迷い藻掻いて泡を食う

「ワタ公! 大丈夫か?」


 ガラリと勢いよく保健室のドアが開け放たれ、腰をさすっていた渉はぎょっとする。猪俣いのまた先生に手当してもらって、帰りはどうするかと話していたところに、ヌギ先輩が飛び込んできた。

 四月朔日は、渉の隣に座る凛を二度見すると、「凛ちゃんも!?」と仰天する。どうやら渉のことだけ聞きつけてきたらしい。姉の果奈も知らされていないだろうに、いったいどこから。


「あっ、えへへ……大丈夫です」


 凛は、湿布の貼られたふくらはぎを撫でつつ苦笑する。階段を転げ落ちる際、ほとんど渉に庇われていた凛は、足を打撲する程度で済んだ。

 かく言う渉も、背中を軸に頭部を浮かせていたため大事には至らず。柔道の経験で、自然と受け身を取ることがインプットされているのか、己の防衛本能に助けられた。


「そうか、二人共無事そうじゃの……。階段から落とされた言うて聞いたが、ほんまか?」


 先輩は安堵と不安が入り混じった声で問う。渉は凛に意見を求めようと盗み見た。けれど凛も考えあぐねているようで、うーんと小首を傾げている。


 あのとき――階段上で佇んでいたのは、紛れもなく新堂だ。二人を見下ろして、目線が合うと逃げていった。

 駆けつけた関田は「大丈夫ですか!?」と声を荒らげてしゃがみ込み、誰もいなくなった階段上を睨んで、「新堂くんの仕業ですか……」と呆れたように言った。彼が目撃者であり証言者だ。


 決め手となったのは、凛の背中に付いていた白い足跡。手で押されたのではない。蹴られたのだ。それには凛も同意し、「蹴られたのがはっきりわかった」と先生に伝えた。

 新堂はホームルームの最後に呼び出されて、今は生徒指導室にいるようだ。

 事件を起こしたにも関わらず、彼は律儀にホームルームに出ていた。新堂ならサボりで帰りそうなものなのに。まるで呼び出されるのを覚悟していたような……、渉はそんな違和感を覚えた。

 だがそれを口にしたところで証拠にはならない。新堂じゃないと思いたいのは渉の心理的抵抗であり、言わば現実逃避だ。彼の犯行を否定する材料にはならないし、届かない。


 けれど、何か見落としているような気がする。新堂の犯行を否定する何かを……。それがわかれば、この胸にかかった霧も晴れるのに。

 凛と視線を交わしても答えは出ず、渉は「落ちたのは本当です」と言葉を濁した。


「テストで大変だろうけど、身体に異変を感じたらすぐに病院行きなさいね」


 猪俣先生の言葉に、渉と凛は神妙な面持ちで返事をする。事故の怪我は時間を置いてからが本番だ。今はアドレナリンの分泌で痛みを感じづらくなっているが、明日の朝にはベッドの上でのたうち回っているかもしれない。しばらくは安静にしておいたほうがいいだろう。


 ――新堂があの場にいた理由。そしてあのときの表情……。

 驚きと苦悶に満ちた顔が、悲痛そうな両目が、脳裏に焼き付いて離れない。あの瞬間、深い森のなかで行き止まったような絶望感が渉と新堂を隔てた。

 どうしてあんな顔をして立っていたんだ。やったのが新堂じゃないなら、駆け寄ってくればいいだろう……。

 ――そうしてほしかった。そうであってほしかった。


「で、あんたたち。車で送っていくけどどうすんの?」


 乗るの? 乗らないの? と、猪俣先生は車のキーを指でくるくると回す。凛が送ってもらうというのなら渉も自転車を置いて同乗する気だったが、たくましい幼馴染は「私は大丈夫です」と断った。


「遠慮するなよ」

「渉くんこそ、渉くんのほうが怪我酷いんだから送ってもらえば?」

「俺は自転車あるし」

「置いていけばいいじゃん」

「でも……」

「あんたこないだも送ってったんだから今日も置いていけばいいでしょ」

「――え?」


 凛は猪俣の言葉に素早く反応し「こないだも?」と渉に答えを仰いだ。その目は『いつ? なんで?』と訴えている。

 先週の体育館と睡眠薬の件は、凛にはもちろんのこと、家族やヌギ先輩にも言っていない。いらぬ心配をかけたくなくて、響弥にさえ。

 渉は猪俣先生を一瞥して、「大したことじゃない」と首を振った。猪俣は意外にも空気を読んだらしく、「チャリがパンクしてたのよ。休みにあたしが直した」と凛に説明する。普通に考えればありえない話だが、いつ直ったのかという疑問が生まれる前にカバーしてくれたのだろう。


「熱中症でダウンされても困るから、二人共送っていくわね。いい?」


 猪俣は有無を言わさず二人の鞄を掴むと、「先生、わしもわしも!」と挙手する四月朔日を無視して扉を開けた。


「あたしも暇じゃないの。ただでさえ無断欠席が増えてるんだから」


 先生は最後にそんな文句を告げて保健室を出ていった。


    * * *


『C組の神永響弥が逮捕されたんだって』


 千里、朝霧、渉、小坂めぐみ。誰を連れ去り誰を殺そうとも、今まで彼が学校を休むことはなかった。

 休めば警察が聴取する際、記録からその日の欠席者が優先される。疑う疑わないに問わず、形式的な流れだ。たとえ相手が未成年で、高校生で、無関係な生徒でも。

 だから響弥は今まで休まなかった。平然な顔と態度で毎日学校に来ていた。芽亜凛が吐き気を催すほどに、平然と。

 彼のなかでは、拉致監禁殺人をしているのは茉結華であって、響弥ではない。ふざけるなと言いたいが、彼は本気でそう考え、無関係な生徒として振る舞っていた。


 それ故に。

 芽亜凛は、欠席と逮捕という書き込みを本気で信じた。学校で見かけなかったのは事実だし、逮捕されたから休みだったのか……と。

 朝霧は芽亜凛の反応を見てすべてを察したらしい。「神永くんが、きみの敵なんだね」確信を持って呟き、それでも小坂家に行こうと芽亜凛を導いた。

 バレてしまってもなお、芽亜凛は無反応を貫いた。今さら肯定して何になる。響弥の逮捕に安心するよりも、二人の安否確認が先だ。


 だが、多少なりとも気が緩んでしまったのは事実。それと同時に、足元から力が抜けるような疲労感が、朝霧と別れた後に訪れた。

 このまま何も考えずに眠りたい。二人が無事であるかの結果だけが知りたい。もう恐れるのは嫌だった。不安と恐怖に身を震わせるのも、明日の朝日に胸を締め付けられるのも。


 家に帰り、電気のスイッチに手を伸ばしたそのとき、


「おかえり」


 と、耳元であの人の声がした。


「――っ!」


 心臓がドクンと大きく跳ね上がった。けれども芽亜凛の警戒心が呼び覚まされるよりも早く、背後から口元に布があてがわれる。薬品独特の刺激臭に吐き気が込み上げて、芽亜凛は息を止めた。

 ――どうして。どうして、どうして。逮捕されたはずじゃなかったの!?

 茉結華が耳元で笑ったのが聞こえた。幻聴じゃない。この痛みも苦しみも幻じゃない。現実だ。


 芽亜凛は藻掻きながら両手を回し、彼の片手と胸ぐらを掴んだ。「え、」と小さく呟いた茉結華の焦り声を耳に、全体重を使って背負投を食らわせる。舐めるな。凛に教わった技は健在だ。

 茉結華は「うわ!」と声を上げながらひっくり返った。薄暗い部屋に浮かぶ彼のシルエットにぞっとする。

 何が起こっているのかわからなかった。どうして彼がここにいる? どうして彼が家のなかに? どうして、どうして? 逮捕されたって聞いたのに!


 きっとそのまま、彼の手を押さえていればよかったのだろう。激しく咳き込んだ芽亜凛は、玄関めがけて逃れ出ようとした。

 しかしすぐに起き上がった茉結華に腕を絡め取られ、腰にスタンガンの電流を浴びせられる。

 視界が暗転しかけたところで再び鼻と口を塞がれ、芽亜凛はそのまま意識を失った。嘘と真実の狭間に迷い込んで、二度と覚めない夢を見るように。

 私は何のために、ここまで来たの……? その問いに答える者は誰もいない。

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