第六話
恋する痛み
豆電球のオレンジ色が二重にぼやけてはひとつに戻り、またぼやけてはひとつに定まる。
底のない瞳は見慣れた天井を反射していた。見開かれた両目は瞬きを忘れて乾き、白目は血走って真っ赤だ。
「一睡もできなかった……」
耳元でスマホのアラームが鳴って、
昨日は、遊園地前で凛と別れた。
観覧車を降りてすぐ、
いや、距離を取っていたのは渉のほうか。千里が話題を提供しても、渉は口数少なく相槌を打つだけ。勘の鋭い彼女らは、渉の顔色で状況を読み取り、そっとしておくことを選んだのだ。
凛はこのまま千里の家に帰ると言って、芽亜凛と三人で歩いていった。休日は私服を取りに家にいただけで、学校の教科書類は千里の家に置いたままらしい。千里との間に続いている宿泊に、渉は皮肉にも救われた。
渉は唇も動かせずに、ただバスに揺られながら虚空を見つめていた。凛が隣にいても同じだっただろう。言葉が出てこない。視点が定まらない。気づけば一人で、家に着いていた。
――凛にフラれた。その事実が重くのしかかり、渉の思考を妨げる。
時間を巻き戻せるのなら……遊園地で浮かれていた馬鹿な自分を止めたい。凛に告白する前に戻って、幼馴染の関係を修復したい。傷つく前の自分に戻りたいと、願わずにはいられない。
千里は、百パーセント成功すると言っていた。だが、一番そう思っていたのは渉自身だ。
失敗するビジョンなんて見えなかった。自分は凛とこれからも一緒にいるものだと、自惚れていた。
凛には、一番近くで見てきた幼馴染の自分が相応しいと、心のどこかで思いこんでいたのだ。
――虚無だ。
風呂で頭を洗っている間も、ぼうっと目を開いたままだった。夕飯も食べていない。
身体がベッドと一体化したのははじめての感覚だった。寝転んでいると、自分が地軸になったかのように、ぐるぐると天井が回って見える。そうして気づけば日が昇り、カーテンの向こうでは鳥が朝を告げていた。
渉はしぶしぶ部屋を出て、脱衣所で洗顔し歯を磨く。鏡に映った自分の顔は寝不足そのものだった。目の下に隈ができていて、心なしかやつれて見える。しかし好きな子にフラれて学校を休むだなんて、そんな情けないことはできない。
あんなにも近くにいた凛が、今は遠くにいる。楽しかった遊園地は、最悪の二文字と化して渉の胸に深く刻まれた。現実はまだ受け入れられず、涙も出てこない。心が死んでしまったかのように、空白だ。
渉は誰もいないリビングのテレビをつけた。姉の
今日の天気は曇りのち雨。昨日は一日中晴れ渡っていたのに、まるで渉の気分を表しているようだ。近所では首吊り遺体が発見されたらしく、アナウンサーの声は沈痛なものになっていた。
『亡くなっていたのは
ひとけのない公園で夜な夜な自殺。テレビに映っていたのは、藤北近くの
驚くほど近所のニュースであるにも関わらず、渉は無関心そうに朝食のパンを取り出す。今日も世界は嫌なニュースで溢れている。そう他人事のように流して、しかしいまいち食欲は湧かず、腹に収めたものは一杯の牛乳のみ。
渉は、果奈が起きてくる頃には着替え終わって、先に家を出た。どんなに意識しても、隣の家から幼馴染が出てくることはない。凛は今頃千里の家だ。
虚しくも悲しくも、今一番会いたくない相手と物理的に距離があることは、渉の心の救いになってしまったのだった。
坂折公園の一部はブルーシートで覆われていた。その様子を外から撮影する通行人や学生の姿がちらほらと見える。このあとクラスで話題にする気なのだろう。渉は一切の寄り道をせずに、普段よりも早い時間に学校に着いた。
一番乗りの可能性を信じつつ教室に入るや、「うわ、おっはよー!」と。
親友の
「え、渉早くね? いや俺も人のこと言えねえけど、超やべーニュース飛びこんできたじゃん。いても立ってもいられなくてよぉ! 坂折公園で男の遺体発見。うわぁ……幽霊出そう。なあ?」
響弥は無邪気に笑いかける。予想外の人物のあどけない声が渉の胸にじわりと広がって。いつもどおりの親友の笑顔が、今の渉には眩しすぎた。
渉は机の前で、「だな……」と苦笑いを浮かべる。席を譲ろうとすぐさま響弥は立ち上がるが、渉の視線は机に落ちたまま。
その目に涙の膜が盛りあがっていくのを見て、響弥はぎょっとした。
「え? わ、え? ……どうした?」
「……んでも、ねえよ」
渉の目から大粒の涙がこぼれ出し、響弥はさらに困惑する。
「え、いや、えぇ? だい、じょう、ぶ……?」
おろおろしながら渉の隣に立って、自分のポケットを叩くがハンカチは出てこない。はじめて見る親友の泣き顔に酷く混乱しながらも、響弥は「は、ハグする?」とありったけのジョークを絞り出した。
どちらともなく歩み寄り、渉は親友の肩に額を当てる。一度出た涙は堰を切ったように溢れてきた。
嗚咽を抑えようと必死に声を殺し、口から大きく息を吐いてはスンスンと鼻をすすった。呼吸をしているはずなのに、息苦しさが増していく。心臓の音が大きくなって、鼓動とともに頭がズキズキと痛んだ。
凛が遠く離れていく。凛との思い出が次々と蘇って、ボロボロと端から消えていく。
『ごめんね。渉くんとは、付き合えない』
ゴンドラで聞いた言葉が何度も耳の奥で再生されて、心が押し潰される。
響弥は渉の背中に手を回して優しく撫でた。渉が落ち着くまで、黙って背中をさすり続けた。
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