あいつ
テストが終了して帰るばかりの放課後。クラスメートはカフェやボウリング、カラオケに行く話をして教室を後にする。凛は約束どおり図書室で勉強会をしようと席を立ち、渉は「悪い、A組に寄ってくから先行ってて」と不機嫌そうに告げて離れていった。
芽亜凛の表情は暗かった。放課後渉くんと三人で図書室に残らない? と誘ったときは嬉しそうに頷いたのに、休憩の合間やホームルームの時間、彼女はどこか上の空だった。
――その理由は、図書室に向かう途中で明らかになる。
「え、それほんと?」
「マジで、やばいんだって。C組それで今大慌てで」
「職員室行くの禁止なのに」
「用があったんでしょ。そこで聞いちゃったんだって」
「こわーい」
他クラスの女子生徒が廊下でキャッキャと噂話に花を咲かせている。千里や響弥のいる『C組』という言葉が耳に入って、凛は芽亜凛に「何の話だろうね」と尋ねた。
芽亜凛はひとけのない渡り廊下で、凛の鞄の端をきゅっと掴んで引き止める。
「逮捕されたの」
「――え?」
声を落として、芽亜凛はもう一度言った。「あの人が、逮捕されたの」と。
理解がゆっくりと根を張り追いついてくる。響弥が逮捕された。その情報がテスト終了後に出回り、二年生を中心に広まっている。
「私……怖いの」
それはストレートな弱音だった。千里たちが誘拐されたとき、冷静さを失った凛を、大丈夫だと。落ち着いて、と強くなだめてくれたあの芽亜凛が、折れそうな声で訴えかける。
凛と渉のキューピッドが、目尻を下げて怯えている。
「あの人が逮捕されたとき、私も……捕まったの。今日みたいに逮捕情報が出た帰りに、彼……私の家にいた」
図書室に誘われて芽亜凛が嬉しそうだった理由がわかった、家に帰るのを恐れたからだ。
「逮捕理由は?」
「わからない……」
「全部解決したわけじゃなさそうだね。一日で出てこれたってことは大した理由でもなさそうだし。補導されて先生が迎えに行ったとか……?」
だがそれでわざわざ逮捕などと仰々しく言うだろうか。
噂だけでは輪郭が掴めず、わからないことだらけ。裏側の悲劇を知らぬ少女たちには、薄暗い真実など想像もできない。
「勉強が終わったら芽亜凛ちゃんちに送ってくよ。それで家のなかを調べたら、私の家に行こう。前みたいに」
先週はとんぼ返りする芽亜凛を、凛の母が車を出して送ってくれた。しかし今回は違う。とんぼ返りなんてさせない、する必要ない。
凛は芽亜凛の横顔に背伸びして、「でね、今日はお泊りね」と、こそっと耳打ちをして笑った。
「いいの……?」と遠慮する芽亜凛に、凛は「もちろん!」と胸を張る。
たとえ家中くまなく探して安全を確保し、今日が防げたとしても、明日芽亜凛が一人で登校するときにさらわれてしまったら――? そんな少しの危惧さえ、凛は許さない。
芽亜凛の不安は凛が完璧に打ち消す。女の子が家で一人で怯えて暮らすなんて、そんなのはおかしい。――芽亜凛ちゃんのことは私が必ず守る。
凛は芽亜凛の手を引き、軽やかにスキップした。芽亜凛の顔には自然と笑みが戻っていて、彼女はきゅっと凛の手を繋ぎ返した。
「デマだろ」
女子生徒らの突き出したスマホ画面に目を留め、渉は鋭い口調で言い放つ。「悪趣味だな」
凛たちとは別の席で問題集を広げている女子生徒三人は、「え、でもー……」と顔を見合わせ反論した。
「もう噂になってるし、逮捕って書いてあるし……」
「そんな掲示板信用できないだろ」
「これ藤北の掲示板だよ、知らないの?」
「承認された生徒しか書きこめないサイトだよ、だからみんなホンモノ。本物の在学生」
図書室の空気が徐々に肺に通せないほど凍りついていく。凛は作りかけのてるてる坊主をじっと見つめて、意識をそちら側へ傾けた。
渉は、はあ、とため息混じりに続ける。
「誰が書いてるとかじゃなくて、信憑性がないってこと」
「だから
「お前らほんとにA組の生徒?」
「はあ? お前って言わないでくれる? てかなんでそんなにキレてるの」
「お前らが馬鹿な話してるからだ」
「意味わかんない! ねえ、
女子の一人が甘えた声で朝霧に助けを求める。三人と渉の間で板挟み中の朝霧は「まあまあ……落ち着いて」と場をなだめた。
凛と芽亜凛と渉でするはずの勉強会は、朝霧を含めたA組の生徒四人を加えてはじまった。図書室で合流した渉は到着して早々、「勝手についてきちゃってさ……」と凛に小声で伝え、A組女子は何かと朝霧を呼んでは勉強を見てもらっていた。
三人組が「えーっ! 嘘!」と声を上げたのがつい二分ほど前のこと。驚いていたのは、C組男子逮捕の件だった。藤北の裏掲示板で、情報が出回っている、と。
「書きこむほうも馬鹿だし信じるほうも馬鹿だ。サイトの管理人はもっと馬鹿。顔が見てやりてえな」
渉は、ふんっと鼻を鳴らして女子たちを煽る。親友のことを面白おかしく騒ぎ立てられ、腹が立っているのだろう。逮捕情報を鵜呑みにせず、徹底的に否定した。
普段は大人しいはずのA組の女子たちは機嫌を損ねて「行こう」と、続々と席を立つ。「朝霧くんまたね」とちゃっかり朝霧にだけは挨拶を交わして、台風のように去っていった。
朝霧は凛と芽亜凛に気を遣い、「ごめんね」と苦笑する。
「う、うん。大丈夫」
「びっくりだね、神永くんが……」
「だから違うって」
お前まで何なんだよと、渉はA組女子が去った後でも苛立ちをあらわにする。
凛は呆れて芽亜凛の様子を窺ったが、彼女は問題集に視線を落とし、黙々とペンを動かしている。まるで、何を言っても無駄だと諦めているようだった。
よそ見をしたのが災いとなり、布に通した針が滑って凛の人差し指に刺さる。
「痛ったぁ!」
痙攣したように手を振って、凛は思わず声を上げた。人差し指の腹に赤い血玉がぷっと浮かぶ。
「大丈夫?」
芽亜凛がハンカチを差し出すが、凛は「いいのいいの」と自分のハンカチで止血する。「何やってんだよ」と背後で渉が覗きこみ、生徒手帳から絆創膏を取り出した。こういう気遣いはできるのになぁ……と凛は少しだけ感心する。
「ありがとう。でも渉くん、女の子にああいう態度はどうかと思うよ」
「……悪い」
その素直な気持ちを凛以外にも表せたら合格点なのに。渉と芽亜凛の仲を取り持つための勉強会は、話題も振れない雰囲気となってしまった。
朝霧は椅子に座って、「上手だね」と凛のてるてる坊主を指さす。
「えへ、ありがとう。でも芽亜凛ちゃんのほうが上手」
芽亜凛に教えてもらうために持ってきた、作りかけのてるてる坊主。真似をして作ってみたが、これが意外と難しい。料理は渉に勝てなくても、裁縫は彼より上手でいたい。
凛は指に絆創膏を貼って、土砂降りの外を見つめた。分厚い雨雲が街を覆って、音と活気を吸いこんでいる。
「嫌な天気だね」
人々の鬱屈が排水溝に流れていく。踊りたくなるような笑顔は消えてしまった。この空の下で悲しいことが起こりそうな、そんな気配を感じ取った。
* * *
壁のスイッチを指先で探って、部屋の明かりをつける。マカロン型のキャットベッドで丸まっていたユキは眩しそうに目を細め、ソファーに死んだように倒れこんだ長海の胸に飛び乗った。
長海は額に手を当てて、まばゆい光を遮断する。愛猫を撫でる余力もなく、ソファーにぐったりと背中を預ける。
二十二時からはじまる捜査会議の前に長海の謹慎処分は決定し、女子高生拉致監禁事件の捜査を外された。上司からは疎まれ、同僚からは石を投げられる。失望の声があちこちから聞こえた。警察人生はじまって以来の大失態を犯してしまった。
響弥は夕方には釈放され、今頃家でのんびりと羽を伸ばし、長海に向かって唾を吐いては中指を立てて嘲笑っているだろう。
愚かなことをしたと、後悔している。ネコメを置いてあの家を出るべきじゃなかった。扉を叩き、力づくでも開けるべきだった。証拠を見せて応援を呼ぼうなどと考えたが最後。壊れたデータは何の役にも立たず、希望を奪って手から逃れた。
後悔をしたところで、すべて手遅れだ。大人を欺いた神永響弥は、長海の謹慎を酒の肴にしてケーキでも食っている。
長海は重たい瞼を開けて、身体を起こした。胸ポケットから手帳とペンを取り出し、びっしりと書きこまれたメモと向き合う。
昨夜、神永家にいた人物を協力者Xとしよう。Xは響弥の関係者で、ネコメが来る前から神永家に潜んでいた。倒れたネコメを脱衣所――開かずの扉に押しこみ、響弥に代わって隠した。
長海が響弥を連行した後、Xがネコメを別の場所に移動させたとは考えにくい。あの家には今もネコメが囚われていて、おそらくXもいて、さらに響弥も戻った……。
――いいのか? 俺はこんなところで、手帳と向き合うしかないのか……?
長海は誰よりも規律を重視してきた。真面目過ぎる、と仲間にからかわれるくらい、真剣に誠実に、誇りを持ってこの仕事に携わった。悪を憎み、被害者に寄り添い、ときには熱く憤ってきた。
そんな生真面目な長海十護は、自由気ままで無鉄砲なネコメといるうちに、徐々に作り変えられていった。雲を掴むような悪に立ち向かい、二人で証拠を見つけ出して未然に防ぐ。そんなドラマチックな理想を追い求めて、この目で本物の悪と対峙した。
なりふり構っていられない――相棒の言葉に、長海は同意した。偽りの叔母を逮捕し、女子高生を救い出し、そうして届きそうになった白い尻尾。
また逃げられる。逃していいのか。このまま何もできずに、終わってしまうのか。
ジャケットの内ポケットで、電話のみ使用可能となったスマホが震える。上司からの叱責だろうかと画面を見、表示された名前に長海の時間は停止した。
『あいつ』だった。いつでもすぐに連絡できるよう、わかりやすくそして五十音順で上に来るように設定した、『あいつ』という登録名。
ネコメの携帯番号だ。
長海は画面をタップし、恐る恐る耳に当てる。ザーッというノイズ音が、長く長く続いている。「もしもし……?」と、こちらから声をかけると、通話はそこで音もなく途絶えた。
何者かによる無言電話。長海の額に、暑くもないのに汗が噴き出る。
――これは……、井畑のときと同じ手口だ。
無言電話による居場所の知らせ。場所は、発信元を見なくてもわかっている、坂折公園だ。
長海は家を飛び出した。頭で考えるよりも先に身体は動き、心は前へ前へと突き進む。土砂降りの雨のなか傘も持たずに車に乗り、目的地をナビで定める。
坂折公園は、一マイル先だ。
雨の奏でる哀歌が、視覚も聴覚も奪っていく。革靴に泥水が染みこみ、跳ね返った水滴がスラックスの裾を濡らした。
前が見えなくてもわかる、公園のまんなかで横たわる人影がある。黒い、黒い、塊だった。
長海は頭から爪先までずぶ濡れになり、立ちすくむ。轟々と降る雨の音と、世界中のすべての音を消した無音とが、耳の奥でプツプツと繰り返されていた。降りしきる雨のなかで、それはまさに『恐怖』だった。
見たくないものが目の前にある。『それ』を確認したら叫んで狂って壊れてしまいそうな、自分自身の理性が怖い。
暗闇に、足を踏み入れる。公園の街灯はひとつもついていない。黒い塊が大きくなっていく。赤くて、黒い――――雨を含んだモッズコート。
泥水の上で、ネコメは小さく横たわっていた。大粒の雨が身体を打ち、染み出た血と混ざり合って地面の色を変える。
美しく自慢だったはずの金色の髪には鮮血が、まばらになって滲んでいた。頬が真っ赤に濡れている。閉じた目から滝のように流れ出ているのだ。
長海は膝から崩れ落ち、抱き締められない手で泥水を削った。爪の間まで土を握った拳が震える。
声もなく、嗚咽した。やるせない夜だった。
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