キューピッドの苦悩
この先、茉結華はどうやって呪い造りをするのだろう。
芽亜凛は、足元に転がるテニスボールを拾ってカゴに入れた。ネットの向こう側では部員たちがローテーションで回り、ラケットを振りかぶる。パコン、とボールを打つ小気味のいい音がコートに続いた。
テニス部のマネージャーとして部活に参加するのは、顔合わせを除けばはじめてのこと。部員はウォーミングアップを終えて、今はスマッシュの練習中だ。芽亜凛は、任されたコートの球出しを交代するまで、ボール拾いをしていた。
別のコートでは今日も無事に、
さすがに警察にパトロールしてもらうのは叶わないが、茉結華にとって凛は特別。彼女の存在は警察と同じほどの力となる。
笠部は出頭し、井畑という男の逮捕もネコメに聞かされた。千里は現状維持するとして、次の課題は朝霧との遊園地デートである。
その朝霧が凛を誘う日が、今までどおりなら今日このあとだ。彼が武道場に行くのは部活の最中で、声をかけるのは終わってからである。
凛ではなく渉を誘うようにと一応対策はしたけれど、この目で確かめるまでは不安が残る。
「ふっふー。今日も絶好調にゃー」
部員でクラスメートの
岸名は芽亜凛と目が合い、「あ、橘さん」と手を振った。「にゃ?」と気づいた楠野と一緒にこちらに来る。
「部員の名前はもう覚えたかにゃー?」
「うん、大体はもう」
「すっごーい、早いねぇ」
「さやかはいまだに覚えてないのににゃあ」
「英梨ちゃんだってうろ覚えのくせに」
二人のクラスメートはきゃらきゃらとよく笑う。前に嫌がらせをしてきた二人だが、トラブルがなければ普通の明るい女子生徒。表情が豊かで見ていて飽きない。芽亜凛も、立てなくていい角は立てずに振る舞う。
「ねえねえ、あれうちのクラスの子だよね?」
岸名は楠野の肩を叩き、コート外を指さして言った。
「望月なんとかくんだにゃあ」
「どうしたんだろね」
「千里待ちかにゃあ?」
二人の話に首だけで振り返ると、金網の向こう側で渉が女子テニス部を見つめていた。楠野たちは打つ順番となり、慌ててコートを駆けていく。
渉の目線は、千里のいるほうを向いていた。まるで片思い中の乙女のように熱い眼差しで、緑の金網に指をかけている。芽亜凛は小さく吐息をつき、近くの部員に持ち場を離れることを告げて、渉のもとに向かった。
「呼んできましょうか」
「……え、」
「千里です。用があるんですよね、それとも部活が終わるまで待ってますか?」
突如話しかけてきたクラスの転校生に、渉は唖然とする。
「あ、いや……」と口ごもり、「どっちにしろ待ってるつもりだけど……」とぼそぼそ答えた。
芽亜凛は「呼んできます」と踵を返し、千里のもとへ駆けていく。
反対側のコートで練習中の千里は、ちょうど出番を終えたところだった。芽亜凛はベンチからタオルを取り、千里を呼び止めて渡す。
「お疲れ様」
「ありがと芽亜凛ちゃん。テニス部のマネージャー似合ってるねぇ」
首に滲んだ汗を拭き取って、千里はにかにかと微笑む。芽亜凛は微笑み返して、
「実は千里のことを待ってる人がいて……」
「え、ファン? わたしにいないよ?」
「あ、うん、たぶん違うんだけど。E組の望月さんが待ってるの」
芽亜凛の視線を辿って渉を見つけた千里は、「ああ、渉くんかぁ」とタオルで手を振る。渉は目礼して、回りこむようにして走ってきた。
「珍しいね、どしたぁ?」
芽亜凛と千里は金網に寄って事情を問う。渉は「えっと……」と、気まずそうに芽亜凛を一瞥した。
聞かれたくない話かと察して、「じゃあ私はこれで……」と下がりかけた芽亜凛を千里が止める。
「いやいや芽亜凛ちゃんはいていいの。どうせ――り」
り、まで言って千里は咳払いをし、声をひそめる。
「……どうせ、凛ちゃんのことでしょ? 芽亜凛ちゃんにも聞いてもらえば? うちら友達だし」
千里はがっしりと芽亜凛の腕を組んで離さない。彼女とは毎日のようにメールでやり取りをしている。そこにはもちろん凛もいて、どうせこの話もあとあと三人で共有しそうだ。
芽亜凛は少々照れくささを感じながらも頷いて、渉に話を促した。じゃあ、と渉は口を開く。
「凛をさ、遊園地に誘いたいんだけど……」
「え、デート!?」
「声が大きい」
「おっと、こりゃ失敬」
デート? 遊園地に? 渉が凛を誘う? どういうことだと芽亜凛は思った。遊園地って、まさかあの遊園地?
「どうしたらいいと思う?」
「どうしたらって、普通に言えばいいんじゃない?」
「ふ、普通にか……」
渉は困ったように眉根を寄せる。その普通とやらができていたらこんな相談はしないだろう。
だが千里の言いたいことはよくわかる。どうせ両思いなのだから、もっと胸を張って進めばいいのに、と。芽亜凛だって思うのだ、千里も同じように考えているだろう。
と言うか渉は、千里にこんなことまで相談しているのか。信用しているとも言えるし、自分に自信がないとも言える。誰かに背中を押されないと踏み出せないらしい。
「もしかして、チケットとかあるんですか?」
芽亜凛の問いに渉はおずおずと頷き、鞄から二枚のチケットを取り出した。――朝霧が、持っていたものだ。
「マジ? 渉くんやるぅ!」
「いや、貰ったんだよ。だから、一緒にどうかなって」
(貰った……?)
朝霧は渉を誘わなかったのか。しかしコンタクトは果たした。芽亜凛が残したメモによって、声をかけたのは渉のほうからだろう。
――そこでチケットを渡した……二枚とも。何をしているんだあの男は。
「いいじゃん、渡しちゃいなよ。貰ったなら言いやすいじゃん」
ねえ? と千里は芽亜凛を窺う。ええ、と芽亜凛は同意した。
「自信を持って言えばいいと思いますよ」
「うーん……」
ここまで言っても渉の表情は暗い。
「そんなに不安なら付いていってあげよっか」
「うん、来てほしい」
「即答かい!」
終わるまで待ってると言っていたのはこのためか。まるで告白前の男子高校生のような初々しさである。実際に渉の感覚はそれに近いのだろう。
芽亜凛は納得しつつ、不安の原因について率直な疑問を抱く。
「望月さん、そのチケット誰に貰ったんですか」
「え、」
「貰ったのは嘘で、その人のこと誘ったんじゃないんですか」
原因は朝霧修だと踏んで鎌をかける。こう言わないとメモを置いたのが芽亜凛だとバレてしまいそうなので、あえて間違えることでとぼけた。
「え、渉くん不倫!?」
「不倫じゃねえ」
「あ、浮気か」
「浮気でもない」
そう言って、渉はしゅんと肩を落とす。
「貰ったのは本当だよ。いらないからやるってくれて、でもそれじゃ悪いから、一緒に行こうぜって誘ったんだ」
「ほう、相手は男子と見た」
「それで断られたんですか」
渉は唇を尖らせて、うん……と顎を引く。
「友達じゃないからって、断られた」
「ストレート食らっちゃったかぁ」
「うん……」
凛の前に朝霧にフラれた。だからこんなに自信をなくしているのか。
「しかも、何でもないことのように言うんだよ。確かにはじめて話したし、俺も全然知らなかったけど、これから仲良くなっていこうって気はねえのかよ! って思っちゃってさ……」
結果で言うなら、朝霧はチケットだけ渉に押しつけた、と。
……わからない。朝霧が何を考えているのか、まるでわからない。
渉と仲良くなることは彼が望んでいたのではないのか。なぜ今になって遠ざけようとする。芽亜凛の助言が余計だったのか、癪に障ったのか。渉も面倒だが朝霧の行動も、管理できなくて芽亜凛を困らせる。
「そりゃ傷ついたねえ」
「そっか……俺、傷ついてるのか……」
「でもいいじゃん、凛ちゃん誘って告っちゃおうよ」
「――それは駄目」
つい口が滑った芽亜凛の拒絶に、千里と渉は揃って目を丸くする。
渉が告白すれば凛は喜ぶだろう。二人は付き合い、結ばれ、そして茉結華に引き裂かれる……。
それは駄目だ。芽亜凛は誤魔化すようにかぶりを振った。
「望月さん一人では成功するとは思えません。私と千里がバックアップします」
「ば、バックアップ?」
本当は武道場で出す保険のつもりだったが仕方ない。芽亜凛はジャージのポケットから遊園地のチケットを引き抜いた。
「ちょうど同じチケットがあるわ。これで行きましょう」
「なんであるの!?」
「貰いものよ。ちょうどすぐそこのデパートで、ばら撒きキャンペーンが行われてたの」
「芽亜凛ちゃんのポケットは異次元に繋がってるのかな」
言わずもがな大嘘である。
今回は渉と朝霧の予定があったため、先に凛に渡すことはできなかった。その代わりに、もし武道場に彼がいたらこのチケットで無理やりにでも付いていく気だった。朝霧が来ないのなら、ここで出してしまっていいだろう。
「じゃあほんとに四人で行けるんだね、さすが芽亜凛ちゃん」
芽亜凛はできるだけ自然な笑みを心がける。嘘は混じっているけれど、渉と凛の行く末が気になるのは本心だ。
「待て待て、マジでいいの? 四人で、行くの?」
「渉くんが凛ちゃんを誘えたらねー。部活終わるまで待ってる?」
「うん、待ってる」
「よっしゃ、じゃあ終わったら凛ちゃん誘いに行こ!」
千里は爪先でぴょんぴょん跳ねてガッツポーズを取る。凛と遊園地に行けて、二人の仲も見守れる。千里が一番この状況を楽しんでいるのは間違いないだろう。
以前は同じチケットの存在に目くじらを立てた渉だったが、今は凛とのデートで頭がいっぱいみたいだ。疑われずに済んでよかったと、芽亜凛は安堵した。
しかし、またしても二人の仲を取り繕うポジションになるとは。本当に――凛を誘って大丈夫だろうか。
もし渉が凛とくっつけば、あの日の悲劇が繰り返される。今は千里の安全確保を優先しているが、確定されたターゲットのなかには渉もいるのだ。渉と凛。二人の仲が変わらぬよう、少なくとも付き合うなんてことがないよう、注意しなくてはならない。
応援したい気持ちと、守りたい気持ち。どちらを取るべきかは自明の理なのに、どうしてこんなにも悩ましいのだろう。
芽亜凛は、ふっと息を吐いて空を見上げた。雨粒を落とさない曇天は、まるで涙をこらえているようだった。
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