第六話

恋する痛み

 豆電球のオレンジ色が二重にぼやけてはひとつに戻り、またぼやけてはひとつに定まる。

 底のない瞳は見慣れた天井を反射していた。見開かれた両目は瞬きを忘れて乾き、白目は血走って真っ赤だ。


「一睡もできなかった……」


 耳元でスマホのアラームが鳴って、わたるはゆっくりと起き上がる。スマホに表示された時刻は午前六時半。普段の起床時間だが、今日は学校を休もうかと本気で考えてしまう。


 昨日は、遊園地前で凛と別れた。

 観覧車を降りてすぐ、りん千里ちさと芽亜凛めありに話しかけて土産売り場に向かった。異変を察知したのか、背中を押していたはずの二人は凛にくっついて、渉とは一定の距離を保っていた。

 いや、距離を取っていたのは渉のほうか。千里が話題を提供しても、渉は口数少なく相槌を打つだけ。勘の鋭い彼女らは、渉の顔色で状況を読み取り、そっとしておくことを選んだのだ。


 凛はこのまま千里の家に帰ると言って、芽亜凛と三人で歩いていった。休日は私服を取りに家にいただけで、学校の教科書類は千里の家に置いたままらしい。千里との間に続いている宿泊に、渉は皮肉にも救われた。

 渉は唇も動かせずに、ただバスに揺られながら虚空を見つめていた。凛が隣にいても同じだっただろう。言葉が出てこない。視点が定まらない。気づけば一人で、家に着いていた。


 ――凛にフラれた。その事実が重くのしかかり、渉の思考を妨げる。

 時間を巻き戻せるのなら……遊園地で浮かれていた馬鹿な自分を止めたい。凛に告白する前に戻って、幼馴染の関係を修復したい。傷つく前の自分に戻りたいと、願わずにはいられない。

 千里は、百パーセント成功すると言っていた。だが、一番そう思っていたのは渉自身だ。

 失敗するビジョンなんて見えなかった。自分は凛とこれからも一緒にいるものだと、自惚れていた。

 凛には、一番近くで見てきた幼馴染の自分が相応しいと、心のどこかで思いこんでいたのだ。


 ――虚無だ。

 風呂で頭を洗っている間も、ぼうっと目を開いたままだった。夕飯も食べていない。

 身体がベッドと一体化したのははじめての感覚だった。寝転んでいると、自分が地軸になったかのように、ぐるぐると天井が回って見える。そうして気づけば日が昇り、カーテンの向こうでは鳥が朝を告げていた。

 渉はしぶしぶ部屋を出て、脱衣所で洗顔し歯を磨く。鏡に映った自分の顔は寝不足そのものだった。目の下に隈ができていて、心なしかやつれて見える。しかし好きな子にフラれて学校を休むだなんて、そんな情けないことはできない。


 あんなにも近くにいた凛が、今は遠くにいる。楽しかった遊園地は、最悪の二文字と化して渉の胸に深く刻まれた。現実はまだ受け入れられず、涙も出てこない。心が死んでしまったかのように、空白だ。

 渉は誰もいないリビングのテレビをつけた。姉の果奈かなはまだ寝ているし、母は夜勤で留守だ。人の声を聞いても気は紛れないし、ニュースを見ても頭に入ってこないけれど、それでもないよりはマシである。

 今日の天気は曇りのち雨。昨日は一日中晴れ渡っていたのに、まるで渉の気分を表しているようだ。近所では首吊り遺体が発見されたらしく、アナウンサーの声は沈痛なものになっていた。


『亡くなっていたのは井畑いばた芳則よしのりさん、三十四歳。昨夜、公園内の木にネクタイで首を吊っている状態で発見されたようです。井畑さんはオカルト雑誌ムイチの記者で、編集部からは悲しみの声が多く寄せられています。また、スマホからは遺書のようなものが見つかっており、警察は自殺と見て捜査を進めているようです』


 ひとけのない公園で夜な夜な自殺。テレビに映っていたのは、藤北近くの坂折さかおり公園だった。

 驚くほど近所のニュースであるにも関わらず、渉は無関心そうに朝食のパンを取り出す。今日も世界は嫌なニュースで溢れている。そう他人事のように流して、しかしいまいち食欲は湧かず、腹に収めたものは一杯の牛乳のみ。


 渉は、果奈が起きてくる頃には着替え終わって、先に家を出た。どんなに意識しても、隣の家から幼馴染が出てくることはない。凛は今頃千里の家だ。

 虚しくも悲しくも、今一番会いたくない相手と物理的に距離があることは、渉の心の救いになってしまったのだった。




 坂折公園の一部はブルーシートで覆われていた。その様子を外から撮影する通行人や学生の姿がちらほらと見える。このあとクラスで話題にする気なのだろう。渉は一切の寄り道をせずに、普段よりも早い時間に学校に着いた。

 一番乗りの可能性を信じつつ教室に入るや、「うわ、おっはよー!」と。

 親友の神永かみなが響弥きょうやが、渉の席から手を振った。


「え、渉早くね? いや俺も人のこと言えねえけど、超やべーニュース飛びこんできたじゃん。いても立ってもいられなくてよぉ! 坂折公園で男の遺体発見。うわぁ……幽霊出そう。なあ?」


 響弥は無邪気に笑いかける。予想外の人物のあどけない声が渉の胸にじわりと広がって。いつもどおりの親友の笑顔が、今の渉には眩しすぎた。

 渉は机の前で、「だな……」と苦笑いを浮かべる。席を譲ろうとすぐさま響弥は立ち上がるが、渉の視線は机に落ちたまま。

 その目に涙の膜が盛りあがっていくのを見て、響弥はぎょっとした。


「え? わ、え? ……どうした?」

「……んでも、ねえよ」


 渉の目から大粒の涙がこぼれ出し、響弥はさらに困惑する。


「え、いや、えぇ? だい、じょう、ぶ……?」


 おろおろしながら渉の隣に立って、自分のポケットを叩くがハンカチは出てこない。はじめて見る親友の泣き顔に酷く混乱しながらも、響弥は「は、ハグする?」とありったけのジョークを絞り出した。

 どちらともなく歩み寄り、渉は親友の肩に額を当てる。一度出た涙は堰を切ったように溢れてきた。


 嗚咽を抑えようと必死に声を殺し、口から大きく息を吐いてはスンスンと鼻をすすった。呼吸をしているはずなのに、息苦しさが増していく。心臓の音が大きくなって、鼓動とともに頭がズキズキと痛んだ。

 凛が遠く離れていく。凛との思い出が次々と蘇って、ボロボロと端から消えていく。


『ごめんね。渉くんとは、付き合えない』


 ゴンドラで聞いた言葉が何度も耳の奥で再生されて、心が押し潰される。

 響弥は渉の背中に手を回して優しく撫でた。渉が落ち着くまで、黙って背中をさすり続けた。

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