灰色に呑まれる
芽亜凛の意識が戻ったとき、最初に見えたのはお面を被った茉結華の顔だった。その後ろには見慣れないコンクリートの天井。取り付けられた照明は、炭化した灰色の光を注いでいる。
「あなたは……」
唇を動かせば、消え入りそうなほど掠れた声が出た。口のなかはパサパサに渇ききり、眠気と吐き気と鈍痛とで頭がぼうっとする。
茉結華は自分の正体を問われたのだと勘違いをし、「誰だっていいじゃん」と投げやりに返した。情報を与えたくないのか。いつもの彼なら自信満々に自己紹介するだろうに。
芽亜凛は、自分の置かれた状況を寝ぼけ眼で整理した。座っているのは鉄の椅子。手首を肘掛けの上に固定され、足首も同様に動かせない。
部屋は冬のように寒く、凍った肉が宙ぶらりんに並ぶ倉庫を思わせた。部屋の一部は真っ黒いビニールカーテンで何重にも仕切られている。その見すぼらしさと光沢は、カラスが突き破ったゴミ袋みたいだった。あそこに、千里と小坂がいるのだろうか……。
「逮捕されたはずじゃ、なかったんですか……」
芽亜凛は先ほどの続きを口にした。茉結華は機械的に首を傾げ、「誰と間違えてるの?」と白を切る。その左手には、刃渡り二十センチをゆうに超えるサバイバルナイフが握られていた。先端が鋭利に尖っていて、まっすぐこちらを向いている。
茉結華は、ナイフを持った手でリズムを刻んでいた。そのたびに切っ先がきらりきらりと輝いて、まるで暗闇を照らす月明かりのように映った。
芽亜凛は眩しそうに目を細めて、彼を見据える。
「二人を……どうしたの」
「二人?」
「千里と小坂さんのことよ」
どうせ仲はバレている。二人から回収したスマホを見れば、芽亜凛とのやり取りも繋がりも簡単に割れてしまう。既読を付けないでトークを覗く方法はあるし、芽亜凛が二人の家を出て自宅に戻ったことも筒抜けだ。
「怖がらないんだね」
「質問に答えて。二人を――」
言い終える前に、茉結華は芽亜凛の首筋めがけてナイフを振った。刃が触れる寸前で、茉結華の挙動はピタリと止まる。刃先は頸動脈を正確に当てていた。
「怖くないのって私は訊いたんだけど、その様子じゃ平気そうだね」
茉結華は顔を近づけて芽亜凛の瞳を覗き込む。
「怖がってほしいんですか」
「別に、そういうわけじゃないけど……」
茉結華は首にナイフを当てたまま、片方の手で芽亜凛の太腿に触れた。芽亜凛は身じろぎひとつせず、ただ眠たげにゆっくりと瞬きする。お面越しの視線が蠢くのを感じた。どうにか芽亜凛の反応を引き出そうとしているのがよくわかる。
だけど芽亜凛にそんな余裕は残されていない。死ぬ恐怖よりも、諦めのほうが勝っているからだ。殺すなら早くして。まだ頭がぼんやりとしている間に。痛みを感じる間もなく、殺してほしい。
瞳を閉じて、ナイフに首を傾けた。刃先がチクリと皮膚を裂き、血が溢れた感触が伝わる。
茉結華は、もたれかかった芽亜凛からナイフを離して遠ざけた。そして、ぱちりと目を開けた芽亜凛の顎をくいと持ち上げて上向きにすると、「まだ殺してないよ」と。
面と唇が触れ合いそうな距離まで顔を寄せ、茉結華は囁くように言った。
「あと一人、足りないからね」
* * *
頭上で教師たちが騒いでいる。
本当にやったのか、どうなんだと、答えを求める担任の
新堂はパイプ椅子に座って、そんな大人たちの争う声を右へ左へと流していた。脳裏に浮かんでいたのは、絶望的に新堂を見上げる渉の顔と、昨日聞かされた言葉だった。
テスト終わりに教室を出て、鞄を取って引き返す。その間際に、廊下の端で渉と委員長が話しているのが見えた。二人は確か幼馴染だったか。自分にそんな存在はいないが、もしいたとしてもあんなふうに仲睦まじく話せないだろうなと新堂は思った。
「だりー。もう帰ろうぜー?」
席で
「えーっ、ホームルーム出んのかよー。……まあいっけどー」
宇野は上目遣いで二人を見て何か言いたげだったが、それ以上は続けずにスマホゲームをはじめた。
あいつは今日も放課後に残るはずだ。苦手科目が外国語なのは知っている。そんな日に限ってあいつの親友が逮捕され、本心は気が気じゃないだろう。テストの出来はどうだったか、ちゃんと集中できたか……。話題には触れずに知りたかった。手を抜かれるのはつまらないからな。
新堂は、まだ廊下にいる渉の姿を一瞥した。カゴを持った教師が近づき、何やら二人に絡んでいる。話し声は教室の喧騒に掻き消されて届かないが、渉の不満そうな顔は見えた。何やってんだあいつ。
そのやり取りを眺めているうちに教師は去っていった。残された渉と委員長はしばらく言い合った後、二人でカゴを持って歩いて行く。パシられたのか。そんなの無視すればいいものを。
二人が死角に消えたとき、斜め前の席で辻が静かに立ち上がった。「おん?」と顔を上げる宇野に、「トイレ」と短く告げて足早に出ていく。
辻は昨日の一件以降、直接話しかけてこなくなった。グループトークにはいるものの、その相槌は全体に向けられたものである。だが新堂に気まずさはなかった。嫌悪も何もなく、むしろ清々した気持ちでいられる。でも辻は――?
不思議と嫌な予感がして、新堂は彼の後を追った。廊下に出たときにはもう姿はなくて、すぐ脇のトイレに行ったのかと安堵した矢先……。
辻は、その先の角から出てきた。新堂を見ると顔を逸らして、隠れるようにトイレを曲がる。瞼を持ち上げて驚いているのが、数メートル先でもわかった。
新堂は小走りで角を曲がり、下り階段に転がるプラスチックのカゴを目にした。赤い辞書がバラバラに散らばっていて、その下に、渉と凛が倒れていた。
一瞬赤い辞書が血のように見えて、明滅する錯覚は新堂の理性をたちまちのうちに奪う。息をするのも忘れて見下ろしていた。足が一歩も前に進まない。渉がぴくりと身体を動かすまで、ずっとそうやって立ち尽くしていた。そして彼と目が合った瞬間、新堂の頭に浮かんだ言葉は『違う』だった。
渉が驚いた顔をするのは当然のことだ。目を見開き、口をぽかんと開けるのも。だけど、新堂が感じたのは困惑と疑いの眼差し。
違う。俺じゃない。俺はやっていない。どうしてそんな目で俺を見るんだ。俺じゃない、俺は知らない。声に出して否定したかったが、すぐ脇を走り抜けた男子に妨げられる。
新堂は身体の向きを変えて走り去った。悔しかった。情けなかった。あんな状況でも駆け寄れない自分の弱さに絶望した。
辻は教室に戻っていて、何食わぬ顔でスマホを触っていた。凛の背中に付いていた白い足跡は彼による仕業だ。彼は凛の背中を蹴り、二人を階段下まで突き落とした……。
『友達だったら応援してやるのが普通じゃねえのかよ』
『駄目なことは駄目って言って、叱ってやるのが友達だろ!』
新堂はどちらもできなかった。辻に一言歩み寄ることも、止めることも。
だからこうして黙っている。なされるがまま、時の流れに身を任せている。
辻も同じように黙ったままだった。ホームルームを終えて新堂が担任に呼ばれたときも、生徒指導室に隔離されている今でも。辻は新堂を助けないし、新堂は辻のことを話さない。
眠くなるほどの時が過ぎ、母親が生徒指導室に到着した。石橋と同じように新堂を問い詰めて、けれども黙秘を承諾とみなしたのだろう。
母親は何度も頭を下げて、何度も教師たちに謝った。
そして最後に、息子の停学処分に同意した。
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