第五話
Shall we dance
六月十六日の日曜日。
「よし、行って来い」
調教された犬を送り出すかのように、捜査員の運転手が顎で指示する。目的の会場は夜の闇をかき消す白い光を放っていた。それだけで歓楽街のネオンとは違う、上品な雰囲気を醸し出している。
開かれた扉の先から聞こえる軽快なクラシック音楽が、変装した刑事を出迎えた。ドビュッシーの、亜麻色の髪の乙女である。
会場は飲食可能のダンスホール。ステージ上にはグランドピアノが置かれていて、奏者が一人演奏していた。
明るい照明の下ではすでに男女が手を取り合い、社交ダンスに興じている。客層もまたそれに相応しく、若者ばかりではない、年配の姿もちらほらと見受けられた。誰もがドレスコードを着ており、いずれもここで知り合ったであろう男女と楽しげに会話を交わしている。
女性同伴でない男性はカウンターテーブルへ案内されるようだ。壁際にはソファ席も設けられているが人はおらず、長海は自然体を装ってカウンター席を取った。
ネコメはどこにいるのだろう。長海と同じく会場内を任されたはずだが、ざっと一望してもあのよく目立つ風貌が見当たらない。まだ来ていないのか、別の場所に配備されたか。
定期的に開かれるこのダンスパーティーは、違法な取引がされていると、生活安全課がすでに目をつけていた。堅苦しいタキシードも会員証も、すべて生活安全課が準備したものである。
場違いだな、と長海は肩をすくめた。飲みもしないのにシャンパングラスに手を添えて、一人客のふりをする。まさか潜入先が、こんなきらびやかなパーティー会場だとは。裏口の警備のほうが幾分も長海の性分に向いていた。
「あの子いいな」
カウンター席から男性客の話し声が聞こえる。視線を集めているのは女だった。純粋に容姿が優れているのか、合コンや婚活のごとく出会いを求める会員たちの目に留まろうとしている。長海には無縁の世界だった。
男性客の視線はやがて長海へと集まる。隣に、その女が腰掛けたからだ。捜査に支障が出ることを一瞬ひやりと恐れたが、客たちは男連れかと勘違いしたらしく、すぐに視線を散らしていく。
安堵したのもつかの間、女の手が長海の手に重なった。雪のように白く、薄いピンク色が透けた血色のいい肌――
ぎょっとして隣を見ると、亜麻色の髪をした美女が、化粧を施した顔を向けて微笑んでいた。長海は目を丸くして固まった。
「な……っ」
何をやっているんだ――! と、叫びたくなる衝動を抑え、長海はほかの客に背を向けた。
「お前……っ、なんで女の」
「仕様がないでしょう」
と、女の口から相棒と同じテノールボイスがこぼれる。
「女がいたほうがいいからって、あっちの申し出です」
「だからってその格好はないだろ」
「動きがあるまで恋人のふりでもしてろと言われました」
「くっ……」
無理があるだろと言い切れないほど、美女――否、女の格好をしたネコメは似合っていた。長身のすらりとした体躯にドレスコードがよく映え、細い首筋からは色気が漂う。
なんだか妙な気分だ。いつもの姿を知っているからか。相手は男で、仕事の仲間だというのに。生活安全課の奴らめ、面白がっているな。
ネコメはシャンパングラスを引き寄せて言った。話すのは引き続き小声だ。
「これ飲んでいいんですか?」
「駄目に決まってるだろ。仕事中だ」
「冗談ですよ」
ふふっと笑って、しかしグラスに手を添えたまま客のふりを続ける。ネコメは酒に弱い上、酔うと面倒くさくなるのだ。先週も酔い潰れて爆睡し、長海の家に泊まった。もうこいつと二人で飲むのはごめんである。
「声はどうにもならないのか」
「裏声で話しましょうか?」
「いい。気味が悪い」
「そもそも俺が女に見えるかという点は誰も疑わないんですね」
「女だからだろ」
「大セクハラですよ」
ムッと眉を歪めて抗議するネコメを一瞬不覚にも可愛いと感じてしまい、長海は自己嫌悪に頭を抱える。
自分たちはいったい何をやらされているのか。ネコメもこの警察人生で、まさか女装して捜査することがあるとは思ってもみなかっただろう。いつもは何も思わないのに、視覚効果とは恐ろしい。
「その後の進展はいかがです?」
主語もなく、また唐突にネコメは話を振った。
長海とネコメ。相棒の二人は、プライベートの話をほとんどしない。その代わり、必ずと言っていいほど話題に上がるのが、
「出入りはまだ確認できない」
「そうですかー、こちらも大きな進展はありませんよ」
言葉の割りにネコメが落胆している様子はない。
「家ではほとんど一人のようで、父親は不在。たまに叔母が来てくれるとか」
「いつ話した」
「委員会です」
学校生活をエンジョイしているようで何よりだ、と皮肉は心で消化し、思ったことは口に出す。
「無駄な捜査だな」
「私もそう思います。しかし彼は嘘をついている」
長海が横目で話を促すと、
「彼の叔母は、現在関西で入院中です」
ネコメはニヤリと妖艶に笑った。
「たまに来てくれる女性は、いったい誰なんでしょうね」
長海は思わず、苦虫を噛み潰したような顔でため息をついた。
「まだ俺に張り込みを続けろと?」
男だろうと女だろうと、息子以外の出入りはすべて確認し、報告するようネコメに頼まれている。それが長海に任された張り込みの内容だ。成果は何も得られていないが。
「嫌なら私がやりますよ」
「いい、俺がやる。バレたら首が飛ぶ」
「助かります。食事に誘っても断られてしまいました」
「よかったな。おかげで仕事に専念できる」
「どうやら私は嫌われているようです」
「バレてるんじゃないか?」
「まさか」
相棒は肩をすくめて戯けた。長海も冗談で返したつもりだが、もしもの可能性を考えるとゾッとする。
少年がネコメの正体に気づいているとしたら、それはよほど勘が鋭いか、もしくは警察内部の情報が漏れていることになるのだから。
そうならないよう、ネコメにはあくまでも慎重に動いてもらいたい。もちろん長海も同じ心意気だ。
「タナカさん」と、急に偽名で呼んでネコメは目線で訴えかける。ホールの隅に、アタッシュケースを抱えた男が現れた。売人だ。
ネコメは席を立ち、長海にエスコートを求めるかのよう手を差し出した。長海は、ぐっとうろたえつつもその手を握る。
「どうする気だ」
「探るしかないでしょう。名前も聞けました」
名前? と眉をひそめ、売人の話ではないと察した。
では誰の名前か。
「踊りましょう、長海さん」
「タナカだ」
「私はメイコです」
「……ふざけた名前だ」
夜はまだまだはじまったばかり。ネコメの話もその分長く聞けそうだ。
長海は仕方なくダンスホールを進んだ。天から降り注ぐまばゆい照明のもと、一夜限りのシンデレラとダンスを刻もう。
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