保持者

 解散の挨拶とともに、柔道部の練習は予鈴前に終了する。隣の剣道部はまだ活動中で、気合の入った声を上げていた。

 凛は、知らない人が来て気まずくなる前に着替えてしまおうと、更衣室に急いだ。武道部の女子はただでさえ少ない。柔道部にいたっては凛一人だけである。少ないなりに仲良くする手もあったが、部員同士の絆は固く、凛はほかの武道部の女子と話したことがなかった。


 誰もいない更衣室の電気をつけて柔道着を脱ぎ、くるりと丸めるように畳んで着替え袋に入れる。自分以外に柔道部の女子がいれば、この静寂の空間も少しは賑わうのかもしれない。部員じゃなくても、例えば女子マネージャーがいてくれたら――

 いいなあ、と凛は羨む。今頃、千里と芽亜凛は同じテニス部で活動中だ。

 もし芽亜凛が柔道部に来ていたら、絶対話し相手になっていただろう。そんな幻想を言って彼女を困らすわけにはいかないが、二人でいられるのは単純に羨ましかった。友達と同じ部活だなんて最高だ。

 凛は早く二人に会いたいと思いながら、体操服の下から制汗シートで身体を拭く。コンコン、と扉がノックされたのはそのときだった。


「りーんちゃん」

「ちーちゃん、芽亜凛ちゃんも!」


 願いが通じたかのごとく、二人は体操服のままやってきた。武道場の更衣室はいつも空いていて、千里はよくこちらで着替えてくれたが、まさか芽亜凛も来てくれるとは。

 嬉しいサプライズに「どうしたの、二人とも」なんて、わかりきった台詞が出てしまう。


「凛ちゃん寂しそうだからさ、芽亜凛ちゃんも連れて来ちゃった」

「うん、二人で着替えてると思ったよ。よかったぁ、来てくれて」


 二人は凛の隣のロッカーを使用し、「着替える前にちょっといい?」と扉を指さした。凛は体操服をめくる手を止め、二人に連れられて表に出る。

 窓際に、制服姿の男子――もとい幼馴染の渉がいた。あ、と凛に気づいて手を振り、ポケットから何か取り出して小走りする。


「よう」

「ようって、渉くんまでどうしたの?」


 普段から恋人のように連れ添う響弥はいないようだった。いつメンの誘いを断って部活中に見に来ることはあったけれど、終わってからの訪問とは珍しい。

 渉は緊張した面持ちで、手に持っていたそれを凛に差し出した。受け取って、『遊園地レプスディアランド』の文字を黙読する。


「い、一緒にどうかなって」

「…………」


 思わず声を失った。

 渉は耳を赤く染めて、不安そうに両手を握っている。千里はニマニマと緩む口元を押さえて凛の反応待ち。芽亜凛は変わらずドライな視線を二人に送っている。

 凛は何度もチケットに目を落とした。

 デート。遊園地。渉に誘われ、渉と二人きりで行く。チケットまで用意した完璧な誘い。遊園地デート。渉は幼馴染としてではなく異性として、そして意中の相手として誘っている。こんなふうに準備までされたのははじめてだった。男子から、しかも渉からなんて。


 だがあいにく、凛の頭にはどの考えもひとつとして浮かばなかった。

 声を失ったのは驚きからではない。どう断ろうか、一瞬のうちに悩んだからだった。


「あのね、渉くん」

「私たちも一緒よ」


 すかさず芽亜凛のフォローが入り、凛は予想外の展開に仰天する。


「い、一緒なの? ちーちゃんも?」

「そうだよ。騙したみたいで悪いねえ。二人きりだと思った?」

「うん、思った」

「このこのっ」


 千里は渉を肘で突き、「ドキドキさせましたねぇ、渉くん」とにやつく。

 場の盛り上がりに対して、渉はもやもやを体現したかのような複雑な顔つきでチケットを見ていた。泣き出しそうな、怒り出しそうな。不機嫌なのは確かだ。

「嫌なら別に、いいけど」と、渉が拗ねたように言うので、凛は「嫌じゃないよ?」と返す。

 でも……。凛は横目で、芽亜凛を窺った。


「行って大丈夫かな?」


 こんな目立つ行動を取って大丈夫かという意味だ。日付だって一週間も先である。その間に敵に予定を知られたらマークされかねない。後をつけられる可能性だってあるのではないか。

 そうなれば、特に芽亜凛の帰りが心配になる。千里のそばには凛が付いているが、芽亜凛のプライベートは一人だ。だったらこのイベントには凛は行かず、三人で楽しんでもらうのがいいのではないか? 凛はそこまで危惧していた。


「誰にも話さなければ大丈夫」


 意図を汲み取ったのだろう、芽亜凛は固く言って頷く。なら、大丈夫か……と凛は思案した。


「渉くん、誰にも言っちゃ駄目だからね。遊園地に行くことは四人だけの秘密」

「でも渉くん、そのチケット誰かに貰ったんでしょ?」

「え?」


 そうなの? と渉を見て、芽亜凛を見る。


「大丈夫よ」


 心配しすぎ、と言いたげに芽亜凛はくすりと笑った。

 敵の誘導だったらと警戒したが、それならまず芽亜凛が止めているか。誰に貰ったかも、芽亜凛は知っているだろう。安全ならそれでいい。

 渉と千里は、どういうことだろうと不思議な表情だ。話を変えよう。


「渉くん、響弥くんと一緒じゃないんだね。ここまで付いてきそうなのに」


 凛の言葉に、ぴくりと渉の眉がひずむ。「ああ、うん」と答える渉は、視線が芽亜凛に行かぬよう反対側を向いているようだった。


「最近元気なかったしな」

「なんで――あ、」


 芽亜凛ちゃんか、と凛はようやく気づいた。

 響弥は芽亜凛に告白してフラれたんだったか、そんな噂は小耳に挟んでいる。少なくとも成功はしていないだろう。芽亜凛がテニス部のマネージャーになったため、千里を待つ渉のそばにも寄りつけなかったのだ。


「いいよ響弥のことは。それより遊園地は行く、でいいんだな?」

「あ、うん。四人なら」

「なんだよ四人ならって……」


 それは千里のそばにいられるからであるが、言ったところで真意は伝わらないだろう。

 渉はすでに心の声がだだ漏れのようで、機嫌の悪さが滲み出ている。そして残念ながら、渉がなぜ不機嫌なのかは凛に伝わらない。


「楽しみだねえ」


 千里は芽亜凛に渡されたチケットを見ながらぼやいた。凛は同意して、「そうだねえ」と返す。


「遊園地なんていつぶりだろう」

「――この遊園地、前も行ったよな」

「……え?」


 と声に出したのは、芽亜凛だった。

「そうだっけ?」と凛は首を傾げる。幼馴染として遊園地も水族館も渉と行ったことはあるが、さすがに場所までは記憶していない。


「うーん。四人なんだけど、あと一人男だった気がすんだよな」

「望月さん……!」


 何を言っているのかわからないといった顔で凛と千里は聞き流すが、芽亜凛だけは、はっとしたように声を上げた。


「憶えてるんですか。前の、話を……」


 呼吸まで震えた声だった。常に沈着冷静で臨機応変に振る舞ってきた芽亜凛の動揺っぷりは、まるで幽霊にでも会ったみたいだ。こんな芽亜凛ははじめて見る。


「話っていうか……夢で何度も見るっていうか」

「どんな夢を」


 食い入るように尋ねる芽亜凛の瞳がきつく渉を捉える。逃げられない雰囲気を感じ取って、渉は夢の断片を話した。


「四人で遊園地に行ったり……め、目の前で女の子が死んだり……」

「どんな死に方ですか」

「どんなって……いろいろだよ」

「言ってください」


 芽亜凛は淡々とした口調で言うが、身体がじりじりと渉に迫っていることは自覚していないようだ。今にも襟を掴んで締め上げそうな気迫がある。

 渉はすっかり萎縮しながらも、芽亜凛の圧力に負けてぽつぽつと絞り出した。


「ええっと……包丁で首を斬ったり、窓から飛び降りたり、電車で轢かれたり……って、自殺ばっかだな」

「芽亜凛ちゃん……」


 恋愛には疎い凛だが、芽亜凛の反応には勘が鋭く働く。芽亜凛は色を失った白い顔で、呆然と立ち尽くしていた。――言霊だ、と凛は先日の授業を思い出す。

 正も負も、そこで得たエネルギーは強い記憶となって刻まれる。渉の夢に出てくる少女は芽亜凛であって、芽亜凛でない。そして渉自身も。

 夢の正体は、望月渉という一人の媒体によって保持された、記憶の欠片。渉には、今まで過ごしてきた別の記憶が残っている。

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