幸せが崩れ去る音

 テストは他クラス他学年の先生も担当する。号令もなく開始して、終わったら「はい、お疲れ様でした」と独りでに教室を出ていく先生も少なくない。

 現代文のテストを担当した国語科の植田うえだ先生はきっちりやるタイプのようらしく、解答用紙を集め終わると、開始時と同じように正面を向いて合図した。

「起立、……礼!」と萩野の号令がかかる。ありがとうございましたぁ、と気怠い挨拶が交わされ、三科目三時限のテストが終了した。


 教室が嘆息と歓喜の声に包まれる。渉は、右腕の痒みを逃がそうと無意識に包帯をさすった。

 順調に治りつつある手首の傷は、痛みより痒みのほうが増している。包帯が余計に掻痒そうよう感を誘発するが、真っ赤な裂傷を晒すわけにもいかず、おそらくあと一週間はこのままだろう。掻きむしりたい衝動を抑え今日もペンを動かし、時間いっぱいテストと向き合った。


 クラスメートは続々と廊下に出て、鞄を手にして戻ってくる。渉も行こうと席を立った目線の先には、新堂の背中があった。

 みんなが雑談やスマホに夢中の今なら注目されないだろう。そう思い声をかけようと手を伸ばした矢先、横から入ったつじに遮られる。辻は渉に一瞥もくれず、新堂の後ろにぴったりと張り付いていた。

 ――別にいいけど。放課後また話せばいいし。

 不貞腐れたように手を引っ込めて、渉はこのあとの予定を思い浮かべる。テストの調子に、紙飛行機のこと。今日も新堂と二人で話したい。教室に残ってくれるのを前提にして、渉は彼に、以心伝心のようなものを感じていた。


「渉くん」


 と、その声に振り向くと、凛が「お疲れ様」と手を振り微笑む。


「おう、お疲れ」


 幼馴染はニマニマと口角を持ち上げて手招きし、渉の耳元に顔を近付けた。


「新堂くん変わったよね。渉くんのおかげじゃないの?」

「……そう?」


 凛はこくりと頷いて、廊下にいる新堂を横目に見つつ、前の扉から出ようよ、と指をさす。


「全然顔つき違うよ、明るくなったって感じ? 渉くんの気持ち、伝わったのかもね」

「……かもな」


 渉は照れ臭くなって鼻を掻いた。特に何をしたわけでもないけれど、新堂に何らかの変化があったのは昨日の時点で察したことだ。凛や周りの目から見てもそうなのだろう。

 昨日の放課後は、校門前で新堂と別れた。家の方角は似たようなものだけれど、さすがに帰路は異なるし、一緒に帰ることはできないが。

 それでも、並んで隣を歩けたことが嬉しかった。以前までの絶望的な関係が嘘みたいに、今は友好的である。人前じゃ話しかけてこないし、渉もためらってはいるが。


「よかったね」


 そう言ってくれるのは凛くらいだ。新堂の変化を、いいものとして捉えてくれるのは。

 しかし、渉の気持ちはまだ伝えきれていない。新堂をバスケ部に戻すというのは、単なるスイッチのひとつに過ぎず、渉の目的はその先にある。


「……あれ?」


 渉は、凛と一緒にいるからか、気持ちを自然と声に出していた。凛は自分の鞄を手にして「ん?」と振り返る。


「俺、ここに置いたんだけど……」


 藤北ではテストがはじまる前に、スマホや教科書などの私物を鞄に入れて、廊下に並べておくのが鉄則だ。机の横には何も掛けず、中身も空にして受ける。机上には必要最低限の筆記用具のみを出して、ペンケースや消しゴムのカバーなども鞄に入れなければならない。

 その鞄がないのだ。廊下に並べておいた渉の鞄がどこにもない。


「誰かが間違えたとか?」

「そんなわけ……」

「ないよね、みんなスマホをチェックするんだし……」悩んだ凛は閃いたように顔を上げて、「電話かけてあげようか?」と提案する。


 渉は首を横に振った。「電源切ってる」真面目さが裏目に出たと言うべきか。

 もう一度、残っている鞄を確認したが、やはり渉のものはない。こんなことならひと目でわかるように、朝霧から貰った遊園地のキーホルダーを付けておけばよかった。いや、特徴などなくても傷や雰囲気で大体は見分けが付くし、第一場所を覚えていれば問題はないだろう。


 疑いたくはないが――つまるところ、盗まれた可能性、隠された可能性がある。渉が唯一教科書を見に行かなかったのが、ちょうど三限目の前だった。その間に誰かに盗られた? 捨てられた? 凛に言えば心配させてしまうだろうし、一人で探すしかない……。


百井ももいさん、これ運んでくれる?」


 凛と悩んでいると、背後から植田先生に呼び止められた。解答用紙を胸に抱えて出てきた植田は、片手で引きずるように提げていたプラスチックのカゴを凛の足元にどさりと置く。


「えっと……」

「あなたたちずっと持ってたでしょ、使いもしないのに。古いやつだから資料室に入れておいて。お願い」


 植田が集めてきたのは、E組の本棚に並んでいた古い国語辞典の山だった。誰も使わず誰も片付けず放置されていたそれを、テストついでに回収したようだ。

 どうせ同じ階の職員室に行くんだから自分で運べばいいものを。植田は早口に言って、凛の返事も聞かずに階段を下りていった。委員長だからって何でもかんでも押し付けて――人使い荒いんだよな、あの先生。


「俺が持ってくよ」渉はカゴを持ち上げて言う。「結構重いし」


「……軽そうに見えるけど」

「持ってみろよほら」


 女子にはきついぞ、と言いかけたが柔道部のエースには通用しない。凛は何を考えたのか、片側の取っ手だけ持ち、えへへ、と笑う。


「私も職員室行くんだ。半分ずつ持っていこ?」

「…………」

「えっと、何その顔」

「……いや、新婚さんみたいだなと思って」

「……え」


 というのは渉なりのジョークのつもりだったが、凛は目を泳がして口ごもる。


「え、動揺するの?」

「動揺するでしょ、何ヘンなこと言ってんの!」


 凛が取っ手を引っ張るので渉も釣られて前のめりになる。凛があまりにも可愛らしい提案をしたため、らしくもない冗談を言ってしまった。動揺されるとさらに照れてしまう。渉は奥歯を噛み締めて、ニヤけそうになるのを我慢した。


「さっさと運んで鞄探すよ!」


 急かすように歩き出した凛を追って隣に並ぶ。その横顔は少し赤くて、頬がリンゴのようになっていた。渉はつい、ぷふっと吹き出し笑いをしてしまう。


「何笑ってんの」

「いや、別に」

「もう……」


 頬を膨らませると本当にリンゴに見えてくる。渉は、凛がいつもどおりに接してくれるのが嬉しかった。

 凛といると気持ちが楽になる。凛といると、不安も忘れられる。渉が落ち込んでいても、凛は追及することなく普段どおりに応じてくれる、付かず離れずそばにいてくれるから、この距離感が、心地いい。

 ドン――

 階段を下りはじめたとき、

 衝撃はカゴを通して渉にも伝わったけれど、凛の手は一瞬で取っ手から離れていく。まるで渉を巻き込まないように、繋がりを遮断して――

 カゴが斜めに傾く。凛が正面から落ちていく。渉の目が点になる。


「凛――っ!」


 スローモーションの世界で渉は凛の腕を掴んだ。抱き締めるように引き寄せて、身体は重力に従って落ちていく。真っ赤な辞書がバラバラと雪崩れる。

 二人は階段の踊り場まで転げ落ちた。背中が痛くて熱い。渉はすぐに起き上がれなくて、凛を抱き締めたまま動けなかった。


「渉くん……!」

「大丈夫だ」


 凛は? と問おうとした視界の隅で、長いスラックスの脚が見えた。渉はハッとして顔を上げ、目を見開く。

(えっ――)


 階段上で二人を見下ろしていたのは、新堂だった。

 渉と視線を交えると、新堂は眉間にしわを寄せたまま目を泳がし、先ほどの凛よりも険しく動揺をあらわにする。その後ろから救助隊のように走ってきた関田に気づくと、新堂は踵を返して廊下の向こう側に消えていった。


(……そんな、)


 ――そんなはず、ないよな?

 新堂が凛を突き飛ばしたなんて、そんなはずないよな……?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る