第八話

二人だけの早朝推理

 目を開けると、木製の天井が広がっていた。明かりの灯っていない四角形の和風照明が、冷えた温度でぶら下がっている。

 上を向いていた頭をがくんと落として前を見た。正面には人が立っていた。こちらに背を向けている、藤ヶ咲ふじがさき北高校の制服を着た女の子。髪は長く、腰の辺りまである。

 鈍く光るものが視界に映った。それが少女の手にしている包丁と理解するのに、そう時間はかからなかった。

 少女は悠然と、包丁を持っている腕を上げて、刃先が首に向くように肩へと置く。

 包丁の平に頬を付けるようにして、少女がこちらを見た。顔は見えない、けれど、サイレントの視界で言葉を発している。

 口を閉ざし、振り向くのをやめた少女は、包丁を滑らして、己の、白い、首を――


「っ!」


 望月もちづきわたるは目を覚ました。

 自室のベッドの上。柔らかなタオルケットに包まれながら、現実に戻ったことを感じ取る。視界には見慣れた天井が広がっており、渉は瞬きを数回してやおらに身体を起こした。どっと息を吐いて、額に手をやる。汗をかいていた。


「夢……」


 またあの夢か、と心のなかで疲弊する。

 金曜日に保健室で見た夢とまったく同じ内容の夢だった。土曜日の朝も、日曜日の朝も、この夢を見て起きた。そして、月曜日の今日で四度目となる。

 夢には現代の科学でも証明しきれない、不確かな部分が多くある。夢そのものはオカルトとは異なるものなのだ。だから余計に、参ってしまう。

 渉は、寝汗、冷や汗――それらをタオルで拭って着替えることにした。着るのはカッターシャツではなく、ジャージ素材のランニングウェア。脱ぎ終わったものを洗面所の洗濯カゴに入れて顔を洗う。誰もいないまだ明かりの灯っていないリビングで時計を確認すると、時刻は午前四時五十分だった。


 渉は玄関でランニングシューズを履いた。余計なものは持たない主義だ。手ぶらのままで外へと出る。空は白く明るく、幸いにも梅雨の雨は降っていなかった。

 霞がかった太陽に目をやって、早朝の空気を大きく吸い込む。軽くストレッチをしようと膝を伸ばして、小さな足音を聞き取った。

 家のすぐ脇の曲がり角から近づく足音に、渉は顔だけ向けて、「へっ?」と声を漏らした。

 目が合った少女もまた、驚いた顔でこちらを見た。


「あ……」

りん


 おはよう、と挨拶を交わす凛の腰にはリードが垂れている。その足元にはふさふさの毛並みの犬が一匹、リードと繋がっている。

 凛は意外そうな顔をしながら、愛犬と一緒に向かってきた。


「どうしたの? 珍しいね」

「んー、うん。気分転換にジョギング。そっちは――ニノの散歩?」

「兼ジョギングです」


 そっか、と渉は口にする。凛も動きやすそうなスポーツ服を着ているので、そうだろうとは思った。

 ニノマエが尻尾をビコビコと振るので、渉は腰を曲げて、顔と頭を撫でてやった。凛の家で飼われている愛犬の名前である。柴犬のような見た目をしているが雑種の中型犬だ。

 二人と一匹は道に出て、並んで走り出した。凛の斜め後ろを付いてくる愛犬ニノマエは、久しぶりの渉とのジョギングで嬉しそうである。ニノマエの名前の由来は、当時凛と凛の姉がハマっていた刑事ドラマに出てくる人物から取ったものらしい。渉は観ていなかったので詳しくは知らないが、有名な男性俳優が演じているらしかった。――だがこのニノマエは雌である。


「体調はー、どう?」信号機のない住宅街を走りながら、凛が訊いた。

「お陰様で良好……だけど――」

「だけど?」

「最近、変な夢を見る」


 凛は興味ありげに顔を上げて、「どんな夢?」と尋ねた。渉は、今朝見た夢の内容を洗いざらい話した。先日保健室で見て以来連日見ている、とも告げる。


「四日間連続……毎日見るなんて、確かに変だね。夢の内容も、嫌な感じ……」

「悪夢ってやつなんだろうけど、体調はいいんだ。ただ、気分は悪い」

「んー、そうだね……寝方を変えてみるといいって聞くよ。枕を替えてみたり、好きな香りを嗅ぐとか」


 好きな香り――


(ううーん……)


 ピンと来ない。渉が浮かぶものと言えば、運動後にタオルに顔をうずめる瞬間のあの匂い。柔軟剤の香りと、柔らかなタオルの感触。それくらいしか思い浮かばない。


「デジャヴとかはない?」

「デジャヴ?」


 渉が訊き返すと、凛は「うん」と頷いた。


「どっかで見たことがあるようなーっていう光景。例えば、夢に出てくる女の子が、実は知ってる子だったりしてね」

「さあ……どうだろうな」

「または未来予知」

「あんなの起きてほしくない」


 渉は露骨に顔を歪めた。目の前で人が、しかも自殺するなんてごめんだ。

 凛は渉から顔を背けて、「渉くんの疲労はさ、きっと、私のせいだね」と、眩しいものを見るかのように目を細めた。

 渉はハッと目を丸くした。――私のせい?


「……なんで?」


 リズミカルに動いていた脚は段々と鈍くなった。凛も同じようにエンジンを切らすが、こちらを見ようとはしない。

 数歩歩いて、二人は立ち止まった。


「ほら、会議の時……庇ってくれたじゃない」

「あれは……言いたいことを言っただけだよ。別に凛のせいじゃないし」

「でもっ、私……」


 強く声を上げながら、凛は振り向いた。眉間にしわを寄せ、泣きそうな顔をしている。


「私、呪い人かもしれないんだよ。渉くんが私と仲いいから、だから、きっと……」

「俺の体調不良をオカルトもどきのせいにするな」


 渉は顔をムッとしかめて言った。


「オカルトもどき……?」

たちばな芽亜凛めありが言ってた」


 先週、E組のクラス会議で芽亜凛が言っていた言葉。オカルトもどき――芽亜凛はそう、はっきりと主張していた。


「……よく覚えてるね」


 凛の表情にはまた別の感情が浮かんでいる。何だか渉本人を疑っているようなジト目である。渉はその本意がわからず、ただ思っていることを率直に口にする。


「あいつのこと信じてるなら、その言葉、信じてやれよ」

「渉くん……じゃあ芽亜凛ちゃんの疑いは晴れたんだ?」

「いや? さらに濃くなった」

「なんで……!?」と純粋に驚いてみせる凛。


 いい顔になってきたところで、渉は凛のほうに歩み寄る。


「話すけど……怒るなよ?」


 渉が言うと凛はうんうんと頷いた。

 散歩兼ジョギングのお預けを食らったまま、足元に伏せていたニノマエが退屈そうだったので、渉と凛はゆっくりと歩を進める。


「俺も一連の事件が、オカルトじゃないってことには賛成だ。どうにも納得がいかない。まるで誰かを呪い人にしているみたいだ」

「誰かって?」

「……俺か、凛か、橘かな。目的はわからん。そんなことして何のメリットがあるのか。だけど、ただ頭のおかしな奴の犯行とも思えない。何か目的があるはずだ」

「……呪い人の復活」


 聞き覚えのある言葉を口にした凛に、渉は目を見開いた。それはオカルト雑誌ムイチに載っていた――


「私もあれ、読んだんだ。オカルト雑誌。渉くんも教室で見たんでしょ?」

「――っ、うん……読んだ。最悪な、記事だった」

「誰が教室に置いたか知らないけど、たぶん私、朝一番に読んだよ」


 凛は痛々しい笑みを浮かべる。


(――そうだったのか)


 三城さんじょうらと教室でオカルト雑誌を見ていた時も、凛には全部悟られていたのだ。必死に隠そうとしていたけれど、凛のほうが先に受け止めていたなんて、気づかなかった。

 あの雑誌を見ていたのなら、もう凛に対して、どこまで知っているんだという疑問はなくなったも同然である。

 あの雑誌には――全部書いてある。

「それで」と凛は話を戻す。


「意図的に仕組まれたものだから、呪い人なんてない……ってこと?」

「まあ、そうなる」

「だけどそれじゃあ……止めなきゃ、――あるのと同じだよ」


 凛は考え考え、言葉を紡ぎ出す。その瞳の奥にいる渉も、力強く首肯した。

 ――そのとおりだ。


「誰かが止めなきゃならない。それを……橘が何か、知っているはずだ」

「芽亜凛ちゃんが?」

「あいつは伝承のことをオカルトもどきだと断言した。そう言える何かを知っているんだ。これが人の手によって作られた『偽物』だってな」

「でも芽亜凛ちゃん、結構オカルトに興味あり気だったよ?」

「へ……?」


 間の抜けた声を最後に、渉と凛は沈黙し合う。

 芽亜凛は呪い人についての何かを知っている――そう渉は自信を持っていた。己のなかで確信していた。

 彼女には何かある。目的、秘密。人には言えない重大なことが――

 みなが恐れるそれを、会議でも『オカルトもどき』と揶揄してみせたのだ。

 それなのに、いや、そんなことは――


「……本当に?」

「少なくとも渉くんよりは詳しい自信あるよ、芽亜凛ちゃんのこと」

「ど、どんなふうに興味持ってた?」


 凛は宙を見て『んー……』と思案した。ここはしっかりと詳細を聞いておかなければ。


「あまり陰で言いたくないけど……芽亜凛ちゃんには内緒だよ――? 石橋いしばし先生の発言に、疑問を抱いてたみたい。呪い人なんてものはない、けど呪いはあるのかもしれない――ってやつ」


 渉は「あれか……」と呟いた。

 確かに意味深ではあるし、同時に意味不明な発言とも取れる。クラスのほとんどは取り立ててよく考えちゃいないだろう、と渉は思っていたのだが。芽亜凛が注目していたとは意外だ。


「渉くんはどう思う? 石橋先生の発言」

「……石橋は狂言を言うタイプじゃないよな。呪いってのが何を指すのかによるが……呪い人、つまり死を振り撒く呪いじみた存在はない。代わりに、『呪い』と比喩できる何かがある、とか……?」


 不安ながらも考えを述べてみると、凛は「おおー」と感嘆の声を上げた。


「先生は、そういう生徒がいるかもしれないって言ってたよ」


 石橋のそんな発言を会議で耳にした覚えはない。なので、芽亜凛が尋ねた時に石橋がそう返したのだろう、と渉は予想する。

 渉は鼻で笑った。


「オカルトもどきとは別に、別のオカルト効果を持った生徒が存在するって? ……どういう生徒だよ」

「でも芽亜凛ちゃんは、その生徒のことが気になってたみたい」

「ふーん……?」


 渉はその場にいたわけではないので、断片的に推理するしかないのだが、少なくとも役に立つ情報とは思えなかった。

 その生徒とやらがどういう役割を持つのか知らないが、オカルティックな存在であることに違いはない。渉の専門外だ。

 生徒と聞いて、ふと思い出した疑問を口にする。


「なあ、橘って響弥きょうやのこと嫌ってるよな」

「そうなの?」

「……」


 同意されるとばかりに思っていた渉は、凛の天然な返しに思わず黙りこくった。ジョギングコースの折り返し地点を沈黙のまま通過して、渉は表情をなくしたまま唸る。ううーん……。


「……俺より詳しいんじゃなかったのか?」

「響弥くんのことは渉くんのほうが詳しいじゃん。で、嫌われてるの? 響弥くん」

「うん……なんであんなに響弥を嫌ってるのか、よくわからなくて。凛なら何か聞いてるんじゃないかと思ってさ」

「うん、聞いてないね」


(そうですか……)


 芽亜凛は渉以外の前では響弥を嫌っている素振りを見せていないということか。いや、ただ単に凛が鈍感で気づいていないだけかもしれないが。

 あっけらかんと答えた凛はいつもの調子に戻っている。そんな彼女の様子を見て、渉は安堵を覚えた。


「そういや、響弥くんってあれからずっと包帯巻いてるけど、まだ痛めてるの?」

「ああ……?」


 響弥が両手に巻いているあの包帯のことである。


「いいや、あれは橘に手当してもらったらしくて……それでもう一生外さないって言ってたな」


 体育の事故があった日以来、響弥はずっと両手に包帯を巻き続けている。いまだに巻いているなんて、どこまで本気なのやら。


「芽亜凛ちゃんが響弥くんのこと嫌ってるなら、どうして手当なんてするの?」


「えっ」と、渉は反射的に声を上げた。――確かに、それは……。

 思考がぼんやりと、遠くに持っていかれる。


「……言われてみれば、おかしいな……」

「訊いてみようか?」


 やめとけ、と言おうとして、憚られた。

 ゆったり歩いていたはずのニノマエが、急に前へと駆け出したのだ。


「わっ、わ! ニノ!」


 凛は腰に繋がったリードを手に持ち、ニノマエを制しにかかる。

 急ブレーキを施されたニノマエの視線の先には、一匹の黒猫がいた。怖じ気づくことなくこちらを見ている。


「猫だ」

「猫だね」


 渉と凛はそのまんまの感想を口にする。

 猫はしばらくじっと二人と一匹を見つめていたが、悠々と草むらのなかに姿を消した。

 渉はニノマエに近付いてしゃがみ、その頭を優しく撫でる。


「訊くのはやめとけ。……後が怖いよ」


 苦笑いで告げると、凛は了解の意を込めてふんふんと頷いた。

 渉はニノマエのほうに目をやってからそっと立ち上がり、再び凛のほうへと向き直る。


「俺はさ、凛――お前の友達を信用していない。けど、凛のことは信じてる」

「…………うん……」

「俺を信じろとは言わないよ。橘と仲良くするなとも、もう言わない。凛は凛らしくいたらいい」


 渉は、正直な気持ちを口にした。

 橘芽亜凛の干渉で、今まで気まずかったけれど、もう気持ちの隠し事はしない。凛が彼女を選ぶならそれでいい。凛には笑っていてほしいから――

 凛は口をきゅっと結び、力強く首を振った。


「ありがとう……渉くんも、渉くんらしくしていたらいいよ。め、芽亜凛ちゃんのこと傷付けたら怒るけどね! でも……芽亜凛ちゃんへの疑いが晴れるように、ちょっとだけ協力してあげる」


 渉はほくそ笑み「そりゃあ心強いね」と告げた。

 二人は再び、今度は家の方向へとペースを上げて走り出す。


「今日のお弁当のおかず、何か欲しいのある? って言っても、大方作ってはあるんだけど」

「味噌汁が飲みたいな。昨日夕飯になかったんだよ」

「ん、じゃあ入れとくよ。うちのでよければね」


 凛がニシシと笑ったので、渉も「ああ」と言って頷いた。

 このジョギングで凛との距離が戻った気がして、渉は顔を綻ばせる。オカルト雑誌の件には動揺したけれど、土日で体力は回復しきっているし、精神的にも吹っ切れた。


「今何時だろ」

「五時四十五分」


 渉が時刻を言うと、凛はポケットからスマホを取り出して今の時間を確認する。


「わあーお、ぴったし。さすが渉くん、体内時計はバッチリだね」

「慣れてますから」と得意気に言ってみせる。


 そして、今日のお弁当が楽しみだと思いながら。凛と一旦別れて、また合流し、二人で学校へと向かうのだった。

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