甘い毒

 三年A組の教室からは担任の庭渕にわぶちによる熱い激励が、廊下にまで聞こえていた。明日のテスト予定と対策、その勉強。寄り道せずに帰ることと、睡眠時間の確保……。


 生徒らは、言われなくてもわかってるといった呆れ顔で、しかし表向きは真面目な姿勢を保っている。中身のない話を教師という枠組みから熱弁するのは、さぞ気持ちがいいだろう。三年の特進クラスとなるとその熱量も違う。

 籠尾かごおはこんな長話で生徒らの放課後時間を奪いはしない。教え子に熱くなる気持ちはわかります。けれど優秀な先生ほど、生徒の目には淡白に映るでしょうねと、一年のときに朝霧が婉曲に諭したからだ。


 別クラスの先輩たちが朝霧に気づいて手を振るが、近付こうとはしない。三年A組の前で騒ぐと、庭渕に呼び出されて日が暮れるまで説教される。三年生なら誰もが知っている常識だ。

 もちろん朝霧は承知の上。軽く会釈をして応じると、先輩たちはキャーキャー言いながら階段を下りていく。そんなファンサービスを繰り返すうちに長話も済んで、A組の先輩たちは自由を手に入れた。けれど、


四月朔日わたぬぎくん、おいで」


 庭渕は人差し指で手招きし、クラスで唯一の金髪学生を教卓の前に呼んだ。言葉は柔らかいが、声色は硬い。


「先生が言いたいことはわかるね?」


 四月朔日は反抗的に腕を組み、「や、わからん」


「……前回の中間テストでも、四月朔日がビリだった。その自覚はあるね?」

「別にないのぉ。平均点は超えとるし」

「四月朔日が、A組の平均点を下げている。学年じゃなくて、もっと上を見る必要があるんだ」


 四月朔日はぽりぽりと頭を掻いた。また長い説教が続くのだろうか、朝霧と同じことを考えてそうである。――仕様がない。こちらとて、いつまでもお預けを食らうのはごめんだ。

 朝霧は、「四月朔日せんぱーい」と、極力明るい声を意識して前の扉から顔を出した。あくまで庭渕の姿は見えていないというていで。

 四月朔日は両肩を上げて恐る恐る振り返る。朝霧は、今しがた先生の存在に気づいたように目線を動かし、あっ、と口元に手を当てた。悪びれた様子で頭を下げ、そのまま一歩二歩と後退する。


 庭渕は、来年の三年A組の担任を、籠尾と争っている仲だった。

 籠尾曰く、彼は優秀な生徒を教え子にしたいらしい。ほかならぬ朝霧のことである。いつの間にか気に入られていたのは構わないが、今の担任のままのほうが都合がいいため、籠尾には頑張ってもらいたいところだ。

 で、そんなお望みの生徒が、自分の説教する姿をじっと見ている。居心地が悪くてたまらないだろう。庭渕はばつが悪そうに咳払いをし、「まあ、四月朔日も頑張っているんだね。なら、明日も頑張るように」と早急に締め括った。


 解放された四月朔日は鞄を手にして廊下に出る。口をへの字に曲げて、大変不満そうだ。

「何の用じゃ」と四月朔日は目を細めて朝霧に問う。話が早くて助かる。朝霧は「先輩にご報告が」と言いながら、隣の多目的室に向かった。

 適当に椅子を引いて腰掛ける。四月朔日は閉めた扉にもたれて、腕組みした指を苛立たしげに弾ませた。


「いい知らせと悪い知らせがあります」

「話せ」


 望月果奈とデートの約束でもしているのか。庭渕に小言を言われて苛ついているのか。そんなに僕を嫌っているのか。何を言っても否定されそうなので朝霧は本題に入る。


「新堂明樹はるきが停学になります」

「……は?」


 朝霧はにやりと口角を上げた。


「新堂明樹ですよ、先輩の大嫌いな、バスケ部の幽霊部員」


 四月朔日は一瞬言いかけた言葉を飲み込んで、「何かしたんか?」と続ける。大嫌いなのはお前だとでも言おうとしたのか。朝霧の棘のある言い方が気に障ったらしい。


「クラスメートを階段から突き落として怪我を負わせたそうです。以前にも問題事を起こし、教室中を騒がせたとか。危うく殴り合いになるところだったようですよ」

「なんでそがぁこと……」

「相手のことが気に食わなかったんでしょう。彼は以前から、望月くんを目の敵にしていたようですから」


 全部内通者から聞いた話だ。実際の新堂は手を出さなかったようだが、不良が何を言おうと問題を起こしたことに変わりはない。教師たちも目撃者の証言を信用する。

「は?」と、四月朔日の眉間に深い溝が生まれ、半眼は大きく見開かれる。


「わ、ワタ公が? 階段から、階段から落ちたんか!?」

「落ちたのではなく突き落とされたんです」

「ワタ公の怪我の具合は?」

「幸い、背中を強く打った程度で済んだそうです」


 これが朝霧の言う悪い知らせだった。四月朔日は脱力して頭を垂れ、「……そうか」と深く息を吐き出す。その顔は青ざめていて、視線は左右に揺れて落ち着かない。


「でもよかったですね、新堂が停学になって。先輩も肩の荷が下りたでしょう」

「どがぁな意味じゃ」

「……忘れちゃったのかな」


 朝霧は残念そうに肩をすくめた。


「先輩の悩みをひとつ解消してあげるって言ったじゃないですか」


 困っていたでしょう、新堂明樹に。そう言ってくすくす笑う。

『今日泊めてくれたお礼に、先輩の悩み事をひとつ解消してあげるつもりなんですよ?』

 四月朔日に接触したその日に言ったはずだろう。


「ああいう問題児が一人いるだけでバスケ部の名誉に響く。僕も元バスケ部として、先輩たちが辟易するのを見過ごせなかった。何かお役に立てれば、と考えていたんですよ」

「わしはそがぁなこと……。ちゅうかその言い草、お前がワタ公を利用して新堂を停学に追い込んじゃ言うことか」


 赤点解答だなと、朝霧は嘲笑した。

 新堂の心を逆撫でるのは確かに渉が適任だ。朝霧もそのつもりで渉に頼んだ。

 だが新堂が易々と飼い慣らされたのは意外だった。新堂の周りが勝手にヒートアップして、擁護運動をはじめたのも。


 別にどう転がってもいいのだ。新堂が渉に危害を加えようとも、周りが代わりに動こうとも。粘り強く関わったのは渉自身である。やめられるタイミングはいつでもあった、だが渉はやめなかった。それだけの話である。

 結局は、全部望月渉という存在が起こしたことだ。ほかの人間ならこうはならない。問題があるのは望月渉のほうだ。


「望月くんが関わる前から僕は懸念してましたよ。いつか何かやるんじゃないかって」

「答えになっとらんのぉ。お前が狙って停学にしたんか聞いとるんじゃ」

「狙って問題児の心を操れると? 嬉しいですけどね、過大評価ですよ」


 この先輩はどこまでも朝霧を悪人にしたいらしい。朝霧は脚を組んで、四月朔日の目をじっと見据えた。


「次の評議会で、新堂明樹の退を示唆します」


 僕ができるのはこれくらいですよ、と朝霧は笑みを深める。

 月に数回、生徒会執行部のみが集まって開かれる生徒評議会。生徒が安全な生活を送れるように学校の問題点を挙げて、対策や改善に注力されるものだ。

 そこで新堂の退学処分を勧めるのが、朝霧の狙いであった。停学はその前座であり、朝霧が手を下すまでもない。放っておいても問題を起こすのが連中だろう。遅かれ早かれ、いずれこうなっていた。


「彼が退学になれば、四月朔日先輩も楽になるでしょう?」

「わしの迷惑と新堂の問題は無関係じゃ」


 遠回しに、新堂の退学はあなたのせいだと言っているのだが、四月朔日は素知らぬ顔で朝霧を突っぱねる。何の責任も感じてなさそうなのは少々意外であった。感じる必要もないけれど。

 朝霧はフッと息を吐いて立ち上がる。


「少しでも先輩の役に立てたのなら嬉しいですよ」

「勘違いすな。お前に任せた役などない。言うたはずじゃ、お前に頼むことは何もないと」


 四月朔日は腰に手を当てて正面から朝霧を睨む。瞳の奥で瑠璃色がギラついた。


「朝霧、お前は人の良心に付け込むんが好きじゃのぉ。わしを試そうとしとるんがようわかる。けどな、わしゃぁ不要な責任なんて抱かん。悪い奴に罰が下るんは当然じゃ。じゃけぇわしは新堂を庇わん。停学も退学も、奴に相応しいんじゃったらしゃぁないことじゃ。それが正しい判断ならの」


 朝霧は眉を八の字に下げ、先輩に嫌われて悲しむ後輩を演じる。四月朔日にそこまで見透かされているとは思わなかった。完全に心を閉ざしている人間にはやはり通じないものか。妹と同様である。


「責任転嫁すなよ、朝霧。選ぶんはお前じゃ。わしゃお前のにゃぁ期待せん。せめて人として正しい判断を下せよ」


 四月朔日は回れ右をし、扉に手をかけた。「待ってください」と、朝霧は静かに呼び止める。


「望月くんなら保健室にいると思いますよ」

「言われのぉても行くつもりじゃ」


 最後まで反発して、四月朔日は多目的室を出て行った。言い逃げされたような気分である。朝霧は椅子に座り直し、「残念だな」と天を仰いだ。

 四月朔日の反応は期待外れだったが、問題児は一人始末できた。協力してくれたにもそのうちお礼するとしよう。


 保健室には渉と、もう一人いるはずだ。いや、普段どおりだったら、揃っていたのは三人か。芽亜凛も欠席のようだし、諦めてリセットに走っていなきゃいいけれど。

 本当に、残念に思うよ。

 ――逮捕されてるなんて、使えないね。


    * * *


 推しと恋は似て非なるものだ。好きの感情は同類。だが、振り向かせたいのが恋ならば、応援したいのが推しである。恋は見られたいと見ていたいが共存するが、推しは違う。見ていたいけれど、見られたくはない。

 少なくとも、関田せきた秋彦あきひこはそうだった。恋と憧れは別物。推しは尊ぶべき存在で、そこに入り込む余地はないし、入ってはいけない。

 その一線を踏み越えてしまったら、もう後戻りはできないのだ。


 あれは先月の委員会終わりのことだった。会議室に残り、関田が片付けをしていると、隣の生徒会室から彼がやってきた。

 朝霧しゅう――彼は会議室に入って早々、目についた安浦やすうらに「代わるよ」と言って黒板を消しはじめた。


 クラスで同じ選挙管理委員の安浦は、あたふたしながらお礼を言い、隅で小さくなる。彼女は、「いいよ、先に戻ってて」と彼に言われるまで、関田のことを待っていた。

 安浦はいつも関田と一緒に残ってくれる。それは関田が、執行部のみんなが廊下を通り過ぎるまで会議室にいようとするからだが。

 関田が最後まで残り続ける理由はひとつ。ほかならぬ、彼と会いたくないからだった。


 彼が前を歩いていたら……後ろからやってきたら……そう考えるだけで浮足立つ。隣の生徒会室に彼がいるんだと思うと、緊張で胃が痛くなり、喋るのも困難を伴う。

 だが気づけば、そんな憧れの彼と会議室で二人きりになっていた。それもすぐ隣に並んで、一緒に黒板を消している。関田は、ドクドクと鳴る心音に耳を傾けながら平静を装った。


「関田くんは偉いね」と、朝霧は言った。その意味が関田の頭に染み透るまで時間を要した。


「いつも残って後片付けをしてる。萩野にも見習ってほしいよ」


 朝霧は子供らしくくしゃりと笑って、「萩野には内緒ね」と人差し指を立てる。

 心臓が止まるかと思った。朝霧が自分を見て笑っている。しかも、自分の名前を呼んでくれた。それだけで昇天しそうなほど嬉しかった。

 けれども盛り上がる気持ちを抑え込んで、関田は「……どうも」とぶっきらぼうに返し、紅潮する顔を逸らす。嫌な奴と思われたって構わない。嫌われたっていい。この人の視界に入るくらいなら消えたほうがマシだ。


 朝霧は関田の手の届かない範囲を軽々と消して、最後に黒板クリーナーをかけた。今すぐ逃げたかったけれど、それじゃ角が立ちすぎる。関田は朝霧が先に出てくれるのを願って待った。

 頭のなかはほとんど停止状態だった。「チョーク……」という彼の声が聞こえて、間近に立たれるまでは。

 ぬっと伸びた朝霧の手が触れそうになり、関田は反射的に後ずさった。背中に黒板が当たり、粉受に腰を打ち付ける。関田はずり落ちた眼鏡を掛け直し、「なん、ですか」と訊いた。


「ああ、ごめんね、チョークの粉が付いてたから」


 言うが早いか、朝霧は関田の肩を指先で払う。逃さないとばかりに片手で二の腕を掴まれ、触れられたところが火傷したように熱くなる。嗅いだことのないようないい匂いに包まれ、脳髄を痺れさせる甘美な刺激に息を呑んだ。


「っ、さ……」


 限界に達した関田は無意識に声を上げていた。


「さささ触らないで、ください……っ」


 ハッとして口を押さえたが、一度出た言葉は戻せない。言い訳の言葉も思いつかず、ただうつむいて震える関田を、朝霧はあろうことか視線を合わせようと顔を覗き込み、ニッと唇を吊り上げた。


「顔真っ赤」


 いたずらっ気を含んだ囁きに全身の血が沸騰しそうになる。恥ずかしさに目を潤ませていると、朝霧はふわりと吐息をこぼして腕を離した。

「関田くんにお願いがあるんだ」と、今度は真剣そうな声が降ってくる。関田はまだ顔を上げきれず、中途半端に視線を下げたまま「お願い……?」と問うた。


「二年E組で問題が起きたら僕に報告してほしいんだ」


 関田はまだ夢見心地だったが、朝霧の言葉を正確に拾った。


「さっきの委員会でE組の問題を指摘されてね、萩野たちに無理なら僕が動かなきゃなって、悩んでるところなんだよ」

「……」

「でも僕は部外者だ。やれることなんてたかが知れてる。E組の状況を正しく知るには、正しい目を持つ協力者が必要なんだ」


 ――その役目を僕に……?

 どうして自分なのだろうと関田は疑問を抱いた。当事者である萩野と凛には頼みづらい、それはわかる。けれどなぜ自分なのか。これまで朝霧を避け続けてきた関田は、自分が彼から信用されているとは思えなかった。認知さえ、されていないと思っていた。


「関田くんはE組で、誰よりも頑張っているだろう? 僕は、努力家な人が好きなんだ」

「……努力家……」


 それは、あなたがそうだから――だから僕は、あなたに憧れて努力した。

 中学のときからずっと変わらない。あなたは誰よりも輝いて見えた。勉強も運動も、その努力を笑顔の下に隠して気取らない。関田はそんな朝霧を尊敬していた。


 少しでも彼に近付けるように努力した。髪型も彼を真似して伸ばしはじめた。朝霧のようになれたらどんなに幸せだろうかと羨望した。彼の頑張りと人柄を広めたくて、彼のファンクラブサイトも作った。会員の数はいまだに増え続けている。彼のカリスマ性は本物なんだ。

 ――あなたはずっと、トップを走り続けてくれたらいい。僕はその背中を追いたい。応援したい。彼を追うことに僕は幸せを感じるのだ。


「僕に……できることなら」

「本当? ありがとう……!」


 喜びに満ち溢れた声に胸が締め付けられる。ちらりと目線を上げて見た朝霧は本当に嬉しそうに笑っていた。それだけでもう十分だった。自分の選択に悔いはなかった。

 朝霧は両手で関田の手を取り、ぎゅっと握り込む。心臓が爆発しそうなほど高鳴った。


「関田くんは僕の一番のファンだもんね」


 関田は眼鏡の奥の瞳を震わせた。まるでシャツのなかに氷を入れられたような冷たい感覚が走る。背筋がぞわりと粟立つのに、頬はますます紅潮していく。朝霧の瞳に映った自分は、酷く間抜けな顔をしていた。

 ――この人は、どこまで……。

 どこまで僕のことを知っているのだろう。嫌だ、知られたくない。見ないでくれ。心はそう懇願するのに、朝霧はいとも容易く踏み込んでいく。関田の硬直しきった心を甘い笑顔で溶かしていく。

 身も心も搦め捕られて、一歩も動けなくなった。

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