲むかと問われれば、答えはノー。指摘したのは今がはじめてだ。
「風呂は何ごっこ?」
「ごっこじゃないよ、私の日課だもん。それとも一緒に入る?」
茉結華の口元がニヤリと弧を描く。内心、バレちゃったかーとでも思っているのだろう。ペットボトルを手前に戻して、退屈そうに前後に傾ける。
「飲んでくれなきゃお風呂入れないよ。渉くんはそれでいいの?」
不毛な争いと知っておきながら茉結華は答えを委ねてくる。渉はそれには答えずに、「……さっきの」と呟く。「うん?」と茉結華は興味を示した。
「さっきお前は、今度は逆になるって言ってたけど、それって俺がお前を殺すってことか?」
そう言うと、茉結華は毒気を抜かれた顔でぱちぱちと瞬きをし、「さあ、それはどうかな」
首を掻きながら、先刻と同じ返しをした。
「でも人間はさ、人々の記憶のなかで生き続けるんだよ。肉体が滅びてもね。渉くんの周りにもいるんでしょ?」
主観めいたことを言って、茉結華は目だけを動かして周囲を見る。渉の視界の端に現れた朝霧と小坂が、並んで手を振った。
「……確かに、人は死んでも誰かの心のなかで生き続ける。でも殺人を正当化する理由にはならない」
「うわ、警察みたいなこと言わないでよ……」
なんか冷めちゃったなと、拗ねたように口を尖らせて、一向に誰の唇にも触れないストローを茉結華は指で遊ぶ。
遺体が見つかったと聞いたとき、あまりに現実味がなくて、悲しいとさえ思えなかった。人が死にすぎて感覚が麻痺しているだけかもしれない。
けれど、殺人を犯した者が今目の前にいるのなら、自分がそれを止めなきゃいけない。その意志は絶対的なもので、渉が殺す側に堕ちるのはありえないことだ。
「飲んでほしいのなら、もう――、誰も殺さないって誓え」
「うん、いいよ。誓う誓う」
「……、…………」
――適当な返しだと思った。でも、それを信じたい自分がいる。
信じていいんだよな? 俺はお前のこと信じるからな。そんなふうに押し付けられたら、どんなに楽だろう。
「渉くんこそ」
茉結華はからかうような甘い声を出す。
「結束バンド噛んだの忘れてない? やったら、歯全部抜くよって言ったよね」
うなだれていた渉が顔を上げると、茉結華は空いていた左手を顎に滑らせた。渉の喉元がゴクリと弾む。
「歯医者さんごっこぉー、しよ? お口開いてごらん」
今度はそういう魂胆か。
茉結華はペットボトルを後ろ手に回して見えないようにしている。口を開いたところで無理やり飲ませる気だろう。渉は口をきゅうっと固くつぐんだ。
「あーんしてってばー」
嫌がる渉の唇を、茉結華は親指でぐにぐにとまさぐる。渉が嫌悪感を顔つきで表すと、茉結華は余計愉快そうにほくそ笑んで、上唇と下唇の間に指先をねじ込んだ。
愉快なひと時はそこまでだった。
「つっ……!」
渉は茉結華の親指に、歯を突き立てた。骨を砕く気で噛みついた指は、けれども一瞬で取り逃がす。後には、肉が破れた感触だけが歯先に残った。
茉結華は引っ込めた左手を軽く振ってから、恐る恐ると見つめる。親指の付け根にはくっきりと咬創ができていた。渉から見える手の甲にも歯型が付いている。
「……ざまあみろ」
「…………」
茉結華の瞳がすっと渉を捉える。踏み込んだ左手で渉の身体を押さえつけ、
「そんなに噛みたいなら」
ペットボトルを床に投げ捨てた。視線誘導だと気づきながらも、渉はそちらに瞳を動かす――瞬間、
「奥まで入れてあげる」
茉結華は刺すように素早く、二本指を渉の口内に突き入れた。
「んが、ぐっ!?」
指が舌の上を通り抜けて喉の奥に侵入する。
(こいつ……っ!)
ならもう一度噛んでやろうと歯を立てれば、茉結華は指先で粘膜を擦った。信じられないほどの吐き気が渉を襲う。
「ぐ、うっ!? うっうぇ、あ、うぅ!」
鳥肌が総立ちし、悪寒とともに髪まで逆立つ。
渉はじたばたと両足で蹴りつけるも、茉結華はお構いなしに喉奥を掻き回す。麻酔で堕落した右手で抵抗しても通用せず、身体は嘔吐反射でガクガクと跳ねる。喉も口内も栓がされて、このうごめく異物を吐き出すができない。
「ごめんなさいして? ごめんなさいして?」
茉結華は同じ言葉を、語気を強くして繰り返す。指の動きは喉の奥でいっそう激しくなる。渉は声を発するどころではないし、そもそも彼が謝らないことを茉結華はわかっているのだ。
「うっ、ううんんうう……」
渉は息を吸って吐くのに必死で、舌を動かそうにもくぐもった声にしかならない。開いた口から垂れる涎は茉結華の手を伝い、制服にまで染みていた。
(くそ……くそっ……)
棘の刺すような痛みに蹂躙され、渉はがふがふと咳き込んだ。視界がぼんやりと霞んでいく。けれど意識は離れない。上目遣いで茉結華を見ると、鬼の形相で睨みつけてきた。彼曰く、お仕置きの一貫なのだろう。早く、気絶してしまいたい――
「えっ」
突如上がった茉結華の声。同時に、喉から指が引き抜かれる。
渉は吐き気と異物感から解放され、ぜえぜえと喘いだ。ようやく飲み込めるようになった唾液を喉に通すと、じくじくと鋭い痛みとともに血の味が口内に広がった。
顎と口元の涎を拭って茉結華を見上げると、彼は引き抜いた指先をまっすぐ見つめていた。そこに付着した、唾液が混ざった、赤い筋を。
(えっ……?)
渉は、先ほどの茉結華と同じ反応を心中でする。涎を拭った右手の甲を見ると、そこにはべったりと付着した赤い線があった。
渉は自分が血を吐いていたことにようやく気がついた。
呆然と自分の手を見つめるふたり。沈黙が流れ、先に視線を動かしたのは茉結華だった。
「わ、渉くんが悪いんだから」
震えた声の根源は、怒りなのか、恐怖なのか。背けた茉結華の横顔は、いつもより白く感じた。
茉結華はペットボトルを拾い上げると、ストローを渉の口にねじ込んだ。ボトルをぎゅっと押して、生温い液体を送る。溢れんばかりに流れ込んだ水をゴクンゴクンと飲み込むと、頭のなかにすぐさま白い空白が生じていった。
これに懲りたら二度としないでね。痛いのは嫌いって言ったでしょ。渉くんの自業自得なんだから。茉結華の声が頭に響く。
朦朧とする意識の片隅で、ごめんね。最後に聞こえたのは、そんなちっぽけな声だった。
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