いい夢を

 E組のホームルームは、C組よりも十分ほど早く終わった。

 時間の周期は変わらないのに、今日は一日が無限に感じる。疲労は午前中にはピークに達し、頭は早く帰りたいと産声を上げていた。

 姿の見えない攻撃が来週も続くのかと思うと、胃の奥がズキズキとわななく。直接手は出してこないだろうと。だがそれは相手の作戦で、渉は手のひらの上で踊らされていたのだ。

 宮部って奴はそんなにずる賢いのか――兎にも角にも、主導権を握っているのは短絡的馬鹿な宇野ではないだろう。


 渉は、斜め後ろの新堂の席を盗み見た。机に掛かっていた鞄は掃除時間のうちに消え、新堂は帰りのホームルームにも現れなかった。渉を振り切るために一足先に帰ってしまったのか。結局彼と話をしたのは、三限目の保健室でのみ。

 まさかあんなところでサボっているとは知らず、呼ばれたときは渉も驚いたが、それよりも彼の不器用な温かさに素直に困惑した。渉の顔なんて二度と見たくないだろうと勝手に決めつけていたから、あんなふうに気を遣われるとは思ってもみなかった。


 今日はまっすぐ家に帰って土日を勉強に注ごう。本当は朝霧に教わって脳みそをテスト一色にしたいが、今の状態じゃ集中できないだろうし。響弥も一緒なら気が落ち着きそうだけれど、今日は一人になりたい。


 後ろの扉から廊下に出ると、「あ、ちょっと待って」と前方から声がした。

 教室の窓から顔を出し、渉を呼び止めたのは三城さんじょうかえで。普段からクラスを仕切っている三城グループのリーダーが、渉に声をかけるなんて珍しい。

 渉は廊下側から回り込み、「何?」と顔を寄せた。三城は窓枠に頬杖をつき、声を潜めて――


明樹はるき、体育館にいるみたいよ」

「……え」


 瞳孔が、光の加減を排他して開いた。


「掃除終わった後、体育館に入っていくのを見たってチオが――って、ちょっと!」


 三城が言い終わる前に渉は廊下を駆け出した。

 ――何を考えているんだ、新堂!

 どうして体育館なんかに……放課後行く必要があるんだ。部活のやっていない今、誰もいない体育館で、一人で何を……。


「新堂!」


 入り口の段差に躓きながら、渉は転がり込む勢いで体育館に突撃した。忙しなく顔を動かして新堂を探すもコートのなかにはいなくて、渉は横から「あ?」と威嚇されて振り向いた。

 新堂は、入り口脇のベンチに腰掛けていた。


    * * *


 バタバタと近付く足音に何事だと見ていたら、望月渉が飛び込んできた。新堂は眉間のしわを濃くして、闖入者を上から下まで睨みつけた。

 教室から走ってきたようだが、ちっとも疲れていない様子で体育館を見回す渉。安定した呼吸。汗もニキビもひとつとしてない清潔な肌。鞄は肩からずり落ちているし、靴は上履きのままだ。――何しに来たんだこいつ。後ろを見ろ。

 返事がてら場所を教えてやると、渉はきょとんとした顔で新堂を見やり、やおらに口を開いた。


「……えっ……バスケは?」

「するわけねえだろ馬鹿か」

「そっか……」


 まさかとは思うがこいつ、練習していると思って駆けつけてきたのか。本当に……正真正銘の馬鹿だな。


「えっと……何してるの?」

「関係ねえ」

「眺めてるの? 観察? 体育館の空気を吸ってるとか?」


 チッ。新堂は舌打ちを鳴らし、「ほんときめえ。帰れよクソ。うっぜえな」と頭を掻いた。

 今日はそういう気分なんだ。一人で寝て、休んで、寛いで、静かな空間で黄昏れていたい。体育館に訪れたのは本当に気分だった。気分が乗ったとしか言いようがない。

 だが数日前まではありえなかっただろう。放課後体育館に訪れるなど、新堂にとっては久しぶりのことだ。

 ――それもこいつが絡むようになってからか。こいつが俺を少しずつ変えているのか。


「……それ、結構傷付いてる」


 と、渉は掠れた声を漏らした。


「キモいとか、うざいとか言われるの。結構、キテる」


 痛みを表すかのように胸の中心をさすって、ボロボロの笑みを浮かべる。

 新堂はハッと口を開いて「……お前に言われたって、直んねえよ」と目を泳がせた。乱暴に言ってしまうのは癖みたいなもので、言わば挨拶と同じだ。悪い環境にいるうちに、当たり前に身についてしまった悪癖。

 そんなふうに『傷付いている』と告げられたのははじめてだった。言われた側がどんな気持ちでいるのかなんて、考えもしなかった。


「隣いい?」

「…………」


 答えないのを承諾と見なして、渉は新堂の隣に腰を下ろす。以前なら訊かれた瞬間にでも立ち上がり、この場から去っていただろうに。

 渉は鞄から水筒を取り出して「走ったから喉渇いたんだよ」と聞いてもいないことを加えた。そして一口飲んで顔をしかめる。


「腐ってた……」


 底知れない運の悪さを発揮する渉に新堂はため息を抑えきれず、「腹壊すぞ」と口を滑らせていた。渉は顔をしかめたまま「うーん……」と唸る。梅雨の湿気はあれど今日はまだ涼しいほうだし、どの教室にもエアコンが効いているから納得がいかないのだろう。


「新しいの買ってこいよ。ついでに帰れ」

「うん、そうする」


 淀みない返事に虚を衝かれ、胸の深くを冷たい何かが通った。保健室のときのように引き止めたい衝動に駆られて、新堂は渉の顔色を横目で窺う。が、渉は水筒を片付けるだけで帰る様子は見せない。


「変なこと訊いていい?」

「……は?」

「新堂って暴力嫌いだろ」


 突然、鉄の棒で殴られたような衝撃が胸の奥深くに走った。ひゅっと吸った空気が喉の奥に引っかかり、じくりと痛みを訴える。

 新堂は瞠目することで答えていた。


「新堂のお母さんから聞いたよ。自分を庇って守ってくれてたって。それだけじゃない。俺が宮部に殴られたときも新堂すげえ嫌な顔してたし、渡邉わたなべに殴られたときも、新堂は手を出さなかった」

「……」

「ほんとは斬りたくなんかなかったんだろ? いつも振り回してるバタフライナイフも、いざというときのための威嚇用で。あれを持っていれば突っかかってこない、喧嘩をしないで済む、誰も殴らなくていい。こっちが手を出す前に相手のほうから先に逃げ出すからな」


 だから俺に反撃されたときすげえ焦ってただろ、と。

 隙を与えない渉の一息の究明に新堂はゴクリと喉を上下させる。


「お前に何が、」

「わかるよ。新堂が優しい奴だってことくらい。どれだけ見てきたと思ってんだよ」


 断言できるその自信は、根拠は、渉の今までの行動が物語っていた。新堂の敵意を真正面から受けてきた渉だからこそ通じるものである。

 ――すべて、こいつの言う通りだ。


 新堂明樹は、暴力が嫌いだった。この目で見るのも、自分で振るうのも。全部、全部、願い下げである。いつも持ち歩いているバタフライナイフも単なる脅しに過ぎない。頭に来る奴がいても、ちょっとナイフを見せただけで逃げていく。相手を攻撃するためではなく、自分を守るための護身用だった。全部渉の推理通りだ。

 ――まさかこんな奴に、大嫌いなこいつに、見透かされるなんてな。


「お前……嫌にならないのかよ。俺といて、傷付いてるくせに」

「新堂といて嫌にはならないよ。俺に嫌なことしてくる奴はほかにいるし、そいつらにはムカつくけど……新堂を嫌だと思ったことはないかな」


 全身が心臓になったかのように、指先までドクドクと心音を送りつける。なぜそこまで肯定できるんだ。新堂には関わらないほうがいいって、あいつには何を言っても無駄だからって――バスケ部の連中も避け続けるのに。

 どうして自分を犠牲にしてまで、他人の居場所を取り戻そうと必死になれるんだ。


「俺はお前といても楽しくないし、迷惑なだけだ」

「……うん」

「それでもお前は、俺といて楽しいのかよ」


 渉は思案顔で黙り込んだ後、「楽しい……とはまた別かな」と言葉を選んで言った。楽しいと即答されてもムカつくし、楽しくないと言われても腹は立つが。


「楽しくねえなら関わんなよ」

「楽しくないと関わっちゃ駄目なのかよ」


 渉は眉をひそめて身を乗り出し新堂の顔を覗き込む。家族向けのシャンプーの香りが午前中の出来事を思い出させて、新堂は目を逸らした。


「そういうのって、一緒にいたいからいるもんじゃねえの? 楽しいとか嬉しいとかは、後から付いてくるもんじゃねえ?」


 その結果歪んだ方向に舵を切って墨汁まみれになったと言うのに、タフ過ぎる渉の考えに呆れて物も言えない。――と言うかこいつは今、俺と一緒にいたいと言っているのか……?


「まあ……新堂が嫌なら、俺ももうやめるけどさ」

「――は?」


 聞き捨てならない発言に新堂は脊髄反射で言い返した。


「お前まさかテストが終わったらそれでおしまいにする気か?」

「……そうじゃないの?」


 渉のほうこそ驚いた顔で眉をひねる。新堂は顔全体が熱くなるのを感じて頬を引くつかせた。頭に血が上るとは、まさにこのことである。

 ――こいつ……天然なのか本気なのか。ここまで俺を振り回しておいて、用が済んだらポイ捨てかよ。


「へえ……ああ、そう。お前がそういう奴だってことはよぉくわかった」

「……どういう奴?」

「うるっせえよ。とっとと失せろよ」

「怒ってるの? なんで?」


 渉はじりじりと距離を詰めて、決して新堂を視界から離さない。どうやらこいつの得意科目は人を苛立たせることらしい。


「ああ、わかんねえようだから教えてやる。お前がテストに勝って俺をバスケ部に戻そうと、俺が勝ってお前を振り払おうと、お前はもう俺と関わんねえっつったんだ」

「……新堂はそのほうがいいんじゃねえの?」

「…………」


 自分の矛盾した考えに冷や汗が流れる。渉は新堂から離れると言っているのだ。それの何がまずいのだ、何もおかしくないではないか。

 なのに自分はこんなにも動揺して、離れゆく渉に怒りを覚えている。

 ――俺はこいつに……離れてほしくないのか?


 新堂は顔から火が出そうになりながら、「は……離れてほしいに決まってんだろ」と渉を押し退けた。渉は「だよな……」と肩を落として、しゅんと背中を丸める。


「でも俺……一度は新堂に……」


 低く聞き取りづらい声でぼやいたかと思うと、中途半端に言葉を切った。俺に何だよと苛つき隣を見下ろすと、渉は半分下りた瞼を抵抗するかのごとく震わせながら、くらくらと頭を揺らしていた。


「……新、堂に……」


 呂律の回らない舌でそこまで呟き、渉は新堂の肩に寄りかかった。


「は……? おい……おいっ」


 ぐったりと垂れ下がった手足は完全に脱力しきっており、新堂は渉の肩を揺さぶった。渉は一向に起きる気配がなく、深く規則正しい寝息を立てていた。


    * * *


「睡眠薬ね。それも短時間用の超効くやつ」


 保健教諭の猪俣は、透明のコップに入れたお茶を朝霧に見せた。渉の水筒から出されたそれは、少量でも、猪俣の手の揺れに合わせて白い粉を舞わせている。溶け切っていない薬は、ほとんど直接飲まされるのと変わらない量だった。


「彼、自転車通学だったみたいね。これ飲んだ後に乗ってたら……危なかったわね」


 猪俣はコップをデスクに置いてやれやれと首を振る。乗る前でも乗ってる最中でも同じことだ。誰かが事故や妨害を狙って入れたのは間違いない。

「誰がここまで運んだんですか?」と、朝霧はベッドに横たわる渉を注視する。外傷はないが、カッターシャツのサイズがいつもより小さいのが気になった。


「あれよ、あんたと同じ学年の、元バスケ部のじゃりんこ」

「アッシュゴールドの短髪でピアスを着けた男子生徒」

「それそれ」


 正しくは現バスケ部の幽霊部員だが。

 あの新堂明樹が、どういう心境の変化だ。彼は渉を疎んでいたはずだろう。もう飼い慣らされたのか。


「彼にも同じ説明をして、何か心当たりはあるかって訊いたわ。ううんと首を振って出てったけどね」

「僕を呼んだ理由は?」

「名前訊くの忘れたのよ。全校生徒のこと知ってるあんたならこの子のことわかると思って。友達?」

「いえ、でも知り合いです」

「あっそう」


 猪俣は水筒の中身を捨てに流し台に向かった。

 朝霧は渉の首元に顔を近付ける。渉のものとは別の、シャンプーとボディソープの香りがした。このメーカーはここのシャワールームにあるものと同じだ。


「この子昼休みにも保健室来てたのよ。着替え借りた報告をしにわざわざね」

「へえ、着替え……」

「だいぶ顔色悪かったわよ。何かされてんじゃないの? こんなの入れられるくらいなんだから――って何おっぱじめようとしてんの」


 朝霧が渉のカッターシャツをはだけさせているときに猪俣は振り返った。インナーも保健室に常備されている種類と同じである。体操服ならまだしも、制服でインナーまで汚れることは滅多にないと思うが。


「彼らの悪事については調査中ですよ」


 朝霧はボタンを閉めてベッド横の椅子に腰掛けた。渉の身に何があったのかは、掲示板を見ればわかることだろう。ただ新堂明樹の仕業ではないようで、そこは少し残念だ。


「何でもいいけど、知り合いならデートにでも連れて行ってやりな。お友達になれるかもよ」

「来週からテストですよ」

「だから遊んで勉強して土日過ごせって言ってんの」


 猪俣は教師らしからぬことを言ってアイスコーヒーを注いだ。僕にも、と挙手する前に椅子に座ってしまったため、朝霧の分はないらしい。

 まあいいか。渉が目覚めるまでの間、鞄の中身でも物色しよう――としたが、猪俣が睨みを利かせてくるのでこれもできない。仕方ない。大人しくデートプランでも立てるとしよう。

 ここらでメンタルケアも必要らしいからね。


    * * *


 赤みがかる帰路の途中。横断歩道で止まった新堂はスマホを取り出し、しばらく見ないようにしていたグループトークを開いた。

『任務完了』からはじまる最新のやり取りを行なっていたのは、同じクラスのつじ勇利ゆうり宇野うの涼介りょうすけと、B組の宮部りく


『マジでやったの? お疲れ』

『あいつ馬鹿すぎ。私物に油断してるわ』

『何もやらねえのは敢えてだっつーのにな』

『睡眠薬なんてどこで手に入れた?』

『下駄箱に入ってた』

『マジ? お前そんな怪しいモン使ったのかよ。やばすぎ』

『ご丁寧にメモまで貼ってあった』

『睡眠薬ですって?』

『そう。袋にすげえ汚い字で貼ってあって』


 メッセージの下に、辻から写真が送られている。映っているのは、真ん中に『睡眠薬』と文字が書かれたノートの切れ端だった。その下に続くメッセージは、『きも!』『怪しすぎるけどナイスー』『この汚さは誤魔化しだよね』と三人のやり取りが流れている。

 写真の字は、わざと手を震わせて書かないとこうはならないだろう、ミミズのような筆跡だった。

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