黒い水

 正体不明の嫌がらせは翌日になっても続いた。シューズロッカーには紙くずが詰め込まれるし、上履きはゴミ箱に入っていた。席は廊下に堂々と置かれていたし、教室にいるクラスメートは知らんぷりである。

 ……犯行を見ている者もいるはずなのに、誰も止めようとしない。戻そうとしない。


 この犯人の厄介なところは、証拠を残さないところだ。どれもその場で処理できる嫌がらせに留めて、教師の目を掻い潜っている。そして渉が直々に片付けて終わるから、傷付くのも本人だけ……。もしかしたら渉に詰められたときに、逃げ道を作れるようにしているのかもしれない。証拠がないのに決めつけるなと、言い訳は何とでも言える。

 まあ机に落書きをされたり、私物の盗難や破損に見舞われるよりはマシである。直接手を出してこない臆病者なのだから、気分は悪いが怯えることもない。


 しかし三限目の選択科目を迎えて、事態は大きく変わった。

 選択科目は音楽、美術、書道、工芸の四つに分かれた、他クラスとの合同で行われる。渉の選択科目は響弥と同じ音楽だが、今日の合同相手はD組であった。

 教室を出てちょうど目の前を歩いていたD組生に続いて、渉も移動教室をはじめる。音楽室があるのは、渡り廊下を抜けた施設棟三階の一番奥。前を歩く二人組の楽しげな会話を耳にしながら階段を上っていたそのとき。


 頭から、バシャンと黒い水を被った。


「きゃああっ!」と、後ろにいた女子たちが悲鳴を上げる。渉はその場で硬直して、水が目に入らないように手で前髪を流しながら三階を見上げた。手すりの奥に引っ込んだのは、掃除用の青いバケツ。書道でも使われるそれを持っていたのは一人。男子の手のように見えた。


「え!? 何!?」

「大丈夫?」


 立ち込める墨汁のにおいに鼻をつまみながら、みんな急ぎ足で横切っていく。渉は階段を下りて、廊下の手洗い場にうなだれた。誰にも何も言い返せなかった。

 心に空いた大きな穴はミシミシとひびが入って、今にも崩れそうだった。


    * * *


 ――望月渉のことは前々から嫌いだった。

 陰キャのくせに何でも器用にこなすところが。人に頼まれたらすぐにホイホイと受け入れて、便利屋などと呼ばれているところが。あんな奴が他人から感謝されているのが。シュートもろくに打てない素人のくせに、何度もバスケ部に呼ばれているところが。部員ぶっているところが。

 嫌いだ。嫌いだ。大嫌いだ。

 気持ちが悪い。吐き気がする。嫌悪の塊だ。


 そんなあいつがヘラヘラと、バスケ部に戻れなどと抜かしてきた。どの口が言っているんだ。今俺の枠に立っているのはお前だろう。どうせ誰かから頼まれて近付いてきたくせに、偉そうに物を言うな。どうせ本心じゃないんだろう?

 けれども、拒絶しても拒絶しても、ちょこまかと構ってきやがる。こっちの気も知らないで、家まで付いてきやがった。お前は俺の友達か? 違うだろう。勘違いするな。鬱陶しい。


 そしたら今度は、弁当なんて作って来やがった。俺のために。は? 俺のため? 馬鹿なのか? 空気読めよ。なんであいつの作ったもん俺が食べなきゃならねえんだ。ありえないだろ。考えればわかるだろ。言わせんなよ。言わなきゃわかんねえのかよ。

 ああ、クソ、ムカつく。ムカつく、ムカつく、くっそムカつく。

 だからこうなったのも、全部あいつの自業自得だろ。


 また弁当を持ってきたら本物の天才だったが、さすがにそんなことはなかった。あの一件から周りにも避けられているようで、ざまあみろだ。これであいつも懲りただろう、少しは反省すればいい――


 そうやって様子見していた新堂だったが、渉の顔色が昨日からおかしいことに気づいていた。

 一言で言えば、元気がなさすぎる。元々そんなに笑わない奴だと思っていたが、目も虚ろだし表情も死んでいる。笑うことがさらに減ったような、覇気がなくなったような、魂が常に抜けているような……。

 あんな騒動を起こして元気でいるほうが変な話だが、それにしたって程度があるだろう。……少し、怒りすぎたか。弁当を投げてしまったのは、こうでもしないとわからないと思ったからで、傷付けたかったわけじゃない。


 だが二日経っても渉の様子は戻らないし、新堂の元にも来なかった。

 最初は、あいつの自業自得だろと、やっと追い払えて清々していたのに。クラスメートに避けられて、なおも元気をなくしているあいつの表情を見ていると、胸の奥が苛立ちとは似て非なるもやつきを覚えた。

 少なくとも、今まで新堂に接してきた渉は、生き生きとしていた。それが、弁当を捨てただけでまるで別人のようである。いつまで落ち込んでいるつもりだ。らしくない。物足りない……。


 それとも、原因は別にあるのか。騒動が起きる前、『俺に任せろよ』と宮部が言っていたが、まさかあいつらが何かやっているのか?

 だとしても新堂にはどうもできない。それはやはり渉の自業自得だと思うし、新堂の立場でいったい何をどうしろという話である。


(……今日も顔死んでたな)


 新堂は保健室のベッドで横になりながら、ぼんやりと今朝のことを思った。

 鞄を置きに行ったとき一瞥した程度だが、渉は相変わらず包帯の巻かれた手でシャーペンを器用に持ち、テスト勉強をしていた。怒鳴られようと、無視されようと、渉はまだバスケ部に戻すことを諦めていないようである。本気で、テストで新堂に勝つつもりらしい。

 あんな口約束、新堂が一蹴してしまえば終わりなのに、どこまで馬鹿なんだか。


 嫌いな相手のことなど寝る前に考えたくはない。だが、渉の顔は無意識下でも浮かび上がってくる。ここ数日間ずっと付け回されていたんだ。溜まったストレスはすべてあいつのせいだし、一日中イライラしてしまうのもすべて渉が要因である。日常の一部に土足で入り込んでくれたせいで、ペースが完全に乱れてしまった。

 考えれば考えるほど腹が立つが、考えることをやめられない。あいつが変に落ち込み続けているからだ。しつこいって自分で言っていたくせに、あれ嘘だったのかよ。


 新堂は舌打ちをして寝返りを打ち、早く寝ようと瞳を閉じた。忘れろ忘れろ。早く一日よ過ぎろ。今日が終われば後はテスト本番なんだ。それさえ過ぎれば、あいつに悩まされる日々ともおさらばできる。

 そうして眠りに就こうと奮闘しているときに限って、扉が開閉し誰か入ってきた。空気読めねえな、猪俣いのまたか? そう思ったが、椅子に座る気配も化粧臭さも漂ってこない。

 代わりに、絶望の淵にいるような、力ないため息が聞こえてきた。それが渉の声にどこか似ていて、新堂は身体を起こし、カーテンの隙間を覗き見た。


 保健室の中央に佇んでいたのは、見間違いじゃない、本当に渉だった。生気のない横顔で、それも頭から水を垂らしていて――新堂は反射的にカーテンから飛び出た。


「おい!」


 ビクッと肩を跳ねさせて、渉は大きく目を見開く。ぱちぱちと瞬きをして顔を逸らし、扉のほうへ身体を向ける。咄嗟に新堂は渉の腕を掴んだ。掴んだ腕は驚くほど冷たかった。

 つい大声を出してしまったし引き止めてしまったが、かける言葉は続かない。迷った挙げ句、「…………濡れすぎだろ」と、繋ぎ目のよくわからないことを言ってしまった。というか頭だけじゃなく首から下は墨汁のようなものでずぶ濡れだし、カッターシャツは真っ黒だ。頭だけ水で洗って来たのか。

 大丈夫か? 何があったんだ? 嫌がらせされているのか? 聞きたいことはいくらでも浮かんだが、喉より先へは出てこなかった。

 渉はうつむいたまま両腕を強張らせている。まるでチンピラに絡まれて怯える生徒や教師あいつらのように。


(……違うだろ)


 お前は臆せず何度も立ち向かってきただろ。そんな様子、見せるなよ……。


「……別に行かなくていい。早く着替えろよ」


 その言葉に安堵したのか、渉は腕の力を緩ませて、こちらを見やるようにおずおずと頷いた。ひとまず逃げることはやめたようなので新堂も手を離す。

 渉は棚の前に行き、引き出しを開けては閉じるを繰り返した。片手で持っている教科書類も黒ずんで、しわができている。ティッシュで拭いたような跡が残っているが、着替えだけはどうにもならなかったようだ。


「ったく……」


 新堂は渉の前を遮り、タオルの入った引き出しを探し当てて頭に被せた。それから薬品棚の隣の引き出しからカッターシャツを取り出し、「ん」と差し出してやれば、渉は軽く一礼してゆっくりと受け取る。――こいつ……調子狂う。


「なかは?」

「……?」

「インナーだよ」


 渉は筆記用具と教科書を脇に抱えて、カッターシャツのボタンを外した。首周りは洗って後ろ側だけとして、肩や二の腕まで汚れているし、肌着にも染みている。


「お前墨くせえ。シャワー使えよ」


 そう言って今度は新品の下着を渡す。水道で洗うよりシャワーを浴びたほうが早いだろう。それにこのままでは風邪を引くかもしれないし――別に心配などしていないが。自分だったらシャワーを選ぶので勧めただけだ。


「でも、授業遅れる……」

「そんなのサボればいいだろ。もうはじまってるんだし」


 少しは自分の心配しろよなと、また苛ついてしまう。こっちはサボりの常習犯だ。いつもは四階でサボっているが、今日は一人になりたかったから保健室で寝ていた。渉がここにいるのなら新堂は出ていくけれど、真面目なこいつは遅れてでも授業に出るのだろう。

 渉は困った顔で視線を下げる。前髪からぽたりぽたりとしずくが落ち、新堂が雨の日に拾った子犬を彷彿とさせた。


「早く、行けよ。どうせ誰も来ねえよ」


 新堂はタオルをもう一枚出して渉に押し付けると、元いたベッドに戻った。着替えをするもシャワーを浴びるも好きにすればいい。一緒にいて気まずくなるのはお互い様だろうから、これ以上構うことはない。

 やがてシャワー室の扉が開く音がして、水が流れはじめた。新堂は、渉がシャワーを浴びて、着替えをして、保健室を出ていくまでの間、ずっと寝たふりを続けた。

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