さしがね

 笑みの形を保った朝霧の唇から、「おかえり」と中学生の少女めがけて放たれる。「妹の虹成だよ」と紹介されて、渉は会釈で返した。

 虹成は、門扉を開けてすたすたと玄関へ。クラスメートの芽亜凛は挨拶を蹴って、その後ろに続いた。

 無視。シカト。二人の態度を表す言葉を脳裏に浮かべて思わず顔が引きつる。そんな渉の横で、朝霧はにこにこと笑っていた。


 面接会場に向かうような緊張感を抱きつつ朝霧家にお邪魔する。芽亜凛と虹成はテーブルにドーナツの箱を置いて、ソファーに横並びで着いていた。


「座ってください」


 芽亜凛は、L字型に置かれたもうひとつのソファーに視線を送る。「えっ」一緒に食べるの? と渉が仰天する傍ら、対のソファーよりひと回り小さいそこに朝霧は淀みなく腰を下ろし、「はい望月くん」とハンバーガーとポテトを差し出した。食ってる場合かと突っこみたくなる気持ちを鎮めて、渉は仕方なく隣に座る。


「病院の帰り? 橘さんは優しいね」


 何もかもお見通しの朝霧は二人を見ただけでその関係性を導き出す。渉は『病院、小坂めぐみ、朝霧の元カノ、妹』がなかなか繋がらず、しばらくその会話を見守った。


「会えませんでしたけどね」

「代わりに妹を拾ったか」


 拾ったという言い回しが気に入らなかったのか、虹成はきつく眉を寄せて、けれども目線は向かない。明らかに、こちらを視界に入れるのを拒んでいる様子だった。

 整った目鼻立ちは朝霧とそっくりなのに、常に顔つきは世界を敵に回している。家に招いたのは虹成だが、主導権は芽亜凛にあると見た。渋々この会話の場を設けているような。


「お二人に会ったのは偶然です。仲良く帰省ですか」

「そうそう、親に挨拶しにね」

「馬鹿か」


 ぼそりと吐き捨てる渉を「照れなくていいのに」と朝霧は茶化す。

 悪態をついた瞬間に虹成はぴくりと反応して、渉に視線を走らせた。頭から爪先まで観察し、異物を見る目で舐め回す。渉はハンバーガーにかぶりつく手前、その視線に気づき、慌てて姿勢を正した。


「名前、なんでしたっけ」


 にゃあ、と猫が鳴くような抑えの利いた虹成の声をはじめて聞いた。渉は目をしばたたき、


「も、望月渉です……」

「ふーん。望月さん」


 語尾に音符が付きそうなほど楽しげに呼ばれて、渉は疑心暗鬼になりながらコーラを飲む。虹成は片頬をきゅっと吊り上げて、渉のポテトを二、三本つまみ食いした。


「芽亜凛さんがあんたに言いたいことあるんだって」

「え、俺?」

「違う」


 虹成は察しの悪い渉を睨んで黙らせる。威圧的で自由奔放なところは兄にそっくりだった。目つきはまったく似ていないけれど。


「藤北の掲示板について頼みがあります」


 芽亜凛は新しいドーナツを箱から取り出し、朝霧に向ける。


「妹のさしがねか」


 見え透いた賄賂わいろを手のひらで制して「聞こう」と、朝霧は無感動に返事をした。


「生徒しか書きこめないそのサイトで、千里と小坂さんを襲った犯人を煽ってほしいんです」


 書きこむ内容はこちらで指示します、と芽亜凛は説明した。


「あはは、まさか」


 朝霧はからりと笑うが、芽亜凛は「そのまさかですよ」と彼の思考回路を先読みする。渉には、わからなかった。


「いいよ、仮にそうだとしよう。でもそれで、煽ってどうしたいの?」

「犯人にはまだ捕まっていない協力者がいます。いえ、犯人にしろ協力者にしろ、不利な書きこみを見れば消したいと思うはず」

が否定的な書きこみをすれば黒? そんなの、本人なら否定したくなるだろう」

「それだけじゃありません。もしかするとその協力者が、直接アクセスしてくるかもしれないんです」

「僕のサイトを乗っ取ろうって? まるでアノニマスだね」


 アノニマス。馴染みない言葉に渉は疑問を顔に浮かべ、察した虹成が答えてくれる。


「匿名という意味で付けられた、ハッカー集団の俗称ですよ」

「ハッカー……?」

「そんな都合よくいるとは思えないけどね」


 朝霧は菜の花畑が似合いそうな緩い空気をまといながら、立ち回りは否定的だった。頭の回転が速いその横顔からは、およそ思考が読み取れない。

 芽亜凛は一度目を瞑って、ふうっと息を吐く。長い睫毛が揺れ、形のいい唇が動くまで数秒。


「望月さんは、どう思いますか。その存在について」

「……へ?」


 自分には関係ない話だと聞き流していた渉は、なんで俺が意見を求められるんだ、と間の抜けた声を漏らす。ただ一人、話についていけてない。それが置いてけぼりを食らっている何よりの証拠である。

 しかし芽亜凛は、渉の『頭のなか』の門を叩いた。


「本当は憶えてるんじゃないですか。望月さんは何もかもを知っている……知っているのに、目を逸らしている。どうして目を逸らすんですか。答えはもう出ているのに」


 ぱちん、と目の前で両手を叩かれた気がした。閉ざされた意識を、急速に呼び覚ます音だった。芽亜凛の紫紺に滲む瞳孔が、射抜くように渉を見据える。

 それは、わからないんじゃない。わからないふりをしているだけだった。渉の心と本能は、薄々勘づいている。噂は単なる噂ではなく、真実だということに。

 ――響弥……。

 渉の瞼の裏側で、女子生徒が三人死んだ。狭いコンクリートに覆われた冷たい部屋、すえた空気を憶えている。飛び散った鮮血。円を描く刃のきらめき。自分の、失った両手。

 白髪の親友の、血と涙に濡れた赤い頬――


「おそらく赤縁眼鏡の男がそれです」

「……知ってる」

「憶えてるんですね」

「うん……」


 渉は食べかけのハンバーガーに目を落として、冷めないうちに一口、また一口と頬張った。

 青白い光を放つディスプレイの城壁……その中心で蠢く黒い影。見たことはないのに、憶えている。パソコンばかりいじっている男だ。

 芽亜凛の言う犯人が本当に生徒で――響弥で――仲間がいるのならば、そいつは書きこみを消そうとするだろう。俗に言う不正アクセスである。朝霧の協力なしには実行不可能な作戦だ。


「それで、相手が接触してきたらそのアクセス元を解析しろってことだね」

「できますか」

「余裕だね」

「そのまま乗っ取られたりしませんか」

「どうかな、僕のセキュリティーは厳重だよ」


 朝霧は楽しそうにポテトを指先で転がして、渉の口に餌付けする。渉はハムスターの頬になりながら昼食を飲みこんで、コーラを喉奥に流した。


「どうすんだよ、もし危険な目に遭ったら……」

「それは神永響弥のことを認めてるってことですか」


 芽亜凛の容赦ない言葉に渉は身を固くして口ごもる。薄く開けた唇からひゅうっ……と空気が妙な音を立ててこぼれた。心臓が跳ね上がるほどの驚愕を味わうには十分すぎる一言だった。

『デマだろ』

『書きこむほうも馬鹿だし信じるほうも馬鹿だ。サイトの管理人はもっと馬鹿。顔が見てやりてえな』

 あんなことを言っていたのに、これではあっさり肯定しているのと同じだ。


「まあまあ。あんまりいじめちゃ可哀想だよ」


 朝霧は芽亜凛を咎めるでもなく、諭すような口ぶりで渉の肩に手を置いた。慰められても嬉しくないが、その言葉と手のひらの温度が今は渉の心の穴を埋めてくれる。


「俺、もしかしてお前にすげえ失礼なこと言ったかもしれない……」

「失礼なこと?」

「サイトの管理人がどうとかって……」

「今さら気づいたの?」

「だってよぉ……」


 学校の掲示板を運営しているのが生徒で、しかもこんな身近にいるなんて誰が思う。誰も思わないだろう。

 朝霧は渉に微笑んでから「対価は?」と、自分の望みと血を溶かした声でゆるりと芽亜凛を圧した。


「きみの頼みは理解した。けど僕にメリットってないよね」

「小坂さんの敵討ちができます」

「それはきみの望みだろ?」


 ふ、と朝霧は歌うように穏やかに続ける。まるで手のなかのキャンバスを塗り潰すように。芽亜凛の望みすら、黒に塗り潰すみたいに。


「うん、そうだな。ネタでいいよ。僕は情報が欲しいんだ」

「何のネタですか」

「個人情報だよ、橘さん」


 無表情を貫く芽亜凛が、心の底から不快と言いたげに眉宇を歪める。隣で唖然とする虹成が「キッモ……」と彼女の気持ちを代弁した。

 けれども朝霧の整った笑い顔は機嫌を増すばかりだ。


「個人情報って何ですか」


 ため息をついて芽亜凛が問うと、朝霧はなぜか渉の肩をぽんぽんと二回叩いた。芽亜凛はさらに深いため息を漏らし、


「わかりました。うまくいったらお話します」

「楽しみにしてるよ」


 交渉成立だ、と屈託なく笑う朝霧の裏に、渉は自分の身が含まれているのを感じた。聞き返さなくて平気だろうか……まあいいか。

 一人悶々とする兄の新しいおもちゃを、虹成は紅茶のストローを咥えてじろじろと見定める。芽亜凛はスマホを取り出し、「凛からあなた宛てにメッセージが届いてます」と告げた。


「小坂さんに会ってほしい、と」

「それはきっと松葉まつばさんが言ったことだね」


 ええ、と芽亜凛は事実を認める。渉は、先週病院で会った千里の様子とともに、小坂めぐみを救わなかったことに対する怒りの声を思い出した。

 あの日以来、渉は千里のもとに行っていない。千里の責めている相手が朝霧だとしても、渉は気まずさで合わせる顔もなかった。罪悪感で、ひりひりと胸が痺れる。

「私も望んでいます」と、芽亜凛ははっきりと口にする。


「あなたが会えば、ぐっと犯人に近づけるんじゃないですか」


 そう言って芽亜凛は朝霧ではなく、渉の顔を見た。犯人、と言われるたびに親友の顔が浮かんで。うっ、とうろたえる渉に視線が集まり、E組の教室で感じた疎外感が繰り返される。

 響弥の真偽を明らかにするまで、渉はこの空気を何度も味わわなければならない。――いや、明らかになった後もずっと。

 渉は膝の上で拳を固めて、意識は芽亜凛の声に集中した。


「書きこむ内容についてですが、もうひとつお話があります」


 誰も知らないヒミツのお話が、と梅雨の転校生は声を落とす。サイトの信憑性を裏づけるため、そしてできる限り生徒たちの興味を引き、書きこみを盛り上げるための提供。

 それは一週間ほど前に学校を去った、教育実習生の話だった。

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