志願
詳しい話は、夕方に。そう言って電話を切った萩野の言葉が、頭のなかで螺旋を作る。
全焼、全焼、全焼全焼全焼全焼全焼――
リビングで課題を解いていた芽亜凛は、半ば放心状態でうなだれた。自分だけ時が止まっているかのような錯覚を覚える。今までも、これからも。自分の時だけが止まり続ける。
ペンが手から抜けて、カーペットの上に転がり落ちた。追って視線を下げると、スマホの充電器のコード――首を括りやすそうだと思った――が目に入る。コードに手を伸ばし、触れる寸前で指先を引いた。
――まだだ。まだ、千里がどうなったのかまで知れていない。
芽亜凛はタブレットを取り出し、それらしいニュースを探した。インターネットウェブ検索でヒットしそうな単語を打ち込み、片っ端から調べていく。
『藤ヶ咲北高校 火事』『藤ヶ咲北高校 生徒 火災』『火災 藤ヶ咲市 昨夜』
そうして、一番上に出てきた記事に目を留めた。
『藤ヶ咲市で深夜に火災。住宅全焼』
「……焼け跡からは……三名の遺体が発見された」
芽亜凛は背中を丸めて、嗚咽した。
時計の針は回り続ける。
午後六時を過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。芽亜凛はモニターにいる人物を確認し、「開いているので入ってきてください。入ったら鍵を」
インターホン越しに告げてから、芽亜凛は座椅子に着く。鍵を開けておいたのはそろそろ来る頃合いだろうと見計らってのことだ。
「……よっ」
リビングに顔を出すや、片手を上げて挨拶する萩野。その表情は、浮かない。
「はいこれ、今日の分のコピー」
「体育はどうなりましたか」
差し出された封筒には目もくれず、芽亜凛は虚ろな瞳で尋ねる。
萩野は封筒を胸の前に戻して言う。
「朝、学年集会が開かれて、それで一時限目の体育は潰れた。六日の生物学と入れ替えだって」
六日と言えば木曜日――生物学は四限目に入っている。
それまでにほかのクラスが跳び箱運動を行えば、また運命は変わる。同時に、生物学への注意もなくなるのだろうか。よくも悪くも、予定はドミノ倒しのように崩れていく――
「……そうですか」芽亜凛はぼんやりと答えた。学年集会が開かれるのは大抵朝だ。普通に考えれば、一時限目の体育がなくなったことを意味するとわかるはずなのに、頭が回っていない。
「えっとそれで、集会のことなんだけど……」
「ご家族みんな、亡くなったんですね」
萩野は「うん……」と低い声で呟く。
集会の締めはおそらく、生徒とそのご家族に向けて黙祷。公表の仕方も、おおよそ見当が付く。正式に二年生の保護者へ知らせが回るのは、早くて明日か明後日か。本校の生徒が亡くなったことをメールで、一斉送信――芽亜凛が何度も見てきたことだ。
「私のせい、ですね」
「そんな……!」
芽亜凛が自虐的に言うと、萩野は声を荒げる。
「橘のせいじゃない。それだけは絶対に違う」
「……」
「見てくれ、これ。警察は事故と放火の両方で捜査してる。事故かもしれないんだ。昨日のあれとは関係ない」
萩野はスマホを芽亜凛に見せて指で示す。画面には、午後に芽亜凛が閲覧していた記事が映されていた。
「……たとえ事故だとしても、死んでしまったことに変わりありません」
もしあの人の仕業だとしたら、その計画を阻害した自分に非がある。結果、彼を煽り、焚きつけることになったのだから――と芽亜凛は考えている。
どうしても、自分のせいじゃないという考えを、芽亜凛は持つことができない。
一人が、三人に。
「……また、止められなかった」
「橘……」
「防犯ブザーを投げたところで、何の警告にもならなかった!」
それどころか、もっと酷い事態を招いてしまった。
『あなたの行動はすべて読めています。だから、そんなことは、もうやめて』
そう告げた、あの日の保健室が、瞼の裏で赤く瞬く。
「まだ、言ってませんでしたね」
芽亜凛はうつむいていた顔を上げた。
「私ね、萩野くん。私は……誰かを救おうだなんて思ってないんですよ」
萩野の口がぽかんと開いた。
――誰かを救うために自分で自分を殺せるほど、私は強くない。そんなに、いい人じゃない。仮にもし、救われた人がいたとしても、それは私の意思とはノットイコール。松葉家の火災が本当に事故なら、このまま受け入れようとも思う。
本当に?
「ただ、あの人を止められるのは私しかいないのかなって、そんな自分勝手で私欲まみれの解釈で動いてるんです」
――私だけがあの人の正体を知っている。私だけがあの人を止められる。これは私がやらなきゃいけないこと。この気持ちに名前を付けるなら……。そうだこれは、使命感だ。
「でも、もう、疲れました」
ここまで付き合ってくれて、ありがとう、萩野くん。
今にも分裂しそうな少女はそう言って、ゆらりと立ち上がる。
「……次は学校に行ってみようと思います。不登校をしても、何の意味もなかったから」
芽亜凛は萩野が来る前に準備を済ませておいた、寝室の扉を開ける。「た、橘?」と後ろから声がしたが、背中で扉を閉めて窓際へと向かう。
カーテンレールにぶら下がった充電器のコード。手前には椅子が置かれている。芽亜凛の身長は百六十二センチ。椅子に上るとちょうど首元の高さにコードが来るだろう。蹴ると音を立ててしまうため、椅子は後ろに滑らせるようにして足から離す。
芽亜凛は椅子に片足を乗せた――「橘!」腕を強く掴まれる。
「何しようとしてるんだ橘!」
「……女の子の寝室に無断で入るなんて、萩野くんって……はあ、いえ、あなたはそういう人でしたね」
芽亜凛は「離してください」と腕を振るが、萩野は強く掴んで離さない。
「死ぬなんて駄目だ、自殺なんて絶対に駄目だ! 橘昨日言ってただろ、私の代わりに闘ってほしいって。橘がいなくなったら、俺は何もしてやれない!」
萩野の真一文字の言葉が胸に刺さる。芽亜凛は歯を食いしばった。
「いいんですよ! 萩野くんは、もう十分してくれました。私の代わりになんてもういいんです」
「よくないっ!」
叫ぶように言った萩野に片側の手首を掴まれる。振り向かされる形で背中が窓に押し付けられ、芽亜凛は冷たい熱に身をよじる。
「聞いてくれ橘」
「離してください!」芽亜凛は子供みたいに首を左右に振る。それでも萩野は言葉を繋げる。
「橘が死んだら、俺はすごく嫌な気持ちになる。それって橘が止めようとしてるのと同じ理由だろ?」
「ううう……離して!」
「殺してほしくないから止める、なら俺は、死んでほしくないから止める!」
綺麗事だ。
死んだこともないくせに。傷付いたこともないくせに。
けど今は――当事者じゃないあなたの言葉が私を磔にする。
萩野の言葉は痛くて冷たくて、氷みたいだった。
芽亜凛は肩で息をする。表に出してはならない言葉を抑え込む。
「まだ事故の可能性だってあるんだ、早まるなよ……! ちゃんと、殺されてからにしろ!」
「っ……!」
芽亜凛は弾かれたように瞼を開いた。
――次に殺されるのは誰だ? 生物学教師、
負の感情が渦を巻く。私がどうにかしなくちゃ。私がどうにかしないと、凛が――
「……痛いです、離してください」
抵抗なく本音を口にしても、萩野はまだ拘束を解かない。
「死にませんから、離してください」
そこまで繰り返してようやく、萩野は緩やかに両手を離した。芽亜凛は椅子に座ると、腕と手首についた指の跡をさすりながら大きく息を吐いた。
「わかりました、今は死にません。あなたのいないところで死にます」
「橘……!」
「冗談です。萩野くんが死んだら死にます。私を生かしたいなら、死なないでくださいね」
力の抜けた顔をする萩野は「死なないよ」とため息混じりに言った。
最初から最後まで、冗談ではない。芽亜凛は本気で言っている。それが萩野に正しく伝わったかは定かではないが、探るような視線で芽亜凛を見ていることから、まだ『自殺しない』とは信じてなさそうだ。
芽亜凛は乱れた髪を手で流して整える。
「まずは予定の洗い直しですね。今までにないことが起きているのは事実です。相手の行動も、何か変わってくるかもしれない」
三人が死に、これから犯人がどう動くのか。事故だとしても課題は同じである。
「ああそうだ。俺それで、協力者が必要だと思――」
インターホンが鳴った。芽亜凛は萩野から視線を外し、リビングのほうを見据える。こんな時間に、誰だ?
芽亜凛は萩野以外の訪問者を予定に入れていない。荷物を頼んだ覚えもない。萩野もそれを目で訴えかけている。
リビングに戻って、モニターを確認した芽亜凛は目を疑った。横から覗き込んだ萩野が問う。
「知り合い?」
「……いいえ、知らない人です」
見たこともない、人。
スーツの上から季節外れのモッズコートを羽織った、その人の髪は、白に近い金色。服装に似合わない、悪目立ちする髪色は、星のように輝いている。
重荷に潰されそうな少女を救いに来たのは、たった一人の刑事。
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