血のように赤く
渉が保健室に運ばれたという話は、またたく間に凛へと届いた。伝えに来たのは委員長の相方、萩野拓哉。彼曰く、直前まで渉と一緒にいたためすぐ異変に気づけたという。居合わせた響弥と協力して保健室に連れて行ったそうだ。
本当はすぐにでも顔を出したかった。けれども午後の活動から放課後部活まで凛は休むことができず、向かう頃には下校時間。それでも来週からのテスト週間を見越して、本日は早めに切り上げられたほうである。
凛は保健室の扉をくぐった。
「失礼しまーす……」と言っても保健教諭の猪俣はいないみたいだ。
一番奥に設けられたベッドのカーテンが唯一閉め切られていて、凛はそっと歩み寄ると顔を覗かせる。
「おっ。よっす!」
ベッドの脇で椅子に腰掛けていた響弥が、凛を見るなり手を挙げる。
「よ、よっす……」
リピートして、凛はベッドの主を見やった。
渉は瞳を閉じて静かな寝息を立てていた。その表情は少し険しく、よほど具合が悪そうに見える。
「貧血だってさ。最近いろいろと疲れてたみたいだし」
「そうなんだ……」
最近の渉のことは、響弥からも誰からも聞かされていない。それどころか、渉から避けられているような気さえしていた凛は、言葉が続かずに唇を閉ざした。
「まっ、土日休めばすぐに回復するって!」
心配かけまいとしてくれているのか、響弥は、起きていたなら渉が言っていたであろう台詞を口にした。凛はほんのりと背中を丸めた。――渉の気持ちや、こうなるに至った経緯も把握していない、自分の不甲斐なさに腹が立つ。
「凛ちゃんまでそんな顔したら、渉より先に俺が泣いちゃうぜ」
「わ、渉くんが泣くとは思えないんだけど……」
「うーん、確かに。想像はできないな」
凛と響弥は互いに頷く。今のは響弥なりのジョークだったのだろうか。
「萩野くんは、来てた?」
「うん、さっき顔出してこれ置いてったよ」
響弥は棚の上の封筒を持ち上げて言った。なかには萩野が取ったノートのコピーと、帰りに配布された用紙が数枚入っている。
「座らないの? あ、こっちに座る?」
立った状態の凛を気にかけて、響弥は席から腰を上げた。
凛はぶんぶんと首を振る。
「ううん、もう行こうかなって。私がいても仕方ないし……」
「いや、んなことは……」
響弥は何か言いたげに口をもごもごと動かす。
少しの沈黙を挟み、凛は思い出したように鞄を漁った。渉へと買ったミネラルウォーターを出そうと指がボトルに触れたそのとき、ふたりの間に低い呻き声が介入する。
「う……うぅ、ん……」
「渉?」
「渉くん?」
凛と響弥はふたりして前のめりになった。覗き込んだ渉の顔は、先ほどよりも眉間のしわが濃くなっているように見える。
凛は響弥と顔を見合わせた。
「お、起こす……?」
響弥が遠慮がちに訊いてきたので、凛はおずおずと賛成した。
「わ、渉くん……渉くん……!」と、二の腕辺りを軽く叩き、呼びかける。
「うう、ん……?」
短く呻いた渉の瞼が開かれた。何度か瞬きしてみせてから、眼球だけをきょろきょろと動かす。その顔には眠気の二文字が貼り付けられていた。
「渉くん……大丈夫……?」
いつになくぼーっとしている渉の顔を見ていると、起こしてしまったことがちょっぴり申し訳なく思えた。
渉は「あー……」と低い声を出してから、「うん」と素直そうな返事をした。
「まだ眠たいよね、うなされてたから、起こしちゃった」
「いや……むしろ起こしてくれてよかったよ。嫌な夢見てた」
渉が認めるくらいの嫌な夢とは、いったいどんなものだろう。
響弥はホッとしたのか、そっと椅子に座り直した。
「萩野は先帰ったぜ。部活じゃなくて家の用事だとよ」
「悪い、迷惑かけた」
「気にすんな」
身体を起こしながら言った渉は、力なく眉尻を下げている。彼の義理堅さは凛も重々承知だ。それは彼のいいところでもあれば悪いところでもある。
――もう少し他人に甘えればいいのに。
凛はペットボトルを取り出して、渉へと差し出した。
「これ、お水。よかったら飲んで。すっきりするよ」
「ありがとう……」
そう言ってペットボトルを受け取った渉は表情を和らげる。少しでも彼の気分がよくなるのなら本望だ。
凛は空になった手を宙に上げたまま、「じゃあ、私はこれで」と別れの挨拶を口にする。
「響弥くん、後よろしく……!」
「ん、了解!」
「気をつけて帰れよ」
「うん。渉くんも、ゆっくり休んでね。また、月曜日に」
それだけ告げて、凛は後ずさるようにしてカーテンを閉めた。
廊下へ出ると、凛は『はぁー……』と大きく息を吐いた。
毎朝挨拶はしているし、お弁当を渡している仲なのに、どうしてだろう。渉と話すことに緊張してしまった。
放課後だって一緒に帰ることが、前より少なくなった。以前は柔道部を終えた後、渉と合流して帰ることが多かったのに。
距離ができてしまったのは、ちょうど、千里がいなくなってから――
嫌なことが浮かんでは、心の溝へと溜まっていく。千里の行方不明も、芽亜凛の怪我も、笠部先生の自殺も。そして、連日の朝霧修の無断欠席も。全部、全部――凛はわかっていた。
今日渉が保健室に運ばれたのは、もしかしたら――自分のせいかもしれない。
「何考えてんだろ、私……」
誰もいない廊下で独り言を呟き、凛は職員室のほうへと向かった。
――こんなことを話せる相手、一人しかいない。
その一人の人物は、石橋先生と廊下で話し込んでいた。
「芽亜凛ちゃん、ごめんね、おまたせ」
「おかえり」
芽亜凛は軽快に振り向いて、ふわりと微笑んだ。胸の前には丸めた紙の束を抱えている。凛がそれを見つめていると、石橋先生が「テストの結果だ」と言った。
「おおー。中間テストのやつですよね?」
もう受け取ったんだなと思い、凛は感嘆の声を上げる。
部活動終了まで芽亜凛と一緒にいたが、中間テストの結果を取りに職員室前で一旦別れていた。彼女はつい先日一人でテストを受けたばかりである。なのに、もう再来週には期末テストが控えているなんて。凛が同じ立場だったらうんざりするだろうし、後受けの中間テスト自体断っているかもしれない。
しかし芽亜凛は違っていた。嫌な顔せず、すべてをこなしていくのだ。
そんな芽亜凛の姿は、凛の瞳に輝いて映った。
石橋先生は頷いて、「不正解はなかった、と話していたんだ」
その言葉に、凛はきょとんとする。
「それって……オール百点ってこと?」
「そうだ」
「えええ!?」
あっさりと肯定してみせた先生に、凛は驚きが隠せない。半ば冗談で尋ねたのに、本当にオール百点――!?
途端、凛は自分のことのように嬉しくなった。
「ほ、本当に!? 芽亜凛ちゃん、すごっ!」
「うちのクラスじゃはじめてのことだ」と言う石橋先生もどこか嬉しそうである。
「だが、もうすぐ期末テストが控えているからな。気は抜かずに」
「はい」
芽亜凛は頷いて、「あの、先生」と声の雰囲気を低温度に切り替えた。
凛は喜ぶ気持ちを抑え、静かに二人の様子を見守る。
「呪い人はない――でも呪いはある……って、どういう意味でしょうか」
(――!)
意外過ぎる問いに、凛は目を見開いた。
芽亜凛の顔つきは至って平常。いつもの柔らかい表情のままである。
「そのままの意味だ。そういう生徒がいるかもしれない、が……そいつは隠しているかもしれない。俺はその生徒のSOSを、ただ待つことしかできないのさ」
石橋は表情を引き締めて答えた。
「SOSを出したら、先生は何かしてくれるんですか?」
「どうにかしてやる」
捨て台詞のような言葉を最後に、石橋先生は去っていった。
「帰ろうか」と昇降口へ足を向けた凛は、歩きながら芽亜凛に尋ねる。
「さっきのって会議の時の……?」
「……うん。ちょっと気になって」
凛は「ふぅん……」と鼻で相槌を打つ。クラス会議の時の石橋の発言は、確かに妙だった。
『呪い人、などというものはない』
『だが、もしかしたら呪いはあるのかもしれない』
凛は頭をひねらせる。
「石橋先生っていまいち思考が読み取れないよねぇ。なんであんな遠回しな言い方するんだろう……」
「先生にもいろいろあるのよ、きっとね」
芽亜凛は大人っぽい穏やかな返しをする。
会議中の言葉がどういう意味だったのかは、凛にもよくわからなかったことだ。しかしそれを芽亜凛が訊いてみせるだなんて思ってもみなかった。会議中の芽亜凛は酷く冷めているみたいで、凛から見ても、興味があるようには見えなかったのだ。
凛は「そうだね」と返しながら下駄箱を開けて、停止した。
「梅雨明けはまだ先みたいだけど、今日は雨じゃなくてよかったよね。飲み物でも買ってから、……凛?」
下駄箱を見て固まっている少女に、芽亜凛は声をかける。
「どうかした……?」
一歩踏み出した芽亜凛の気配を感じて、凛は蓋に手をやり下駄箱のなかを隠した。
「……っなんでもないよ!」
笑って言ったつもりだが、どうだろうか。表情は下手くそに強張っていたかもしれない……。
芽亜凛は不思議そうな顔をしたが、それ以上の追及はしなかった。
凛の下駄箱の中身。愛用のスニーカーの上には、ふたつ折りの紙切れが置かれていた。赤いマジックペンのようなもので書かれた文字が、折られた隙間から見えている。
凛は意を決して紙切れを取り、恐る恐る開いた。
視界に映るその文字は血のように赤く、ただ一言。
死ね――とだけ、書かれていた。
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