表も裏も
教室の窓から校外を眺めて、怪しげな車両がないかを確認する。今日はなぜだか嫌な予感がした。虫の知らせと言うべきか、あの人が校門まで迎えに来ているような、心地の悪い気配が。
――あんまり見てると
この胸騒ぎは金曜日だからするのだろう。休み前だから会いに来るのではないかと。しかし警戒したところで家の前にいる可能性もある。どのみち顔を合わせそうで、いつもなら楽しみな金曜日の帰り際でも憂鬱だ。
東崎は、来週のテストに向けて土日もしっかり勉強するようにと言い、ホームルームを締め括った。やっと解放されたクラスメートは我先にと席を立ち、みな晴れ晴れしく教室を出ていく。
響弥は清水たちに、「俺渉と帰るから先行ってて」と言い残し、E組の教室へと進んだ。大勢で帰ればあの刑事も手出ししてこないのでは? という見込みもあったが、そんな常識が通用するとは思えないし。友人とは言え、警察との関わりは知られるべきではないだろう。
渉となら、仮に出くわしても怖さを軽減できる。話し相手を任せれば喜んでくれるかもしれない。
期待を込めてE組に顔を出すけれど、渉の姿はなかった。思わず「えー……」と落胆する。いないのかよ……もう帰ったのかよ……。
扉の前でがっかりする響弥に、「あ、響弥くん」と、教卓からチョークを補充していた凛が気づいた。
「渉くんなら走って出ていったよ?」
「また新堂か……」
「んー、たぶんね。響弥くんも知ってるんだ?」
「そりゃ最近すれ違ってばっかだったからなぁ。朝霧の次は新堂かよって。どんだけ浮気するんだよ!」
響弥は身振り手振りで突っ込みながら教室に入った。凛はくつくつと笑ってティッシュで指を拭き、教卓の前で日誌に取り掛かる。時間割と授業風景が事細かに書かれたページを見て、響弥は委員長って真面目ぇと他人事のように思った。
「俺の姫も留守かぁ……」
「姫?」
響弥の些細なぼやきにも凛は素早く反応する。別に拾わなくてもいいのになぁと思いながらも、「転校生の
休み時間にたまにE組を覗くと、高確率で凛と昼食を取っていた
しかし意外にも話は広がらず、凛はただ納得した様子で席へと戻った。響弥は違和感を覚え、芽亜凛の話を続けようとしたが、「一緒に帰る?」と言った凛に遮られる。
「いいの? 俺ひとりだけど」
「私も一人だよ」
凛はえへへ、と笑って鞄を手に取る。男女が二人きりで帰るというのにまったくドキドキしないのは、互いが明確な脈なしだとわかっているからか。
響弥は踏み込むならここだと狙いを定めて、「へえ、ちーちゃん忙しい感じ?」と鎌をかけてみた。凛は曖昧そうに首を縦に振る。やはり向こうの状況は把握していないようだ。
「だよなぁ……シャワー出ないのは死活問題よな」
「シャワー?」
「そうそうそう、シャワー」
話をしながら教室を出て、「聞いてない?」と尋ねる。凛は浮かない顔つきで、「うん……まあ」と答えた。
「えーっマジ? 俺余計なこと言った?」
「そんなことないよ」
凛は視線をやや下げ気味にして、響弥の隣を静かに歩く。ここは沈黙するとしよう。変に明るすぎても煽っているように見える。友人の
そうしていると予想通り、凛は「でも、」と自分から話を切り出した。
「なんで言ってくれないのかなぁとか……避けられてるような気はしてるんだよね、なんでだろ」
「確かに、最近一緒にいるとこ見てないな。あの子と一緒にいるよね、あのピンク髪の、めぐっち」
「そうだね……B組にはよく行ってるみたい。私も何度か廊下で見たよ」
だが避けるのはイコール、誰よりも意識しているということ。問題はその信号を送ったのが千里自身かという点だった。
凛にあんなにも寄生していた千里が容易く引き剥がされた。それが小坂めぐみの指示したものなのか、それとも背後で糸を引く別の者がいるのか。響弥は考えあぐねていた。
「めぐっちのとこ行っちゃえば? 私のちーちゃんを返せーって殴り込みに。俺も付き合うぜ。何なら渉も連れて行こうぜ」
冗談半分でグッとサムズアップすると、凛は小さく笑って「桃太郎みたいだね」と肩をすくめた。
「一人お供が足りないタイプの桃太郎?」
「私がキジだよ」
「桃太郎留守なの!?」
神永響弥、懇親のオーバーリアクションに、凛は口元に手を当てて快活に笑った。ようやく心から笑ってくれたような気がした。
「でも私が行くのはお門違いだよ。誰も、ちーちゃんも望んでないだろうし」
「急にマジ回答だ」
「そりゃマジにもなるよ、親友だもん」
このまま凛が小坂めぐみに接触してくれれば響弥の思惑通りに進むのだが。凛はそこまで好戦的ではないし、人の気持ちを考えて動く子だ。
だがそろそろ動きたいのはこちらのほうである。千里が家に帰っていない事実は確認済みだし、どうせ今は小坂の家を借りているのだろう。あとは凛と小坂の間に関係が生まれれば、二人まとめて排除できるのだが、もう少し待つしかないか。
凛は職員室に日誌を届けて再び響弥の隣に並ぶ。
「そういう響弥くんは、渉くんがいなくて寂しくないの?」
「超寂しい」
「だよねぇ、すっかりそのポジ取られちゃってるもんね、朝霧くんに」
「えっ、どのポジ? 親友ポジ!?」
「んー、右腕ポジ?」
「うっわ、言い返せねえやつじゃん!」
鼻をくすぐる微かな桃の香りが心地いい。やっぱり桃太郎は凛がいいと思う。お供は渉と響弥で定員オーバー。朝霧の入る場所など空いていない。響弥は茉結華と一心同体なのだから、合わせて三人分は埋まっている。
「ねえ響弥くん」
凛は諭すような声で優しく微笑んだ。
「私にできることがあったら、何でも言ってね」
明らかな空気の変化に、響弥は「なんで?」と小首を傾げる。もっと凛の話が聞きたいのに、問い返してしまった。ここは適当に相槌を打って流すべきだったか。
凛は「何となくー」と間延びして、
「響弥くんは、いつも人を笑顔にさせてくれるけど、ほんとはもっと弱いところ見せてもいいんだよ。友達でしょ?」
柔らかな布で包み込むように響弥の芯を突いてくる。まるでずっと前からそう思っていたかのような告白に、響弥は表立ってうろたえた。
「……あー、おお……うん、ありがとう」
茉結華なら羽目を外して喜ぶ素振りを見せるだろう。じゃあ何のお願い聞いてもらおっかなーと言って、自分の弱さを隠し通す。だが響弥にそこまでのメンタルはない。気持ちだけ受け取る素振りを見せるのが自然だ。
肩越しの低い位置から凛の視線を感じる。さらなる反応を待っているかのように見上げている。しかし響弥が返せるのは冗談くらいだ。
「カラオケ行く?」
「行かない」
「即答かよ!」
凛は、あははと笑って「テストが終わったらね」と付け足した。響弥は「はーい」と不貞腐れながらも、あの刑事に抱いた疑問を思い出していた。
どうして不用意な優しさを見せるのだろう。何も心配されることはないのに、いらぬ施しで誘惑してくる。
流されるな、騙されるな、頷くな。茉結華ならそう言って響弥を止めるだろう。けれど茉結華は凛の前だとだんまりだ。何も語りかけてこない。阻止しない。響弥に任せたまま、暗闇のなかで顔を伏せ、あぐらをかいている。
靴を履き替えた響弥は思い出したように「裏から出ねえ?」と提案した。凛は響弥の誘いに乗って快くオーケーする。門の前には依然として、嫌な気配が漂っていた。敏感な茉結華なら危険を察知してくれるが、今は役に立たないセンサーとなっている。
響弥は最後まで気を抜かずに裏門へと回り込んだ。駐輪場のあるここは本来、自転車通学の者が立ち寄る場所。響弥も凛も徒歩通学のため、自転車通学の誰かと一緒じゃなければわざわざ寄ったりしない。
当てが外れたようだ。あるいは瞬間移動か? この人ならやりかねない、と響弥は露骨に顔を歪めた。
「響弥くーん」
裏門の前で手を振る、白金髪のネコメが待っていた。
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