白馬の王子様

 灰被りの狼少女は今日も色のない世界を見つめている。黒と白に荒れた砂の世界で一人だけ時が止まってしまった少女は、幸せだった頃の記憶をぐるぐると頭のなかで辿るのだ。

 今はその思い出すらも、色を失いつつある。燃え尽きた心からほろほろと落ちる灰が雪のように降り積もり、足元から世界を冷たく凍らせていく。


 少女は待つ。待っている。白馬の王子様が迎えに来て、再びこの世界に色が宿るのを。

 眠りから目覚めるそのときを、崩れ行く夢に浸りながら待っている。


    * * *


 期末テスト三日目は朝から大荒れだった。

 E組の噂好きの女子、瀬川せがわ千晶ちあきが教室のドア枠を跨いだ途端、前方から「うおあああぁ!」と獣のような唸り声が上がる。それはまさに咆哮だった。

 瀬川に飛びかかった三城さんじょうかえでの、座っていた机と椅子がけたたましく倒れる。三城は、瀬川に掴みかかり、髪や胸ぐらを引っ張った。


「あんたでしょ! あんたが神永の噂流してんでしょ!」

「はあ? 何!?」


 いきなりの奇襲に瀬川も激怒して三城を押し返す。弾かれたように席を立った凛が間に入るが、二人の争いは勢いを増すばかり。


「何が面白いんだよ、ふざけんな! あんたのせいで……響弥に謝れよ!」

「やめろ、痛い!」


 ヒートアップする二人を見て、教室にいた女子たちも慌てて互いを止めに入る。世戸せとグループは瀬川を、椎葉しいばたちは三城を。


「他人の噂流して楽しいか? あ? 死ねよ! 今すぐ目の前で死ねよ!」

「は? 意味わかんねえし、お前が死ねばいいだろ!」


 口悪く吠える両者に圧倒されて、男子たちは教室の隅で固まっていた。止める者も茶化す者もいなかった。三城と瀬川が泣き喚いていたからだ。

 騒ぎを聞きつけた教師がやって来る頃には二人の取っ組み合いは止んで、鼻息荒く睨めつけ合う形になっていた。三城は興奮した様子で叫んでいたが、何を言っているかはわからない。瀬川も同じような状態だった。髪を振り乱し、鼻からは血を流している。


 E組では時折こんなふうに女子同士の争いが勃発する。力のあるふたつのグループが対立しているからだ。だが今日のいさかいはこれまでと比にならない、激しいものだった。

 二人が教師に連れて行かれたあと、「テスト期間にふざけんなよ……」と男子の愚痴が静まり返った教室に霧散した。




「お疲れ様。大変だったね、望月くん」


 すっかり習慣づいてしまった放課後の朝霧への挨拶も、今日は渉を癒やす憩いの場となる。机に「ぐぅ……」とうなだれる渉の頭を、朝霧はよしよしと手のひらで撫でた。

 テストが終わり、クラスの混乱は去ったが、三城と瀬川の件は解決していない。二人は今まで以上に互いを疎むようになったし、グループ同士の溝も深まった。それもこれも、原因は響弥の――


「本当に……あんなこと書いて大丈夫なのかよ」


 組んだ腕に顎を沈めて、渉は極力周囲に聞こえないよう唇を尖らせる。

 芽亜凛と交わした作戦が、こんなにも早く効果を出すなんて思わなかった。しかも自分の教室で。


『神永響弥の罪名は殺人容疑』

『被害者は坂折さかおり公園で見つかった雑誌記者。自殺に見せかけて殺された』

『神永響弥はほかにも人を殺している根っからの殺人鬼。二年A組とC組の女子はその生き残りで現在も入院中』


 朝霧が掲示板に送ったいくつかの書きこみはたちまちのうちに波紋を広げて、たった一日で現実にまで影響を与えた。

 芽亜凛の語った事件の詳細は、あくまでも彼女の創作である。どこまでが嘘で、事実なのか――

 でたらめに混ぜて作られた『語り』は表向きめちゃくちゃであっても、確実に犯人の心を揺さぶるだろう。警察の取り調べでも用いられる『犯行を否定されると真実を語りたくなる心理』だ。

 しかし犯人の前にクラスの不和を煽る結果となっては、この先どうなるのか想像もつかない。


「そうだね、うまくコントロールしなくちゃ。きみらの騒動に話題を持っていかれないように」

「お前は楽しそうだな」

「望月くんがいるからね」


 またいつもの冗談でかわされる。こいつには不安や恐怖はないのだろうか。

 響弥を煽って三城に火がつく理由は渉には不明である。だが少なくとも、すでに被害者を一人出しているA組は響弥の悪い噂を静観するだろう。無関係とは言えないが、自分のクラスを完璧にまとめている朝霧は、今日の出来事が楽しくて仕方ないらしい。


百井ももいさんは?」

「図書室で調べ物ぉ。橘さんも一緒だろ」


 あくび混じりに返答して、渉は帰り支度の済んだ朝霧と教室を出た。また一緒に図書室に行くのかと思いきや、朝霧はまっすぐ昇降口に向かう。

「帰るのかよ」とつい不安で尋ねる渉に、「帰りたくないの?」と朝霧は笑って返した。


「病院行かなくちゃ。望月くんも来るだろ?」

「やっぱ行くのかよ……」


 嫌だとは言えなくて心臓が焦る。

 病院にいる小坂が、響弥のことを話してくれるとは限らない。まだ彼女と会えるかさえ不明だ。

 だが渉は、真相を聞くことからまだ目を背けたくて、定まらない覚悟と葛藤に胸が締めつけられる。まるでジェットコースターに乗る手前で駄々をこねる子供のように。進まなきゃいけないことは頭ではよく理解していても、想像力が恐怖と言う名のノイズをかける。


「そんなに嫌がらなくても。注射なんかされないよ」


 朝霧はしかめっ面の渉ににっこりと笑いかけた。いつも楽しそうで羨ましいくらいに整ったそのツラを、渉は睨み上げることで最後の抵抗を示した。




 芽亜凛と虹成が彼女に会えなかった理由は、病棟を訪ねてすぐに判明する。

 水色の制服を着た警備員が、病室の前で新聞紙を広げている。座っていても大柄だとわかるその大男は、椅子に腰掛けて新聞に集中……ではなく、人が廊下を通るたびに鋭い上目遣いでじろりと確認していた。何人たりともここは通さない、と気迫が目に見えるようだ。


「会えなそうだな」


 諦念から眉を下げる渉の顔を見て、朝霧はふふんと穏やかにはにかみ、「よろしくね」と肩を叩いた。何が、と渉が聞き返す前に、朝霧は病室に足を向けてずんずん進んでいく。

 ――いったい何を考えているんだ?

 渉は朝霧の背中に隠れるように小走りで後ろをつける。忍び寄る影に気づいた警備員がハッと顔を上げて朝霧を見るが、彼の歩みは緩まることを知らず。朝霧は病室のドアノブに躊躇なく手をかけて横開きの扉をスライドさせた。


「おい、きみ!」


 朝霧を追う警備員の太い腕を、渉は両手を広げて遮る。


「す、すみません! ちょっと待ってください」

「どきなさい! きみたちまとめて警察に連れて行くぞ!」


 それは勘弁願いたい。朝霧の行動は予測不可能で、まさか強行突破するなんて渉も思わなかった。よろしくってこういうことかよ……! と心のなかで朝霧を恨む。

 渉は真っ赤な顔の警備員と押し合いになりながら、じりじりと後退する形で病室に足を入れる。大の大人の力は容赦なく子供を潰しにかかり、渉一人では限界があった。


「ぐぐぐ……朝霧ぃぃ」


 助けを求めるように首を回して彼を見る。朝霧は病室の窓際で、ベッドの上の小坂めぐみを見下ろしていた。

 曇り空に吸いこまれる彼女の視界を遮るように、外の景色を背にして佇む。そうして、空に鳥が飛び立つような当然の仕草で、ふわり、と。

 朝霧は長い睫毛を閉じて、桜色の彼女に口づけを落とした。


 あまりにも自然な所作に、渉は呼吸を忘れて呆気にとられる。石化した少女の瞳に光沢が宿ったのはその瞬間だった。瞼がわずかに持ち上がって、半開きの口から吐息が漏れる。朝霧は、長い睫毛をゆっくりと上げて唇を離した。

 甘美な時間はほんの刹那。渉の力が緩んだ隙に警備員が押し入り、朝霧の肩をぐっと強く掴む。


「一緒に来てもらうぞ」


 低い声で言い放つ警備員には目もくれず、朝霧は小坂めぐみを見つめる。小坂はぱちぱちと瞬きを繰り返して、


「修……?」


 と目を丸くした。

 朝霧は「そうだよ」と頷き、決められた笑みを浮かべる。


「修!」


 ぴょんと声を弾ませて小坂は朝霧の身体に抱きつき、うっとりと熱い視線を送る。だが朝霧の動きが封じられているのを知ると、途端に眉間にしわを寄せて背後の警備員を見やった。


「あんた何? 誰? 修が私を抱きしめられないでしょ!」


 まるで猫の威嚇のように睨めつけられ、警備員は絶句して口をぱくぱくさせた。言葉どころか声も出ないようだった。それもそのはず、心を失っていた被害者少女が、今しがた元気に意識を取り戻したのだ。

 警備員は朝霧を離して後ずさり、「れ、連絡を!」と転びそうな勢いで病室を出ていった。小坂と朝霧は抱きしめ合い、非科学的な愛の力を証明する。


「修……よかったぁ。怪我してない?」

「うん、大丈夫。してないよ」

「へへ……私ね、待ってたんだ。修が来てくれるの、ずっとずっと待ってたよ」

「うん、やっと会えたね」

「うん!」


 幸せそうに小坂は微笑む。魂の抜けた表情も心の死んだ人形の姿も、もうどこにもない。穏やかで喜びに満ちた優しい表情と声色で、愛しい彼を包みこむ。悪い魔法が解けたかのように、小坂の時間は動き出した。

 抱き合う二人を渉は遠くから眺めて、軽く息を吐く。これがどんなに大きな奇跡かは計り知れない。だが彼女の心と笑顔が戻ったことは、きっとどんな奇跡よりも価値があるのだろう。

 そんな祝福に終わりを告げたのは、ほかでもない朝霧だった。朝霧は小坂の顔を覗きこんで問う。


「めぐみ。きみを襲った犯人の顔を覚えてる?」


 小坂は一瞬電気を浴びたように身体を震わせた。彼女の顔から笑みが消え、幸せな香りに似つかわしくない不穏な空気が充満する。


「はんにん……?」

「そう、犯人の顔だよ」


 目覚めたばかりの小坂に訊くのはさすがに不謹慎だと、誰もが思うだろう。警察の聴取も医者から止められるかもしれない。だが朝霧は自分の都合で、美しい花壇さえも笑顔で踏み荒らしていく。


「覚えてる?」

「…………」


 小坂の顔に暗い影が差す。これ以上は駄目だ。止めるべきだと判断して渉が近づいたとき、「覚えてるよ!」と彼女は元気ハツラツに首をもたげた。渉は驚き、動きを止める。


「誰かわかる?」

「んーっとね、えーっとね、名前はわかんないの。でも覚えてる。見れば、ああこいつだってわかるよ。私そいつに殴られたのに、なんでだろう。修に殴られたって錯覚しちゃって、ありえないのに!」


 朝霧は「うん、そうだね」と相槌を打ちつつ、渉に手のひらを出して訴えた。それで察してしまう自分にもほとほと呆れるが。

 渉は資料を配る部下のように、画像を表示させたスマホを朝霧に手渡す。響弥を含むいつメンと撮った写真だった。


「このなかにいる?」


 朝霧の問いに小坂は間髪入れず、指をさして答える。


「こいつ! 神永響弥!」




 院内レストランのランチは健康的な和食料理だった。骨まで柔らかくなった鯖の味噌煮、ほかほかの白米、ほうれん草の和え物、ネギと豆腐のお味噌汁。

 並の高校生ならばぺろりと平らげてしまう家庭的な料理にも関わらず、渉の箸はなかなか進まなかった。おかげで「お昼寝時だね」と朝霧に気を遣わせてしまう。

 小坂の病室は、駆けつけた大人たちで瞬く間にいっぱいになった。家族以外の友人は部外者と見なされ、追い出される。もちろん元恋人もだ。小坂は最後まで朝霧の名を呼んでいたが、また来ることを約束すると、ぱあっと顔色を変えて大人しく診察を受けてくれた。


「おいしかったね。鯖の味噌煮なんて久しぶりに食べたよ」


 バスを降りた先で渉の自転車を回収し、各々の帰路に向かう直前。朝霧は嬉しそうに告げた。


「自分じゃわざわざ作らないからね。クラスメートの家に泊まっても、魚は数が決まってるから滅多に食べれないんだ」

「へえ……」


 泊まることなんてあるのか。言われてみれば、渉も朝霧と泊まったことがある。自分の家でも彼の家でもない、誰か知人の家だった……。これも今は『ない経験』だ。

 渉はぼんやりと考えて、「じゃあ」と背を向けた。「送っていくよ」と朝霧はその背中に声を飛ばす。

 頭のなかは掴みどころのない霧がかかっていて、ほとんど真っ白だった。渉は断る理由も頷く余裕もなく、朝霧と一緒の道を歩いた。

 テストの話題と病院の話、そして掲示板の様子を朝霧は嬉々として語る。渉はそれに「うん」「そうかも」「へえ」「そうか」と生返事を繰り返して、大半を聞き流した。


『こいつ! 神永響弥! こいつが私を襲ったの』


 病室ではっきりと聞いた小坂の勇気ある告発が、脳裏を魚のように泳ぐ。間違いであってほしい。何もかも嘘で、自分のこの不可解な記憶すらも偽りであってほしかった。

 響弥は犯罪者なのか……。だとしたらどうして。何があって、悪魔に取り憑かれてしまったのか。


 考えても考えても答えは出ない。だがこれからは渉の行動ひとつで、失われる命がある。

 それは凛か、芽亜凛か。もしかすると朝霧、千里、小坂、そして渉自身の命かもしれない。その危険性と予感だけは本能で理解することができた。

 決して響弥と一人で会ってはならない。庇わない、刺激しない、敵対しない。何より掲示板の作戦は、絶対に知られてはならない最重要項目だ。

 それでも響弥を思って、自分にできることはないかと考えてしまうのは、現実の悪を受け入れる覚悟ができていないからか。それとも同情か……親友としての情けだろうか。


 車通りの少ない道を二人並んで歩き続ける。徐々に渉の住む住宅街が近づいてきて、角を曲がった先に自宅が見えた。――デジャヴだった。


 渉は思わず朝霧の腕を掴んで止まる。手から振動が伝わり、朝霧は渉の視線を辿った。

 玄関前に、誰かがいた。棒人間にしか見えないそのが、渉にはわかってしまう。

 黒いキャップ帽を被っていた。下から白い髪が覗いていて、そいつの素顔は親友と瓜ふたつ。

『誤認逮捕だよ』と、彼は得意げに言った。安堵すると激痛が身体を駆け抜けて、気を失い、目が覚めた先で殺戮ショーがはじまる。自分の両手と、みんなの命がなくなる……。

 知っている。渉はこの先の、自分の物語を知っている。


 朝霧は、白髪の親友に思いを馳せる渉の横顔を盗み見て、「僕がついてるよ」と肩を優しく抱き寄せた。

 二人で自転車を引いて行く。キャップ帽の人影はこちらに気づいて振り向くと、顔が見えないようにツバを下げて裏道へと走り去った。血を凝縮した赤い瞳をわずかに見開いて。


「誰だろう。怖いね」


 朝霧は陽気に呟くが、すでに正体を察しているような感じがする。渉は家の駐輪場に自転車を置いて、「今日、親いないんだよね」と玄関を指さした。朝霧はこてんと首を傾げて、


「誘ってるの?」

「誘ってます」

「じゃあお言葉に甘えて」


 冗談を交わした朝霧はくすくすといたずらっぽく笑って、一緒に家へと上がる。言葉にしなくても伝わっていた。今、朝霧を一人で帰らせるのは危険であると。

 鮮烈な一日だった。響弥と朝霧……虚構と現実。

 様々な板挟みで窒息しそうな渉は、徐々に色濃くなる非日常に脛まで搦め捕られているような寒気を感じた。

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