転校生に手を引かれ

 E組に戻る前に休み時間が終了し、響弥から話を聞くことは叶わなかった。あの様子だと、朝霧のことを話そうとしていたのかもしれない。朝霧が休みであること、無断欠席であること。響弥はそういう情報を得るのが人一倍速いのだ。


 そして、すべての活動が終わった放課後。

 響弥と話すよりも先に、渉にはすべきことがあった。


「橘さん、このあと部活?」


 机の中身を片付けていた少女――橘芽亜凛に声をかける。確か彼女は先々週、柔道部のマネージャーになったばかりである。

 芽亜凛は、渉を見て首を横に振った。


「テスト疲れもあるだろうから今日は帰っていいって、顧問の先生が言ってくれました」

「ふうん、そっか……」


 透き通って響く芽亜凛の声は、いまだに渉の耳をざわつかせる。いや、いまだにと言うよりは正反対で、むしろ慣れるのを拒んでいるような気がする。彼女のことを知れば知るほどに、その感覚は大きくなる一方だ。


「――先に行きましたよ」

「え?」


 彼女なりに渉の考えを先読みしたのか、「凛。先に行きましたよ」と芽亜凛は言った。しかしその気遣いは余計であった。


「いや、凛じゃなくて、橘さんに用があって」

「私に? ……何の用ですか」

「ちょっと、……訊きたいことが」


 ――山ほどあります。

 芽亜凛は自分に用があると知った途端、微弱ながらその声色を低くさせ、視線を鋭くした。例えるなら、猫が虎になったような。彼女の豹変ぶりに圧されて、渉はゴクリと唾を飲む。


「……凛だけが部活だからって、改まって妙なお誘いですね」


 芽亜凛は視線を逸らして呟くと、片付け終えた学生鞄を手にして立ち上がる。それから、渉の顔を覗き込むように首を傾げ――


「私と二人きりになりたいんですか?」

「は――――?」


 美少女から発せられた言葉に対し、思わず漏れた声がそれだった。

 じり、と距離を詰める少女に、渉は後ずさる。


(……何を、何を言っているんだ?)


 悪戯っ気を含ませた彼女の大きな瞳に吸い込まれそうになって、渉は息を呑んだ。後退した脚が机にぶつかってガタンと音を立てる。その拍子に渉は一瞬だけ視線を外し、再度彼女の顔を見たときにはもう、瞳から滲み出ていた悪戯っ気は消えていた。


「…………」

「………………」


 芽亜凛は呆れたように目を据わらせて、スイッと姿勢を正した。


「冗談です。声、大きいですよ」


 言われて渉は慌てたが、クラスメートの大半が部活へ向かったり帰宅をしたりで、教室に残っている者は少ない。にもかかわらず羞恥心を駆ろうとする少女の一言。いつもと変わらない、橘芽亜凛がそこにいた。

 距離を詰めてきた小悪魔は――すごく長い時間に感じたが――実際には五秒ほどで姿を消していた。幻覚でも見ていたのか、と思わされる。

 女って怖い……と臆する気持ちと同時に、彼女にからかわれたことに、むかっ腹が立った。

 怪訝な顔つきの渉をよそに芽亜凛は本調子のまま続ける。


「それで、どこでお話を? 教室でもいいですけど……その前に」

「わったるー!」


 芽亜凛がそれ以上を言うよりも先に、前方の扉から滑り込むようにして響弥が入ってきた。当然、いるいないに関わらず明るい声で渉の名を呼びながら。


「一緒に帰ろうぜー! メールしてるのに全然気づいてくれないんだもーん。ゲーセン寄ってくかぁー?」


 響弥は一方的に喋りながら渉の姿を視界に捉えると、手を振りながら近付いてくる。


「っ!? 響弥……!」


 思わぬ爆弾投下に渉は焦った。むろん、渉のそばには芽亜凛がおり、響弥の目に入らぬわけがない。

 渉はずっと感じていた。芽亜凛は響弥のことを避けている。だから遭遇させてしまうのは……何が起こるのかわからない、恐怖心に近いものがあった。何よりそんな場面に、自分が出くわしたくない。


「むっ……あれ?」


 響弥はゆらゆらと、天真爛漫を引っさげて距離を詰める。


「芽亜凛ちゃ――」

「ちいいいい、ちっがうぞ! 人違いだぞ響弥? 今日は、その、用事があってだな?」


 渉は大きく手を広げて、彼の視界を妨害する。今、芽亜凛は後ろでどんな顔をしているのだろう。気になったけれど、目の前の男はその隙を与えちゃくれない。


「へ? 何? なんて? あ、もしかしてぇ芽亜凛ちゃんと一緒に帰れるの!? マジで!? よっしゃあああーっ!」

「だ、だからちが――」


 否定しようとしたそのとき。広げていた手に、冷たいものがするりと伝う。弾かれたように目にしたそれは、芽亜凛の手だった。

 彼女は渉の手を握り取ると踵を返し、「早く来て」と小さく呟いた。




 芽亜凛に引っ張られる形で、渉は教室から連れ出された。彼女は渉が何を言っても手を離そうとしなかった。

 廊下をぐんぐんと進む彼女の表情は見えないまま、一階の空き教室へと連れて行かれる。今日、芽亜凛が中間テストを受けていたと思われる教室だ。

 逃げ込むようにしてなかに入ると、彼女はようやく手を離し、うずくまるように背中を丸めて「……鍵を」と言った。言われたとおりドアのほうを見ると、この教室は内側からでもロックが掛けられるようになっていた。空き教室だからか、扉は少し古いタイプのまま取り替えていないらしい。


 渉は鍵をかける。その間に芽亜凛は、遂にはしゃがみ込んで、胸元を押さえたまま肩で息をしている。

 渉の知らない、芽亜凛の姿だった。

 ――苦しいのか……? 痛いのか……?

 かける言葉を懸念して渉の口から出たのは「……大丈夫?」という月並みな言葉だった。


「大丈夫、です……」


 そうは見えない少女は、渉の言葉をなぞって返した。

 彼女の具合を気にしながらも、渉は後ろの扉にもロックをかけに行く。その間に芽亜凛は、まだ呼吸が荒いながらもゆったりと立ち上がり、大きく息を吸って、吐いて――を二回ほど繰り返した。


「私に話しかけるときは、あの人のこと、撒いてからにしてください」


 落ち着きを取り戻した芽亜凛は、今方息を切らしていたとは思えないすまし顔で言った。あの人というのはもちろん、響弥のことだろう。それほどまでに嫌なのか。


「もう少し早く言っておくべきでした」

「橘さんって、響弥のこと――」

「そんなことが訊きたいんですか?」


 ぴしゃりと言われてしまい渉は口を閉ざす。これ以上の追及は厳禁だと判断した。


「悪かった、次から気をつける」


 空き教室はほかの教室と違って机も椅子も並べられていない。だが臨時用に置かれているものが端にふたつずつあったので、中心に運んで簡易的な席を用意する。

 渉が腰を掛けると、それまでじっと目で追うだけだった芽亜凛も向かい側に着いた。何だか事情聴取みたいだ、と渉は思った。


「事情聴取みたいですね」


 同タイミングでまったく同じことを言われてしまい、ぎくりとする。芽亜凛は悟ったような顔で「どうぞ」と促すのだった。

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