第五話

二人目の欠席者

 素晴らしい朝が来た。

 ……なんてことはなく、今日の天気は曇りのち雨。空は今にも降り出しそうな鼠色をしている。昨日はあんなにもいい天気だったのに。梅雨の時期の晴れの日などそう長くは続かないものだ。

 わたるは、雨天時の自転車通学が大嫌いである。そのためこういった微妙な天気も含めて、雨の日は徒歩通学をしている。今朝は傘を使用せずに済んだが、雨の日の渉の気分は憂鬱そのものだ。


「――で、楽しかったのかよ?」


 開口一番。E組の教室で、渉の席に座っていた神永かみなが響弥きょうやが言った。ほかの部が朝練習をしているなか、彼ら帰宅部は教室でダラダラしていられる。響弥は渉よりも先にE組の教室におり、まるで自分の席だと言うふうに椅子で待ち構えていた。

 まずはおはようじゃないのか? と言いたくなる口をつぐんで渉は響弥を睨む。響弥の言っているそれが何についてなのか、思い当たるのはひとつしかないが……敢えてこう言った。


「……何が?」

「とぼけんなよ、遊園地デートだよ! 四人で行ったんだろ? なあ、どうだった?」

「どうって言われても、まあ……普通?」


 言いながら鞄をドンと机上に置くと、響弥は流れるような動きで前方の席へと移った。渉は入れ替わるようにして自分の席に着く。


「はあああぁ、いいなあ、羨ましいー! 芽亜凛めありちゃんの私服姿も拝めたわけだ? ねえね、どんなのだった、どんなのだった?」


「……女子高生っていうよりモデルみたいだったな」と芽亜凛の私服姿を思い出しながら言う。

 詳しく教えるのも小っ恥ずかしいので、ざっくりと印象を告げたまでだが、響弥は「いーいーなあー!」と机に肘をついて頭を抱えている。遊園地へ行くと伝えたときも羨ましげにしていたし、写真の一枚くらい撮っておいてやればよかったと、少しだけ後悔の念が浮かんだ。


「――ハッ! じゃない、楽しかったかなんてこの際どうでもいいんだよ!」


 ……情緒不安定。親友はいきなり顔を上げて言ったのだった。こんな奴に無駄に良心を湧かせてしまった、と渉は唸りをこらえる。

 響弥はわざとらしく咳払いをし、目だけをきょろきょろと周りに向けてから、顔を近づけた。


朝霧あさぎりって……りんちゃんとはどうなったわけ?」


 進展は防げたのか? と響弥は続けた。

 渉は教科書をしまう手をピタリと止める。ちらりと響弥の顔を見ると、さも興味津々という顔つきでこちらを見ている。

 さて、どう答えるべきか。渉は目を伏せてから口を開いた。


「いや、防げなかった」

「はあ!? ふ、防げなかったって……じゃあまさか」

「お前が考えてるようなことは断じてない」

「でもその言い方じゃ、いい感じのムードにはなったわけだろ?」

「……」


 響弥は、朝霧が凛のことを好きだと思っている。……事実そうだったし、否定の仕様はないけれど、を見てしまっては軽い気持ちで言いふらせない。


 ――夕方の遊園地、帰るばかりの渉と凛を朝霧が呼び止めた時のことだ。彼はどうしても、凛に言いたいことがあると言って続けた。


『僕と、付き合ってほしい』


 まさかこのタイミングで告白なんて、渉も誰も予想していなかっただろう。もちろん全員が黙り込んだ。

 凛は目を丸くしてぽかんとし、芽亜凛は帰る足を止めて、少し離れた場所でこちらを見ていた。渉は、ちょうど二人の間にいる状態でどうしようもなく、じりじりと後退した。

 観覧車で凛に告白をする。そう宣告してきた朝霧の計画は、しかし渉がジャンケンに勝ったことで阻止できた。これで朝霧の告白は防げたと思っていたのだが、甘かった。彼は最初から、この遊園地内で告白しようと決めていたのだ。最適だったのが観覧車というだけで、そうであろうとなかろうと、思いを伝える気だったのだ。

 

百井ももいさんのこと、委員会で一緒になったときからずっと見てたんだ。真面目で、明るくて、活発的で……すごく、素敵な人だと思った』

『あ、朝霧くん……っ』


 真剣な眼差しで見つめる朝霧に、凛は何度も瞬きをしてから、顔を伏せた。

 朝霧はあどけない笑みを無理やり引き戻す。


『急にこんなこと言われても困っちゃうよね、ごめん。返事はすぐじゃなくてもいいんだ――』

『ごめん』


 凛は、掠れた声で、確かにそう口にした。朝霧は『……え?』と、笑顔のまま固まる。

 一呼吸置いて、凛はゆっくり顔を上げると、今度は明瞭に告げた。


『ごめんなさい。私……気になってる人いるんだ』


 言いながら徐々に肩がしょんぼりと元気を失う。緊張が解けていく様にも見えた。それから再び、はっきりとした声を放った。


『だから朝霧くんの思いには応えられない。ごめんなさい』


 深々と、謝罪の意を込めて凛は頭を下げた。小さな体躯がさらに縮こまって、彼らの視界へと入った。

 気になっている人がいるから。

 それは――その人への思いが確かにならない限りは、という意味だろうか。それとも、その人へのケリが付いていないから応えられない、という意味だろうか。しかしそんなふうに考える余裕は、この時の誰にもない。いくら頭の回転が速いとは言え、朝霧もただただ戸惑ってから、くしゃりと笑ってみせた。当たり前だけれど、悲しそうな、どこか寂しそうな目を凛へと向けていた。


『……ストレートに返されちゃったな。気になってる人?』

『うん』

『好きな人、じゃないんだ?』

『へ? ……あ。ええっ!? そうっ……だね。――好き……な人ってことに、なるのかな?』


 なぜか疑問系で返す凛。


『何だか曖昧だね』

『ご、ごめんなさい……』

『……その人って、僕も知ってる人?』

『――うん。私のなかで一番は揺るがないと思う。……だから』

『だから応えられない、か』


 朝霧が言うと凛は軽く頷いた。『その人』のことを口にする凛の口調には、強さとまっすぐな気持ちが滲み出ていた。言葉通り、揺るぎない思いが感じられる。だからだろうか、朝霧の瞳からは寂しさも悲しさもすっかり消えて、冷静で鋭い目に戻っていた。


『でも僕は諦めるつもりはないよ。その人よりも上になるように、僕にも、可能性をくれないかな……?』


 答えが聞けて納得したからなのか、それとも――凛の言う『その人』が誰なのかを察し、自分なら『その人』を容易に踏み潰せるという自信があるのか。彼は折れることなく、切り返してみせた。


『可能性……?』

『このままじゃ、気まずくなる気がして。友達からってことで、それならどうかな?』


 この時の発言を聞いて、渉はピクリと眉を動かしたのだが。


『友達……、わかった。じゃあ、お友達ってことで!』

『うん。よろしくね百井さん』


 というわけで――朝霧の告白とその一部始終が閉幕した。

 この際の凛の『お友達』と、朝霧の言う『お友達から』はまったく異なる意味である。朝霧が言ったのはいわば保険のようなもので、フラれたのではなく『お友達から』はじめることになったという逃げ口上……。


(あいつ……思い出すだけで腹立たしいな。今度会ったら追及してやる)


 昨日のことを思い出して、舌打ちしたくなるのをこらえる。ぐぬぬぬぬ……と渉が歯噛みするなか、響弥は「なあ教えろよ渉ぅ、親友だろお?」と言ってうるさい。

 他人のフラれ話をしたところで渉には何のメリットもないし、むしろ不快な気持ちになるだけな気もする。――おまけに面白がって響弥がいじる可能性もあるし、彼が朝霧と接触すれば話したこともすぐにバレるだろう。考えれば考えるほど悪い結果しか浮かばない。

 とにかく、口外は厳禁だ。


「なあ渉ぅ、渉さーん」

「……知りたいか?」

「えっ」

「本当に――知りたい?」


 淡々とした口ぶりで言ってから、鞄を机の脇にかけて響弥をじっと見つめる。渉のその鋭い眼光を受けて、響弥はゴクリと唾を飲んだ。


「……な、なんだよ、急に。怖いぞ」

「どうなんだ、響弥?」

「…………え……っと」

「じーーーーーっ……」

「わ、わかった! 訊かない、これ以上はき、訊かねえよお!」

「……そうか。お前が俺の知ってる響弥でよかった。命は大事にしないとな」

「だから怖えって!」


 不敵な笑みを浮かべる渉に、響弥は戦慄する。適当に言葉を並べて凄味を利かせるだけで怯んでくれる――チョロい、と渉はほくそ笑んだ。

 それにしても、


(――凛の気になっている人……好きな人……)


 朝霧も知っている人。

 凛が自分のなかで『一番』だと主張する人。

 それはいったい、誰なんだろう……と。鈍感極まりない少年は思うのだった。


    * * *


 昼休み。渉は響弥といつものように昼食を共にしていた。すでに弁当を食べ終わっていた渉を見て「相変わらず早いな」と響弥が突っ込む。教室には凛も芽亜凛もおらず、響弥は彼女らを探すようにE組に目を這わせた。


「二人なら別教室だと思うぞ。たちばなさんが中間テストを受けてるから、凛もそっちで一緒に食べてるんじゃないか?」


 渉は響弥の思考を先読みして告げる。芽亜凛は昼休みだからといって、いちいち教室に戻ってくるタイプではない。そのため、凛がそちらに向かったという次第だ。

 何だか、響弥がいるときは芽亜凛が教室にいない気がする。……もしかしたら避けられているのかもしれないが。

 響弥は『ふーん』と返事をして焼きそばパンを口に詰め込んだ。避けられている自覚はないのだろうか。

 渉はふと、彼の後ろの黒板側――教卓の前で紙切れを手にしている担任の石橋いしばし先生に目を向けた。石橋は次の授業で使うプリントを昼休みのうちに持ってきたらしく、用紙に目を凝らしていた。

「A組に寄ったんだけどさ」響弥が話しはじめたので渉は石橋から視線を外す。そして続きを言う前に「望月もちづき――」と。

 呼ばれた渉は、声の主である石橋を見た。響弥もつられて振り返る。石橋はプリントを手にしたまま、ひらりと掲げてみせた。


「ちょっと頼んでもいいか?」

「ははーん……ご指名のようだな」


 半笑いで言う響弥の呟きを耳にしつつ、渉は席を立つ。


「次の授業で使うプリントなんだが、A組のと間違えてしまった。職員室まで取りに戻るから、これ、A組まで届けてくれないか?」

「ああ、はい。了解です」


 渉の返事を聞くと石橋は颯爽と出ていった。

 ちょっと行ってくる、と告げようとして響弥を見ると、彼はわかりきっている様子で手を振っていた。響弥もちょうどA組について話そうとしていたようだが、話は残念ながらお預けのようだ。

 朝霧に会うかな……と、期待と不安を秘めて、渉はA組の教室へと向かった。




 藤ヶ咲北高校のA組は特進クラスとされている。入学前の説明会で特進クラスへの希望調査が行われ、希望者のみが人数と成績次第でA組に入る。ほかのクラスと比べて授業のレベルが高く、当然ながら進むスピードも速い。また、A組だけは授業外での課題が毎日用意されている。

 そんなA組に、渉はプリントを渡すべく足を運んだ。昼休みなのに勉強している生徒ばかり……なんてことはなく、昼食を取って談笑していたりと、風景はほかのクラスと何ら変わらない。

 先生は不在、となればクラス委員に渡すのが一番なのだが。


(いないのか……)


 朝霧修――A組の委員長でもある彼の姿は見当たらない。校内を行き来しているのか、それとも生徒会執行部の仕事で忙しいのか。まさか凛を追って別教室にいるなんてことはないよな……?

 とにかくさっさとプリントを置いて出よう。渉は、近くにいた男子に事情を説明してプリントを渡す。男子生徒は快く受け取ると「先生の机に置いとけばいっか?」と独り言のように言った。

 渉はただ頷いていたが、気になってしまったので、この際訊いてしまおうと思った。


「ねえ、朝霧修くんって、どこにいるか知ってる?」

「どこ……ってどういうこと?」


 妙にかしこまった顔をして、質問を質問で返されてしまった。てっきり、知らないだとか、あそこにいるよだとか、憶測でもなんでも、居場所を教えてくれるかと思った。

 渉は眉をひそめる。

 どういうこと、とはどういうことだ?


「ほら、教室にいないから。えっと、職員室とか?」

「ああ……そういうことか」


 男子生徒は一人、納得したように呟く。


「朝霧くんなら休みだよ」

「へ……? そうなんだ……風邪とか?」

「いや、よくは知らないけど無断欠席だってさ」

「無断欠席?」


 思わず目を見開いた。少し声が大きかったかもしれない。優等生の文字を具現化したようなあの朝霧修が、無断欠席……。


「朝霧なら家に帰ってないらしいよ」


 今度は後ろから、別の男子に話しかけられる。渉は振り向いて、動揺を隠しきれない様子で問う。


「どっ、どういうこと?」

「彼、誰にでも優しくて、誰からも好かれてたけど……家族とはうまくいってないみたいなんだ」

「A組じゃ一年の頃から有名な話だよ」


 二人は端的に教えてくれた。その話しぶりから言葉どおり、A組内ではだいぶ知れている事情なのだと伝わる。


「知らなかった……」


 二人とは相反して曇り顔で言う渉に、男子生徒の一人は「ほかクラスじゃ仕方ないよ」とフォローのような一言をくれた。


(そうじゃなくて……)


 ふつふつと、朝霧への罪悪感や後悔の気持ちが湧き立つ。

 たった一日、遊園地を共にしたくらいで彼のすべてがわかるわけではない。朝霧はそんな素振りは何も、一度も見せなかったし、何ひとつこぼさなかった。

 ――それが悔しい。

 あんなに近くにいて、話をして、一緒に遊んだ仲なのに。少しくらい……言ってくれてもいいじゃないかと。相談してくれてもいいじゃないかと。

 朝霧と、そしてそれを見抜けなかった自分に対して、腹が立った。


「欠席は珍しいけど、誰かのところに泊めてもらってるだろうし、明日には来ると思うよ」

「既読、ついてないけどな」

「あ、それ俺も」


 男子生徒二人はハハハと笑い合っている。

 何がおかしいのだろう。どうして笑えるのだろう。渉は二人に対して冷えた感情を抱き、黙ってA組を後にした。朝霧修の抱えている問題が、周囲には笑い飛ばせるくらいの『当たり前』であると知って、気持ちが悪かった。

 みな深く考えたくなくて上辺だけで彼のことを見ているのかもしれない。それが普通の人間だとも思う。けれど渉は、彼の助けになりたいと思った。

 ――次会ったら、朝霧のこと、ぶん殴ってやろう。

 俺のこと、もっと頼ってもいいんだよって。

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